第132話 家族の温かさ
「アリアちゃん、ちょっと気分転換にお出かけしよっか」
「あ……はい」
それは彼らがローレ・ライに到着した日から数えること四日前のこと。
ジュリエンヌがそう言いだしたのは、唐突でも何でもなかった。
何しろアルバトールたちがヘプルクロシアへ向かってからのアリアは。
皿を割ること、一日に二~三枚。
早朝、朝の到来を告げるために館のカーテンを開ける途中、その中にくるまって隠れ、通りかかったジュリエンヌを脅かしたり(待ち伏せの練習らしい)
洗濯物を干していたと思ったら、洗濯物を干すロープに昼前までぶらさがったり(肉体の鍛錬らしい)
ジュリエンヌにおやつを持って行く途中に、それを食べてしまうことは一週間に三回からひどい時には五回(ジュリエンヌ的にはこれが一番重大な問題だった)
もはや、アリアの精神状態に異常の兆候があるのは疑いのない所だった。
「と言うことなんだよ、ベル君」
「私はベルトラムではありませんが」
そこは騎士団詰所の二階にある、薄暗い執務室。
ベルナールが久しぶりに詰所で仕事をしていると、けたたましい音と共にいきなり扉が開き、机に手をのっけてバンバンと叩いているつもりだろうが、上背が足りない為にペシペシと情けない音しか立てられないジュリエンヌが現れたのだ。
「今そんなことはどうでもいいの! フォルセールの危機だよベル君!」
「後ろに居るアリアの顔色が優れないことが、ですか?」
「風邪をひいたらオケアノスが股引だよ!」
「……ジュリエンヌ様、少々お待ちを。レナ、エレーヌを呼んできてくれ」
「判りました、ベルナール団長」
頭痛を堪えるかのように眉間に指を当てたベルナールが、レナに一人の人物を呼んでくるように言う。
しかし子供への愛情としつけに定評があるエレーヌを連れたレナが、執務室に戻って来た時には既にジュリエンヌの姿は消えており、苦笑を浮かべたベルナールと、自分に何が起こっているか理解していないアリアの二人しか居なかったのだった。
「と言う訳なの! もういやんなっちゃうよ! ベル君たら、あたしの言うことぜーんぜん聞いてくれないんだよ!」
「あらあら、もうベルトラムがこちらに戻ってきたのですか? 意外と早く片がついたものですわね」
「違う違うよ全然違う! あたしが言いたいのは、アリアちゃんが最近ぼーっとしてて、ベル君もいないから、フォルセールの執務が滞っちゃっててもう大変なんだから! あたし一人じゃどうにもならないよ! ラファエラちゃんもそう思うでしょ!」
「ですがベルナール様は騎士。家事全般のお役には立てないかと」
「うきぃぃ! ラファエラちゃんまでそんなことを!」
騎士団の詰所から姿を消したジュリエンヌは、今度は教会に姿を現していた。
興奮を隠しきれない様子でエルザとラファエラの二人をまくしたてる姿は、どれほど好意的に見ても侯爵夫人には見えない。
率直に言うと子供がかんしゃくを起こしている姿そのものだったが、敢えてそれを指摘する者もいない優しい空間を保持したまま会話は進められた。
「冗談ですわジュリエンヌ様。要はシルヴェール様やフィリップ様の執務を横で支えてきた、いわば執務の潤滑油となっていた者たちが、こぞって居なくなったり気が抜けたりしたものだから、お二方の執務が滞るようになった、と言うことですわね?」
「うんうんうんうんうん! そうそうそうそうそうなんだよエルザちゃん!」
熱心に頭を上下に振り回すジュリエンヌを見たエルザは、傍らにいるラファエラへ顔を向け、慈悲深く穏やかな微笑みを浮かべる。
「ダメですよ司祭様」
だが微笑みを向けられたラファエラは、その薄っぺらい慈悲の下に潜む真っ黒なモノをあっさりと見抜いており、即座にひきつった笑みを浮かべて全力で拒否をした。
「あらあら、まだ何も言っておりませんが」
「この前も黙って出かけたと思ったら、快気祝いとか言って無駄遣いをしてきましたよね。あれだけ溜めるのにどれだけ苦労をしたとお思いですか司祭様。フォルセールでおとなしくしていて下さいませ」
この場合の無駄遣いとは、せっかく回復した力をアスタロトと会った時にエルザが消費してしまったことなのだが、それを表だって言う訳にはいかないラファエラは微妙な言い回しで牽制し、エルザもあっさりと諦めて他の人物を推挙する。
「仕方ありませんわね。では自警団の者を紹介いたしますわジュリエンヌ様。聞けば魔族もアギルス領やヘプルクロシアに主だった者を送り込んだ様子。今ならこちらもそれなりに戦力を送り出せるでしょう」
こうしてアリアとエステル、エレーヌはヘプルクロシアへ発つこととなり、姉妹が不在の間に何をしでかすか判らないからと言うことで、エンツォも連れていかれることとなったのだった。
リュファスとロザリーの首根っこを掴んだエルザから見送りを受けて。
「えっと、ローレ・ライに着きましたけど、これからどうすれば良いのでしょう」
テイレシアはおろか、フォルセール領の外にすら出たことのないアリアは、船から降りた途端にまごついてしまい、エステルやエレーヌに伺いを立てる。
「うむ、アリアは旅に出るのは初めてであったか! ではこのエンツォがじっくりしっぽりと教えてしんぜようゴッ!?」
エレーヌに口封じをされたエンツォに代わり、エステルが優しく説明を始める。
「ええと~、あそこですね~。入出国証が正規の物かどうか~あの建物で調べますから~、あそこにまず行きましょうか~アリアさん~」
「は、はい!」
「手続きが終わったら~、姫が本当に王都にいるかどうか~この街の情報通に話を聞きにまいりましょうか~。少々トボけたご老人ですが~持っている情報は確かな物ばかりですよ~」
アリアはエステルが話した予定を頭の中で繰り返し、その後ろについていく。
しかし物心ついてから初めての旅と言うことで、周りの聞くもの、見るもの、匂うものすべてが新鮮に感じる異国の地に、アリアは少々浮付いた気分になっていた。
だから、もう少しで彼女は誘拐されるところだった。
大きいカバン、落ち着きのない挙動、いつものメイド服では無く、薄い黄色のワンピースに白い上掛け、大きな日よけの帽子は彼女を良家の子女に見せており、禁制品の輸出すら厭わないこの街のならず者たちに、目を着けられたのだ。
もしもエンツォがタイミングよく気絶から目覚め、ならず者たちを追い払わなければ、アリアはどこかの国へ売り飛ばされていたことだろう。
「さて、どうするエステル、エレーヌよ。お前たちもしばらく旅から離れていたせいか、勘が鈍っているのではないか?」
姉妹の短い謝罪の言葉を聞くと、エンツォは蒼白になったままのアリアの背中を軽く叩き、豪快に笑ってみせた。
「エステル! 入国の審査が済んだのなら何か美味い物でも食いに行かんか! ワシャあ腹が減って仕方が無いわい!」
「先に行く所がありますので、食事はその後に致しませんか? あなた」
「エンツォ、腹が減ったのなら目の前に海があるのだから、飛び込んで好きなだけ魚を獲ると良いだろう」
「船に乗る時、ワシは泳げんと言ったじゃろうが! いいかげんにせいエレーヌ!」
いつもと変わらぬ三人の様子を見たアリアは、ホッとすると同時に、自分の非力さを思い知る。
アデライードが誘拐されてからこの方、鍛錬は欠かさなかったと言うのにいざとなれば恐怖で体は固まり、頭は何をしていいか判らないままに暴漢に拘束され、皆に対して何もできないどころか、新たな問題を増やす所だったのだ。
「ふむ?」
茫然自失と言った表情から一転。
今度は放っておけば、いつまでも悩んでいるのではないか、といった様子を見せるアリアに、エンツォは背後から無造作に近づいて、その肩を自然に抱き寄せる。
「落ち込んでおるのうアリア。今日がダメなら、明日なんとかすれば良かろう? 悪いことを何でもかんでも自分ひとりで背負い込むような、欲張りな真似はせんことじゃ。少しはワシらにも苦労をさせんか」
その言葉に不思議な温かさを感じたアリアは、伏せていた顔を上げた。
「姫様に会った時に、我々がする分の土産話が無くなるからのう! ハッハハ!」
そう言って再び笑い声をあげるエンツォをエレーヌがうるさいと怒鳴りつけ、その隣でエステルがほがらかな笑い声をあげる。
家族とは、このようなものなのだろうか。
孤児であるアリアは目の前に広がる温かい光景を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「じゃあ行きますよ、アリアさん」
「は、はい! お母さま!」
うっかり口をついた言葉に気付いたアリアは、途端に真っ赤になってうつむき、それを見たエステルはきょとんとした後、口に手を当てて笑い出す。
「私、アリアさんのお母さまですか~……あ、でもそれも良いかもしれませんね」
ひとしきり笑った後、彼女たちはローレ・ライの中心部へと足を向けたのだった。
そして次の日、アガートラームの妻であるヴァハに見送られながら、アリアたちは王都ベイキングダムへ向かう。
エステルが言っていた情報通とは、アガートラームのことだったのだ。
残念ながらアガートラーム本人は所用で留守だったが、その間の指示は出しており、驚くべきことにその中には、フォルセールから使者が来た場合のものまであったのだ。
その指示に従い、ヴァハはアガートラームの紹介状をアリアたちに手渡すと、アルバトールたちの時と同じように持て成しをし、門の外まで見送りに出てくれていた。
気さくな態度で接してくる彼女にアリアは好意を持ち、いつか自分もああなりたいと思いながらこちらを見送るヴァハに手を振り返し、街の外へと歩いていった。
「ヴァハさんって、神様だったんですね……街中で大声で夕食の話をしたりとか、買い出しの時に値切り交渉を始めたりするものだから、私てっきり普通のオバ……ご婦人かと思ってました」
「あら~、まぁ似たようなものかしらね~。モリガンさんと違って、自分が戦場に出ていくことはめっきり減ったって言ってましたから~」
「モリガンさん?」
「ヴァハさんのお姉さんですよ~。ええと~? とりあえず王都に行きますかアリアさん~。なんだか戦いになりそうですから~、早めに行って警戒が厳しくなる前にパパッとお城の中に入っちゃいましょう~」
戦いと聞いて身構えるアリアとは正反対に、他の三人は何事も無いように歩き出す。
豪気なのか、それとも何か考えがあるのか。
心の中で一つ溜息をつくと、アリアは先行する三人に追いつくために小走りでローレ・ライの中を進み始めるのだった。
一方、いきなりの来客であった四人の姿が消えると今日のヴァハさん……ではなく、アスタロトはすぐに館の敷地内に戻っていく。
[ふ~ん、ああ言う子たちが好みなんだ]
[誤解ですアスタロトさん未遂ですよ]
不穏な空気が漂う庭。
そこに生えている数本の木の一つに、黒いモヤで縛られたバアル=ゼブルが吊り下げられていた。
[また占い師の姿にしてくれ、なんて言うから何かと思えば、お背中お流ししま~す。なんて言いつつ、あの子たちが入ってるお風呂に突撃しておいて未遂? それはちょっと通らない話かなぁ。今日はとことん付き合ってもらうよ、愛しい弟]
[せっかくですが遠慮します]
[あのエンツォって子の肉体はきっちり瞼に焼き付けておいたから、遠慮はいらない。ゆっくりお休み、マイブラザー]
[待て待て、戦いの前に味方を弱らせる奴がどこに……ヒィァァァッー……]
迫りくる無数の全裸。
その生々しいムキムキでムチムチのテカテカしているエンツォの肉体を瞳に焼き付けられ、バアル=ゼブルはもがき苦しみ始める。
全身を走るむず痒さに耐えきれず、彼は両手で片っ端から体をかきむしろうとしたが束縛されている身ではそれも果たせず、絶叫をあげる痛みでその代用とする。
まさに地獄の責め苦。
そんな彼の脳内イメージ的には、今のアスタロトの形相は鬼のように耳まで裂けた赤い口から、長い長い蛇のような舌を出しているものだった。
[あぁ……惚れ直すよバアル=ゼブル……その顔があれば数日はおかず不要さ……]
精神的拷問に耐えきれず、空中でのたうち回るバアル=ゼブル。
その凄惨な姿を潤んだ瞳でアスタロトは見つめていたが、不意に右手に鳥の羽根を作り上げた彼女は、舌を伸ばして自分のねっとりとした唾液をたっぷりと含ませると、目の前でのたうつバアル=ゼブルの脇や足の裏に、軽く這わせはじめる。
[ちょまっ……! ヒィヘェーッヘヘェーラロロォールノォーノナーァオオォー!]
数時間後。
アスタロトは目の前の弟が気を失っていることに気付く。
ついでに重要な用件を忘れていたことにも。
[あ、マズい。天使たちが出陣しちゃってるじゃないか! ちょっとバアル=ゼブル! 気絶してる場合じゃないよ!]
口から泡を吹いているバアル=ゼブルをゆっさゆっさと揺り動かしながら、あいつらが来なければこんなことには、と言ってアスタロトは責任転嫁を始めるのであった。