第12-2話 天使の眼
体の節々が痛み、首と肩が殊更に痛むが、筋肉痛によるものではない。
修行の二日目は、そんな最悪の朝から始まった。
(ふう、体中が痛いな……それにしてもあのドワーフの夫婦、剣を打ち直すと言っておきながら、まるで鎚の音とか聞こえなかったな)
「おはようございますアルバトール卿。食事の準備が出来ていますわよ」
「あ、はい。すぐに参ります」
起き上がった彼が食堂に向かうと、そこにはヒゲや髪に色取り取りの結晶をつけたドワーフの夫婦が、新しい剣を持って立っていた。
「そんじゃこれが打ち直した剣になるだよ。この礼拝堂の地下で掘れるミスリルを使ったから、天使様の力にも耐えれるはずだ」
「いくらなんでも早すぎませんか!? 昨日の今日ですよ!」
「久しぶりに夢中になれただよ。農作業もおもしろいが、こっちの方がやっぱ性に合ってるだな」
「はぁ……しかしミスリルが掘れるとは一体」
「内緒だ」
彼に迫りくるドワーフの表情は変わらない。
血走っているその目を除いて。
「いやもう掘れるってバラしてますよ」
「内緒を内緒だ」
「……よく分かりませんが他人には言わないようにしておきましょう」
「はいはい、それではお祈りを捧げますわよ」
話がついた直後、エルザが手を叩いて強制的に会話を打ち切り、すぐに全員で祈りを捧げて朝食を摂り始める。
(ちょっとだけ……)
アルバトールはエルザがドワーフ夫妻と話し込み、彼の方を向いていないのを確認すると、パンをかじりながら渡された剣の刀身をこっそり覗き見た。
(これは……)
彼は自分が生唾を呑んだことにさえ気付かなかった。
魂が飲み込まれるような、吸い込まれるような輝き。
彼はこの礼拝堂が、なぜ秘匿対象なのかを理解した気がした。
「いてっ」
「食事中に行儀が悪いですよ」
ついでにエルザに注意されていたことにも気付かなかった彼は手を叩かれ、涙目になりながら剣をしまったのだった。
朝食後、農作業に向かうドワーフの夫妻を見送ったアルバトールは、食事の後片付けを終えたエルザが告げた内容に唖然とした。
「さて、今日は法術を修めて頂きます」
「え? もう次の術に……と言うか聖天術は昨日で終わりなのですか?」
意外そうな顔をしたアルバトールに、エルザはこくりと頷く。
「聖天術は神気を自分の望む形で放出、相手にぶつけるものなので、正直あまりやる事が無いのです。注意点としては攻撃にしか使えない、と言う事でしょうか」
「主の力を使う割には、随分野蛮な術ですね」
「仕方ありませんわ。天界と物質界は支配する法則が違いますので、癒しの力を得るには聖霊の力を借りるしかないのです」
「つまり天界に於ける神の力が聖天術で、物理界に於ける神の力が法術なのですか?」
「そんな所ですわ。物質界に縛られている故に少し流動性に欠けますが、その分だけ粘着、定着、補完に長けております。それでは始めましょうか」
「判りました」
アルバトールは顔を引き締め、エルザの課す修行内容に備える。
「それでは傷を癒すお手本を見せますので、貴方の腕を切り落として下さい」
エルザがにこやかに笑い。
「いやです」
アルバトールは涼し気に笑った。
「どうしても?」
「やってくれると思う方が不思議です」
「仕方ありませんわね。ドワーフさんたちが昨日徹夜したようですから、彼らの疲れを癒しに行ってあげましょう」
エルザはあっさりと諦めると、しずしずと表へ通じる扉へ向かった。
「それが普通の人が考えることですよ。とても聖職者とは思えませんね」
ゴッ。
「あらあら、図らずも怪我人が出てしまいましたわ。でも気絶していては練習になりませんわね」
鈍い音をさせた右拳を開き、アルバトールを握りしめたエルザはそう一人ごちると、軽々とアルバトールを引きずりながら畑の方へ向かっていった。
「……と言った感じで、これが肉体の回復をうながす術になります。これでまず聖霊の動きを感じて下さい」
引きずられた痛みでじきに目を覚ましたアルバトールは、ドワーフの妻にかけられる法術を、むすっとしながらも凝視していた。
「やー、これはいい気持ちだわー。お前さんもやってもらうといいだよー」
「いい気持ちかぁ。そんじゃおらたつも今晩あたりいい気持ちになるか?」
「あんれーお前さん、お客人たつの前だって言うのに、おらこっぱずかしいだー。ほれー、天使様がおらの体をいやらしい目で舐めまわすように見始めただよー」
「……」
アルバトールは泣きそうになった。
むしろ泣いた。
「どうしました? アルバトール卿」
「修行ってつらいものですね」
「……? そうですわね?」
彼の嘆きに対して生返事をするエルザを見た後、アルバトールは無言で自らの体に聖霊の力を降ろす。
(精霊魔術の七つの過程に対して、法術は四つ。接続、解析、制御、対象者へ……放出!)
そして先ほど習った法術の過程を思い出しながらドワーフの夫へ力を注ぎ、肉体の働きを活性化させた。
神気を降ろす時と違い、聖霊の霊気は物質界に根ざす安定した力なので、天使の輪も羽根も身に纏ってはいない。
むしろじっくりと、最小限の力を降ろし、無駄のないように制御して使用しなければならないとの事だった。
「そうそう、その調子ですわ。まだちょっと零れていますが、最初にしては筋がいいですわ」
「零れる? とは一体どういう事でしょう?」
「そうですわね……一本のワインのボトルを聖霊、ワイングラスを貴方の肉体、器と仮定しましょうか」
「またそんな例え方をして……別に牛乳でも良いではないですか」
エルザは一瞬だけ動きを止め、葛藤したのちにその意見を無視した。
「ボトルから貴方のグラスにワイン、つまり霊気を勢いよく注ぐとどうなりますか!」
「零れますね」
エルザの勢いに、若干身を引きながらアルバトールは答える。
「そう、貴方の器は霊気を受け止めきれず零してしまいます。時が経てば聖霊に戻りますが、それはとても緩やかな物。よって慎重に制御する必要があるのです」
「なるほど」
「私のように器が大きければ、一気に注いでも受け止める事ができます。ですが貴方はまだ器が小さいので、慎重に降ろして下さい」
「心がけます」
エルザは先ほどアルバトールが施術したドワーフの夫を見つめ、そして何か考え込む様子を見せるが、すぐに術の説明を再開する。
「また、器に溜まった霊気の量に比例して上級の術が解放されますが、器が大きくなっても一気に降ろすのは聖霊の偏りに繋がりますので、なるべく徐々に降ろすように」
「なるほど。質問ですが、先ほどの術は怪我も治るのですか? それとも疲労のみ?」
「主に肉体を活性化させる術なので、疲労回復がメインです。怪我の治癒も少し早まりますが、思わぬ病気を発症させたり悪化させることもあるので、最初に病にかかっていないか解析し、特定する必要があります……あらあら、それでは私はこれで」
そう言うや否や、遠くへ逃げるエルザをアルバトールは奇異の眼で見つめる。
「んんんっ……! 天使様、おらなんだか漲ってきただよ」
その理由は、彼の施術が原因だった。
「はい?」
「ここ三日ほど出ていなかった大きい方が出そうに……」
「は?」
…………。
「あー、気にしないでいいだよー。あそこがあの人の拠点だからー」
「そうですか」
ドワーフの夫が重低音を発し始め、草むらに消えてから二十分は経つ。
彼は未だ戻ってこない。
あの草むらには、迷い込んだものを閉じ込める術でもかかっているのだろうか。
「では、次はいよいよ怪我の治療の術に移ります。なぜかここに怪我をした貴方もいらっしゃる事ですし」
申し訳ない気持ちでいっぱいのアルバトールに向かって、エルザは容赦なく次の段階に進む事を告げた。
「なぜか……? と言うか、やっぱり展開が速くないですか?」
「仕方ありませんわ。本格的に魔族の侵攻が始まるまでの間に、まったく上級魔物が現れない訳ではありませんから」
「わかりました。ではなぜかここに出来た非常に痛むタンコブから治療しましょうか」
「あらあら、そんな痛む部位を治療するなんてもったいない……ではありませんでしたわ。頭の上では私が降ろした聖霊の動きが見えにくいでしょうから、手足の擦り傷から治療しましょう。私の術をよく見ていて下さいましね」
「ハッハハ、そうしましょうか。なぜか引きずられた後のような擦り傷からですね」
「では行きますわよ。暴れると余計な傷をつけますのでじっとしていてください」
「傷がつきますので、じゃないんですね!」
彼が一筋の冷や汗を感じている間に、エルザの治療はあっさりと終わるが、これでも見やすいようにゆっくり施術したらしい。
それをじっくり見たアルバトールは、引き続いて自らの手足の擦り傷を癒し、痛むタンコブの治療も終える。
「ふう、自分の体だからか、結構楽に治療できましたね」
「それを応用したら他人の体も治療できますわ。最初の内は解析に手こずって霊気を無駄遣いするでしょうが、貴方は天使の眼を持っていますので、すぐに慣れるでしょう」
「見える、見えないでやはり差が出るものなのでしょうか?」
エルザは後ろを向き、襟を浮かせてこっそり自らの下着を見る。
だが背後のアルバトールが本気で怒りだしそうな気配をさせたため、溜息をつきつつ少しだけ考え込み、そして説明を始めた。
「そうですね、例えば貴方の周りが闇に包まれていて、その闇の向こうに何かが置いてある。貴方はそれが何なのか、位置はどこなのか、お分かりになりますか? そもそも本当に置いてあるかどうかも分からないのでは?」
アルバトールは黙って両手を上げ、降参の意思をエルザに示した。
「何かが在るかどうかを確認するには夜目に慣れ、更に対象に近づく必要がある。もしも途中に障害物があればそれに引っかかる、躓く。運が悪ければ転倒して怪我をする。普通の人間が術を習得するのは、それに等しいことなのですよ」
「なるほど」
「魔術の行使も似たようなもの。どこに居るか分からない精霊を探し当て、手を伸ばし、何の精霊なのかを交信して判明させ、口説いて協力してもらう」
「昨日の飛行術は意外なほどあっさりと発動しましたが」
「私がある程度サポートしましたからね。あの時にやってもらった大仰な身振り、神楽の舞は精霊がどこにいるかを探すための調査にあたり、呪文は精霊との交信です」
それを聞いたアルバトールは若干落胆するが、未だ続いているエルザの説明の前ではそんな感傷に浸る暇は無かった。
「慣れてくれば精霊が術者に興味を持つようになり、常に近くに居るようになるので調査、交信、協力の時間が短縮できます。つまり経験を積めば積むほど、術が発動するまでの時間は短くなりますわ」
「そうですか……そう言えば、私は精霊魔術も習得するのでしょうか?」
「むしろ修得していただかねば困ります」
エルザは呆れたように答えた。
「精霊魔術は習得するのが一番面倒なので、後回しにしておいたのですわ。今日はここまでにいたしますので、聖天術の制御と、法術の疲労回復を交互に行ってください。私は先に戻って食事の支度をしておきますので」
「食事の支度ですか。お手柔らかに」
「あらあら、何の事だか分かりませんわね……では無理をしないように」
「びゃい」
顔が腫れ上がったアルバトールを残し、エルザは先に戻っていった。
残されたアルバトールは指示されたとおり、天使の輪と羽根を発動させ、神気をその体に降ろし始める。
天使の輪を通して体に降ろした神気は濁流の如く激しく彼の身を打ち、流れ、満たし、やがて天使の羽根より天へ還っていく。
(そう言えば聖天術の手本を見てないな)
その疲労を法術で回復する間、アルバトールはそんなことを考え始めていた。
(制御は教えてもらったけど、発動する所は見せてもらえなかったんだよね……何故だろう、って危険だからに決まってるか)
何度か神気を降ろし、法術で回復するうちに、アルバトールは試し撃ちをしたくなってくる。
(おとぎ話では、ここで試し撃ちするのが一般的だよね。そしてその後痛い目に……)
アルバトールは自分の両手を見つめ、遠く山の稜線に沈む夕日を視界に収める。
(……戻るか。僕が痛い目に会うのはいいとしても、その被害を収拾する力が今の僕にあるかは判らない)
エンツォの腕を射抜いたことを思い出し、そう結論付けたアルバトールは飛行術を発動して礼拝堂へ戻っていく。
そんな彼を、木陰から見つめる人影があった。
「エンツォ様のことを、まだ気に病んでおられるのですね。まったくお優しいこと」
そしてその人影は闇に溶け込むように姿を消し、アルバトールより先に礼拝堂へ到着して彼を出迎えた。