第128話 医神ディアン・ケヒト
クー・フーリンがカーテンの陰に姿を消した後、先ほどのリチャードの叫びを聞いたのか、人払いをしていたはずの謁見の間の扉から衛兵が数人ほど飛び込んでくる。
それを見たリチャードは気付かれない程度に眉を寄せると、すぐにアルバトールたちへ厳しい顔を向けた。
「そこの者もどうやら動けるようになったようだな。ではアルバトール殿、早速で申し訳ないが、次の謁見が差し迫っているので控えの間に下がってくれるか? 私の典医を呼んでおくから、そこで治療を受けてくれ」
「……それはあまりと言えばあまりな言い分ではありませんか? こちらに非があったのは認めますが、武器も持たぬ人間にいきなりゲイボルグを向けるとは」
アルバトールは声を低めて先王リチャードへ答えるが、それはあまり効果を為さなかったようで、今度は眉をぴくりともさせずにリチャードは即答した。
「言いたいこともあろうが、すべて夕方からの祝宴で聞こう。先に騒ぎを起こしたのはそちらなのだから、文句は聞かぬしこの場で言わせもせん。率直に言わせて貰うと、急に現れた其方たちに会う為に無理をして時間を作ったから、仕事が押しているのだ」
アルバトールはそれ以上一言も反論できず、ベルトラムに肩を貸して謁見の間から出ていこうとするが、その背中にリチャードから再び声がかけられたために、彼は頭だけを振り返らせる。
「ゲイボルグの効力は少々特殊でな、一度発動すると法術による回復だけでは全快せぬ。典医には不測の事態に備えて慈悲の剣クルタナの力を分け与えてあるし、控えの間には横になれるソファもある。その者が回復するまでゆっくりしてくれ」
厳しい顔のままそう伝えてくるリチャードに頭を下げ、アルバトールたちは控えの間へと向かった。
「まず、これで大丈夫でしょう。後は割り当てられた客室で休んでいれば、夕方までには元気になるはずです」
「ありがとうディアン・ケヒト。まさか旧神の貴方がリチャード王の典医を務めているとは思わなかった」
「テイレシアでシルヴェール王に仕えている君に言われるとは思いませんでしたね。人の身より智天使まで登りしアルバトールよ」
白い髪、白い上着、白いズボンと、白づくめで身を包む医の神ディアン・ケヒトの返しにアルバトールは苦笑いを浮かべ、謙遜の言葉を以って返答とする。
その脇では先ほどまで蝋のように白い顔をしていたベルトラムが、ソファに横になって安らかな寝息を立て始めており、アルバトールはようやく一安心できたと言うように安堵の表情を浮かべ、物思いに耽りはじめる。
(しかし僕が天使になってから一年も経っていないのに、まさか海を越えたヘプルクロシアの北西部まで噂が広まっているとは……いや、おかしくもないのか))
先ほどのディアン・ケヒトの言葉から察するに、どうやらここチェレスタでも彼の名前は通っているようであった。
教会の公式記録によれば、人の身から天使に転生した者で智天使まで昇格した者は、アルメトラ大陸広しと言えども今までに一人もいない。
更にその身の奥にメタトロンを宿しているとあれば、噂にならない方がおかしいのだから当然と言えば当然なのだが、彼が今まで聞いた話には羨望のみならず、その手の噂に付き物である嫉妬などの悪意も潜んでいることが殆どである。
だが、目の前でベルトラムの治療をした旧神ディアン・ケヒトは、その噂とは無縁に生きているように感じられた。
(一見、礼儀正しい学者タイプに見えるけど、自分以上の治癒能力を持つ存在に対して激しい嫉妬を抱くんだっけ……怖いな)
ある意味では求道家とも言えるだろう。
正しく接すればこの上なく心強い味方となるが、誤った付き合い方をすれば恐ろしい災いが身に降りかかる。
ただ、それだけの話である。
(の、はずだよね)
施術を終えて手持ち無沙汰になったのか、ディアン・ケヒトは腰に帯びた剣の鯉口を切る仕草を繰り返しており、それを見たアルバトールは冷や汗を垂らして先ほどの感想を心の中で述べたのだが、どうやらその恐怖に耐えきれない人物もいたようだった。
「ディ、ディアン・ケヒト?」
「なんでしょうか? モリガン」
「念の為に聞いておきますが、貴方いきなり切りつけてきたりはしませんよね?」
「ハハハ、人聞きの悪いことを……これは癖ですよ」
「なるほどアハハハハ」
それを聞いてその場に居合わせた者たちは、ディアン・ケヒトを除いて一斉に笑い声をあげ、不穏な空気を吹き飛ばそうとするが。
「最近、何か嫌なことがあるたびに周囲にあるモノを斬る癖がつきましてね……ああ、大丈夫ですよ。今の所は物で済んでいますから」
(そんな癖がついたなら剣を持つなよ!)
その場に居合わせた者たちは、再びディアン・ケヒトを除いてそう叫びたげな顔をし、一斉にお互いの顔を見合わせる。
何はともあれ、ベルトラムが無事であることは彼らを安心させ、またずっと泣きながら謝罪を繰り返していたガビーが、ようやく笑顔になったことは一同にとっても嬉しいものだった。
しかし先のことを考えると、先ほどの謁見の間での豹変についての理由を聞かない訳にはいかず、少々気後れ気味にアルバトールはガビーを問いただす。
「それにしてもガビー、今日の君は変だぞ。見知っている人で、かつ目下の者ならともかく、初対面であるクー・フーリンにあれほど突っかかるなんて」
「う……う、うるさい、わね……」
「事がうるさいで済まされないから言ってるんだよ。元々君は僕のお目付け役で同行していたはずだろう? その君が率先して問題を起こすのなら、残念だがテイレシアに帰ってもらう他は無い」
先ほど、謁見の間でガビーが発した言葉によってクー・フーリンは激高し(不自然なほどではあったが)ベルトラムはゲイボルグから皆を守ろうとして倒れた。
この状況では、自分に非があると認めざるを得ないのは、ガビーも判っているはずである。
だが彼女は唇を引き絞り、床を見つめ、頑として理由を話そうとはせず、それを見たディアン・ケヒトは何かを察したように口を開いた。
「何やら込み入った事情がありそうですね。私はこれで失礼しますが、ベルトラムが目を覚ましたら私の所に顔を出すように言っておいてください」
「判った、伝えておくよ。それはそれとして質問が」
「何でしょうか?」
柔らかく、だが世間一般の価値観と感情を持たない、磨き抜かれた鏡のような狂気の瞳がアルバトールを静かに見つめる。
「ルーがいきなりアデライード姫の誘拐と言う蛮行に走った思惑に心当たりは? そしてなぜベルトラムの名前を知っている?」
「目端が利きますね。ルーのことは祖父である私にも判りません。ベルトラムは昔馴染みなので知っている、とだけ言っておきましょう。モリガン、貴女も来なさい」
ディアン・ケヒトたちが出ていった後、ガビーは追い詰められたように辺りを見回し、何度か口を開こうと努力をした後に、ようやく理由を話し始めた。
「テスタ村って、知ってる?」
「……知ってるよ。君がこっちに戻ってくる少し前に、そこでジョーカーって堕天使と戦ってきた」
「じゃあ、ベルトラム――ウリエル――が人間になった理由も?」
アルバトールは黙って頷く。
それを見たガビーは目に涙を溜め、いつしかしゃくりあげはじめていた。
「あれ、本当は……私が行く筈だったの……でも、あたし、怖くて。吸血鬼って言っても、元は人間だって知ってた、から、私見た、ウリエル、自分が行くって」
ガビーは目から零れ落ちる涙を拭こうともせずに、懸命に説明をしようとする。
だがその声は震え、かすれ、どもり。
それでも彼女は話を続けた。
「それで、ウリエルが……でも……私、怖くて。どうしたら、いい、判らなくなって。それで、逃げて……東方、丁度、騒ぎが、起こったからミカエル様に……」
「でも戻ってきたってことは、ガビーも気持ちの整理がついたんじゃ」
「ウリエル、落ち着いたから……こっち……戻っても大丈夫って……でもどんな、顔で会えば……う、ううえええぇぇぇ……」
遂に感情を制することが出来なくなったのか、ガビーはその場で堰を切ったようにボロボロと泣き出し、辺りをはばかること無く涙を流し始める。
それを見るアルバトールも、判ったからもう泣かなくていいと答えはしたものの、その後は何と言って慰めて良いか判らず、ガビーの肩を抱くだけだった。
だが、そこに悪戯をした子供を諭すような、静かな声が湧き出でる。
「だからと言って、憎まれ口を利いても良いと言うことにはなりませんよ、ガビー」
「ベルトラム! もう体はいいのかい!?」
「お陰様で調子はいいようですアルバ様。とりあえず客室に戻って槍を……どうしたのですかガビー。天軍の副官が、みだりに泣き顔を人に見せてはいけませんよ」
ガビーは何度も目のまばたきをした後、ソファの上に起き上がったベルトラムの顔を上目遣いに見ると、ばつの悪そうな顔をしながら彼に一つの質問をする。
「……ひょっとして、全部聞いてた?」
「聞いてはいませんが、知ってはいましたよ」
「それって聞いてたってことじゃないのかな」
アルバトールの呟きに、ベルトラムは白々しく天からのお告げです、と答える。
「それじゃあ仕方がないね」
その顔を見たアルバトールは、それ以上の追及を諦めて話の続きをしようとガビーに話を振るが、それも易々とはいかなかった。
「それでガビー、謁見の間でクー・フーリンに突っかかったのは何故なんだ?」
「えっ」
なぜならアルバトールの質問を聞いたガビーが、慌てたようにベルトラムの方を一度見ると、今度は顔を真っ赤にして黙り込んでしまったからである。
「ガビー、黙っていては判りませんよ」
するとなぜかベルトラムが底意地の悪い笑みを浮かべてガビーを問い詰め始め、遂にガビーは観念したように口を開いた。
「あ、あ、あの、ね……ほら、モリガンってさ、自分のせいでクー・フーリンが死んだって思い込んでる、でしょ?」
「そうみたいだね」
「で、ほら。あたしも……その、昔ウリエルが……えっと、判るでしょ?」
「何が?」
何かに気付いたのか、わざとらしくとぼけるアルバトールを見てガビーは戸惑い、困ったように視線を泳がせ、覚悟を決めたように唇を噛む。
「だから! 私もウリエルが人間になっちゃう原因を作っちゃったでしょ! だから同じような境遇のモリガンを見過ごせなかったのよ!」
「なるほどね」
うんうんと頷くと、アルバトールは膝をつき、ガビーと目線を合わせる。
「他に言うことは? 僕にじゃないよ」
「う……」
逡巡の後、ガビーはベルトラムに深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、ベルトラム……あれ?」
ベルトラムはにっこりと、黒く笑っていた。
白い手袋をはめた右拳を握りしめて。
少し時間が経った後に控えの間の扉が開き、彼らは客室へと向かう。
談笑するアルバトールとベルトラムの後ろには、なぜか頭の天辺を抑えているガビーが着いてきていた。
嬉しそうに、その顔をほころばせながら。
「お帰りなさいませ我が主よ。何やら騒ぎがあったようで」
「うん、君に留守番を頼んでおいて本当に良かった。もしもこの騒ぎが陽動だとしたら、その間に誰かがこの部屋に侵入して、僕らの不利益になることを仕掛けてきたかも知れないからね」
客室に戻ったアルバトールたちは、中に居たバヤールとコンラッドに事情の説明をし、ベルトラムは荷物の確認をする振りを装ってピサールの毒槍を身に着ける。
槍をいつものように髪に偽装させていては、リチャード王を暗殺に来た刺客と疑われるかもしれない為に客室に置いてきたのだが、それが今回は仇となったのだ。
毒槍を身に着けるとベルトラムは深く息を吸い、ある決意を秘めて眼を鋭くする。
それとほぼ同時に、彼の背後ではバヤールが大仰な呻き声を上げていた。
それを聞いたベルトラムは鋭くした目を再び緩め、肩を落として苦笑をしながら立ち上がり、アルバトールたちの方へ近づいて行った。
「おお……ベルトラムがそのような危険な目に遭わされるとは、何と恐ろしい敵」
「いや、クー・フーリンは敵じゃないからね?」
(本当にバヤールに留守番を頼んでおいてよかったよ……)
心の中で溜息をつきながらアルバトールは説明を続けるが、そこに毒槍を身に着け終えたベルトラムが近づいてきた為に話を一旦打ち切り、先ほどのディアン・ケヒトの言伝をベルトラムに伝える。
「昔馴染みって言ってたけど、何があったの?」
「ああ、私がトール家に仕えさせていただくようになる前に、ヘプルクロシアを旅していた時がありまして。その時に会ったのです」
そう言うとベルトラムはアルバトールへ一礼をして客室を後にし、ディアン・ケヒトの所へ向かうと二時間ほど経った後に戻ってくる。
「診てもらった所、少し後遺症があったそうですのでついでに治して頂きました。もう心配はないそうです」
部屋に入ってきたベルトラムは、そう言って主人が晩餐会に出る為の準備をいそいそと始める。
いつ、どこで、何の後遺症であったのかを言わないままに。