第119話 価値観の違い
「ちょっとアルバ、バアル=ゼブルをあのまま放っておいていいの?」
「心配ないよ、彼はあれでも魔族の中で闇の風って役職についてるらしいし」
「それ役職の名前だったかしら……」
納得できないとでも言うように首を傾げるガビーを、アルバトールは横目でチラリと見ると、安心させる為に笑顔を作って明るい声を出してみせる。
「大丈夫さ、ひょっとしたら先に船に戻っているかもしれない。彼の飛行術は僕たちよりずっと速いからね」
そして二人はベルトラムとバヤールが待つ船へ戻っていった。
だが、彼らが戻った船にバアル=ゼブルの姿は無かった。
「残念……ですか」
甲板に降り立った人数が一人足りないことに気づき、怪訝そうな顔をした後にそう告げてきたベルトラムを見たアルバトールは、なるべく内の動揺を表に出さないように心掛けながら、船長に再出発の号令を飛ばす。
「風は僕が吹かせる。元々その予定だったし、戻ってくるかどうか判らないバアル=ゼブルを待っていても仕方がない。それに……彼は本来なら戦うべき敵だ」
「よろしいのですか?」
瞳を合わせ、じっと自分を見つめて問いかけてくるベルトラムに対してアルバトールは若干の気後れを感じるが、それでも彼はゆっくりと頭を振って答えた。
「先に行くと決定したのは、彼を信じているからでもある。僕はバアル=ゼブルが無事に生き抜くことを信じているよ」
「……では船長にはそのように伝えて参ります」
主の言葉に一礼を返し、操舵室に向かうベルトラムの背中を見ながら、アルバトールは王都から帰還する時のことを思い出していた。
王都を脱出したメンバーの中にブライアンの顔が無かったにも関わらず、フォルセールへの帰還を決めたアルバトール。
その時のことを思い出したアルバトールは再び後悔の念に襲われるが、ここでもたもたして時間を無駄にできるほど今回の道程に余裕がある訳では無かった。
(居なくなる前にブライアンの所在を知っているか、聞いておけば良かったな)
しかし、それも今となっては叶わない望みであった。
そして考えごとをしている間に、甲板の床に視線を落としていたことに気付いた彼は、知らず知らずのうちに曲がっていた背中を伸ばし、風を起こす準備に入る。
(逆境の時こそ胸を張れ、か)
静まり返っていた海上のシルフたちは、アルバトールの願いと力によって再び活力を得て動き始め、先ほどの彼の頭のように垂れ下がっていた船の帆はピンとした張りを取り戻し、風は船を進める力へと変換されていく。
(バアル=ゼブルが居ない今、この船を動かすのは僕の役目だ。皆が不安がらないように、きちんとやらなきゃね)
船底一枚下は地獄。
そのような危険な仕事に就いている彼らの心情を思い、アルバトールはすっと目を閉じるとすぐに風の調整に集中していった。
……だが外界の情報を遮断し、集中して風を吹かせようとしていた彼の周囲になぜか人が増え始め、どんどんと賑やかに……と言うか騒がしくなっていく。
「さようでございましたか、苦労なされましたな」
[うむ! わらわもそう思うぞ! ベルトラムとやら、お主の殊勝な態度、なかなかに天晴であるぞ!]
「これは勿体ないお言葉」
そして彼がどれほど昔の記憶を辿っても聞いた覚えのない女性の声……と言うよりむしろ女の子のような甲高い声が耳に入り、それを聞いた彼は、先ほど目の当たりにした、泡の中のティアマトらしき女性の姿を思い出して混乱してしまう。
そしてそれに伴うように、吹かせていた風の強さも一定にならなくなっていった。
(いや、これはガビーがふざけているだけだきっとそうに決まっている)
動揺した心を落ち着かせる為、目を閉じた暗闇の中でアルバトールは必死にそう考え、風を吹かせることに集中しようとする。
しかしそんな彼をからかうかのように誰かが不意に鼻をつまみ、更に聞き覚えのある声で呆れたように彼に助言を始めていた。
[反応がねえな、寝てんじゃねえのか? それにしてもヘッタクソな風の吹かせ方だな、ムラとムダの塊だ。風のイメージを船の周りだけじゃなくて、もっと離れた周辺の海域全体に緩やかに、且つ一定に広げねえから境界で大幅なズレが生じ、その修正で更に無駄な力を使う羽目になるんだよ。お、なんか鼻がピクピクし始めたぞ]
[ふむ、お主の助言を挑発と受け取ったのではないか? 若いうちは無駄にプライドが高く、忠告を素直に受け入れられん小人が多いからのう]
(平常心、平常心……)
船の喫水線より下の抵抗、つまり海水の抵抗もあり、なかなか思うように前へ船を進ませられないあせりと、周囲で何となくイラッとする発言が先ほどから相次いでいることもあってか、急速にアルバトールの集中は切れていき。
「ちょっとアルバ! 風の強さが一定じゃないから帆の調整が面倒だってあたしに苦情が来たじゃないの! 何が僕が風を吹かせるよ! 偉そうに言った割りには口ほどにもないわねこれだから女を知らないお子様はクエエッ!?」
そしていつもタイミングが悪い時に不用意な発言をするガビーが口を開いた途端、ついに彫像と化していたアルバトールは血走った眼を開眼する。
威嚇する野獣のように犬歯を剥き出しにした表情はまさに鬼。
さながら閃光の如き身のこなしを見せてガビーに近づいて目的を遂げた後、彼は周囲に抜き身の剣のような鋭い眼光をちらつかせた。
「……次にこうなりたい奴は前に出ろ」
[お、おう……そんなに童て]
「黙らないと殺す。転生しても殺す。何度転生しようともその度にお前を殺してやる絶対にだ」
噴火を始めた火山が、すぐに元の安全な山に戻ることは無い。
冗談が通用しない精神状態になったアルバトールを見たバアル=ゼブルは、それでも何か軽口を叩こうとしたようだったが、そこに先ほどの女童の声で発言が成され、水を差された彼はその声の持ち主に場を譲る。
[お主そのような恵まれた風体をしていながら女を知らんとはのう。道理で術に落ち着きが見られんわけじゃ。何ならわらわが今から相手をしてやろうか?]
「子供を一夜の相手にするほどがっついてないよ。そもそも君は誰なんだい?」
[わらわか? わらわの名はティアマト。気軽にティアちゃんと呼んでも良いぞ]
そう言うと少女は胸を張り、それに伴って全身を包んでいた白髪は彼女の背中へ一斉に移動し、その下から緩やかな水の流れのように全身を覆う羽衣が現れる。
(ん……?)
また少女は姿を見せた当初から目を閉じていたが、挨拶で胸を張った際に開いた瞳には虹彩が乏しく、また何かに反応して視線を動かす様子も無い。
盲目らしきその振る舞いを見たアルバトールは、その理由を聞くのも何となく気が引け、先ほどのティアマトの発言内容も含めて心の中でそっと溜息をついた。
(ちゃん付けの神様って一体……それにしても親子だけあって、王都で会ったセファール殿にそっくりだな。いや、実際にはセファール殿が似ているんだけど)
アルバトールがそう思ったのも無理はない。
なぜならアルバトールの目の前にいるティアマトは、見た目がセファールより数段若く、人間で例えるなら首をキュッとされ、落とされて甲板に横たわるガビーと同じく十歳程度に見えたからだ。
いずれにせよ今の彼の目的はヘプルクロシアに到着することが最優先事項であり、ティアマトとの会話を楽しむことでは無い。
今回もどうやら一癖ありそうな旧神の一人を何とかあしらおうと、アルバトールはまずティアマトへ呆れた顔をしてみせる。
「そっか、どちらにしてもティアは子供だし……いや、例え大人だったとしても今は君と同衾している暇はないよ。僕たちはアルフォリアンに上陸したら、すぐに移動を開始する予定なんだから」
[ティアちゃん]
真顔でちゃん呼びを強制する旧神ティアマト。
さっきは呼んでもいいよ、程度だったのにどうしてこうなるのか。
「……えーとね、お兄さんティアちゃんと遊んでる暇はないんだごめんね。おーいバアル=ゼブル、船に戻ったなら風を吹かせてくれないか?」
内心で嘆きつつアルバトールはそう言ってティアマトへ断りを入れたのだが、残念なことに既に手遅れだった。
[お兄ちゃん、わらわのことが嫌いなの? わらわのハートはこんなにお兄ちゃんとの大航海に向けて高鳴っているのに。ささ、早う二人でベッドと言う先の見えない荒海に向かって乗り出そうぞ]
「ちょっとこの子物凄く面倒くさいんだけど! おいバアル=ゼブルどこ行った! 面倒事をなんでもかんでも他人に押し付けるのはやめろォ!」
手を取り、胸に押し付けてこようとするティアマトにたじたじとなり、風を吹かせることもすっかり忘れてしまったアルバトールは慌てて青い髪の旧神の姿を探すが、求める相手はどこに隠れたのか影も形も見当たらない。
その代わりと言っては何だが、すすすっと滑るように彼に近づいてくる人影が一つ。
「アルバ様、少々進言したきことがございます」
そう言うと渋面をしたベルトラムは、ティアマトに一礼をして口を挟んだ非礼を詫びると、アルバトールへ頭を下げて口を開く。
「先ほどの戦闘を見ておりましたが、海上の不利を差し引いて考えたとしてもティアちゃんに手も足も出なかった点、少々見過ごせぬ物がございました」
「う、うん……」
その厳しい指摘内容より、ベルトラムが一向に表情を変えぬままにティアちゃん、と言ってのけるシュールさにアルバトールはたじろぐ。
「火の術の行使にはサラマンダーたちの助力もさることながら、まず己の感情の昂ぶり、そしてその燃え盛る精神の力を成長させる風の術の力が肝」
「向上の機会を逃すな、と言うことか……」
「さすがに察しがお早い。では練習がてら、ここからはアルバ様に船がアルフォリアンに着くまでの風を吹かせて頂きます。ガビー、船長にその旨を伝えてきてください」
「えー、またあたし怒られるの? 役立たずと組むとホント損な役割ばっかりねクェ」
急にぐったりとなったガビーを床に寝かせると、アルバトールは船の前方を見据え、ゆっくりと息を吐く。
「判った、やろう」
そして息を吸い込み始めるアルバトールに、ベルトラムが補足説明をする。
「と、言うことをバアル=ゼブルが言っておりましたので」
「一気に説得力が無くなったよ! でもやるね!」
そして再び船は、ゆっくりとアルフォリアン島へ進み始めたのだった。
「それにしても全然進まないな……さっきのバアル=ゼブルと同じくらいの風量は出せてるはずなんだけど」
[先ほどの執事がなにやら海流の流れを変えてくれとわらわに言ってきたから、船の横っ腹に直撃するようにしておいたぞ]
あっけらかんとした口調で理由を説明してくるティアマトに、アルバトールは半眼になって礼を言う。
「……それはどうも。しかし、貴女はバアル=ゼブルと」
[ティアちゃん]
「ティアちゃんはバアル=ゼブルとどういう関係なのかなぁ!? 彼はティアちゃんに目の敵にされてるって言ってたんだけどぉ!?」
ちゃんづけの強要、そしてそれを口にする気恥ずかしさから思わずアルバトールは投げやりな口調で返事をするが、案の定痛いしっぺ返しを食らってしまう。
[すぐにイライラするのはやはり……]
「やめて」
即座にそう懇願するアルバトールを見たティアマトは口に手をやり、含み笑いをした後に横に立つと、彼と同じように船の前方を見た。
[あれはわらわがヤム=ナハルと反りが合わなくなり、郷里のラシュメールに戻った時のことじゃ」
そして思い出話を始めるティアマトを見たアルバトールは、横にいる少女が見ているものが単なる景色ではないと気付き、黙って風の調整を再開する。
「あの朴念仁と来たら布教活動じゃなんじゃと言ってわらわを放置しまくりおって……コホン、まぁそれは置いといて、じゃ。故郷に戻ったわらわが見たのは、かつてわらわを放逐した神々が、増えすぎた人間たちを嫌ってラシュメールを去った姿じゃった]
昔を懐かしんでいるのか、ティアマトは遠くを見つめたまま微笑む。
しかしすぐに視線と口調は落とされ、話は続けられた。
[まぁ、わらわは知っての通り放逐された身じゃったから、その神々が居なくなっていたのはむしろ良いこと、だったのじゃが……それでも仲間が一人も居ないと言うのはやはり寂しい物でのう。そこにひょっこり現れたのが、あのお調子者じゃ」
ティアマトの口調はそこで再び明るいものとなり。
[ヤム=ナハルの匂いもするし、懐かしさもあって遊んでやったら本気で反撃されての]
なぜか頬を染め、何かを嫌がるように、いや望んでいるように身をよじらせる。
[マイムールの風で身動きがとれなくなったわらわの口に、あやつは無理やり捻じ込んできてのう……その苦しさに身悶えするわらわを無視して、何度も何度もディープな一撃をわらわの胸に撃ち込んできおって……]
「あーはいはい。確かにマルドゥクがどうのこうの言ってました」
マルドゥク神がティアマトたちに反旗を翻した時、彼を飲み込もうとしたティアマトの口を風で固定し、心臓に矢を放って倒したと言う神話を思い出すアルバトール。
[その後もまぁ、奴に会うたびに色々な目的で襲い掛かっておったから、ひょっとするとその間に多少の誤解が産まれてしまったかもしれんのう]
「さいですか」
[お主もヤム=ナハルに鱗を託されるくらいじゃし、なかなかの男と見た。今度からわらわの目標の一つに加えてやるゆえに感謝せい]
露骨に迷惑そうな顔をするアルバトールを一瞥すると、ティアマトは高笑いをする。
「そう言えば、その目は?」
[ああ、これか]
話題を変えたかったとはいえ、プライベートな部分の話題を口にしたことにアルバトールはしまったと言う顔をするが、ティアマトは気にした様子もなく理由を口にした。
[わらわは普段日の光も届かぬ海底にいるからの。そこでは何かを目にする必要も無いから、衰えて見えなくなったようじゃ。まぁあまり気にしてはおらん。この世は見たくもない物が多すぎるし、この目になってから見えるようになったものもあるしのう]
そう寂しそうに言うと、ティアマトは飛行術でふわりと宙に浮かび上がる。
[今日は楽しかったぞ。それではわらわは再び水底で警備に戻るとしよう]
(あ……)
去り際のティアマトの顔を見たアルバトールは、思わず彼女を呼び止めるための言葉を探し、それがすぐに頭に浮かんだことを主に感謝しながら口を開く。
「ちょっと待った! 僕たちに関して、ヘプルクロシアは何も言ってきていないのか!?」
必死に問いかけてくるアルバトールの顔を見たティアマトは嬉しさ半分、その問いかけを聞いて寂しさ半分と言った表情になり、特に変化は無いと答える。
「そうか、ありがとう……ティア、ちゃん。僕たちがヘプルクロシアから帰る時、また会えることを楽しみにしているよ。その時は船の制御を邪魔するんじゃなくて、手伝ってくれると嬉しいんだけどな」
ティアマトはアルバトールの言葉を聞いた途端にパッと顔を輝かせると、その顔のままその時のお主の技量次第じゃ、と言って海にその姿を消した。
(昔の身内に追い出され、今の仲間からは身を遠ざけ、昔の恩義を返す為に今は一人水底にて警備をする、か)
少し感傷的になってしまったアルバトールは、前方のアルフォリアン島を見て心を奮い立たせる。
「さて、国防の要であるティアマトに新たな指示が無いことをどう捉えるべきか。僕たちが容易に引き返せない所まで引きずり込むつもりか、それとも他の思惑があるのか」
次第に近づいてくるヘプルクロシア王国の窓口、港町ローレ・ライ。
伝説の人魚の名前を冠する港町に、アルバトールたちはその一歩を記した。