表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
156/290

第117話 世は情け

 ヘプルクロシアへ出港する日の朝。


 生憎と空にはうっすらとした雲がかかってはいたが、海は凪いでいた。



 恐ろしいほどに。



「おーいあんたら! 乗るんなら早く乗ってくれー! さっさと出港しねえと、潮が変わっちまう!」


「すまない! 今すぐ乗るよ!」


 思いもよらぬ人物が先に船に乗っていたことにより、茫然自失としていたアルバトールは船長の叫び声に慌てて返事をし、そして広い甲板で腕を組んでニヤニヤと笑っているバアル=ゼブルを睨み付けると、あてこするようにすぐ横を通り過ぎる。


[まぁ我慢しな。今日はいわゆるベタ凪ぎって奴だが、昼過ぎにはヘプルクロシアまで着かせてやるからよ]


「ふーん、じゃあお願いしよう。本当は僕が風を起こすように頼まれてたんだけど、君がやってくれると言うなら申し分ない」


[え……ああ、おう?]


 客室に向かうアルバトールたちの後姿を、首を捻りながら見送ったバアル=ゼブルは、船長の出港の掛け声に我に返ると操舵室へ向かった。



 バアル=ゼブルが操舵室に姿を消したしばらく後。


 アルバトールたちは客室に荷物を置いたものの、薄暗く狭い部屋の中には数分と居られずに、再び甲板に出ていた。


 新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、ようやくゆっくり出来るとでも言うように一伸びしたアルバトールの前方では、ガビーが髪に手をやり、恍惚とした表情でヘプルクロシア王国が治める島、アルフォリアンを見ていた。



「いい風ね……なんだか世界中のシルフが私を祝福しているかのよう……」


「頼むから船首から落ちないでくれよガビー」


「そんなに心配なら後ろから支えてくれないかしら」


「船首像へ君を固定する荒縄ならそこら中にあるよ」



 途端にうっとりとした表情から沸騰したヤカンのように怒り始めるガビーを手で遠ざけると、アルバトールは操舵室から前方を見据えるバアル=ゼブルへ視線を向ける。


(街での態度から見るに、僕の襲撃が目的では無さそうだがなぜこの船に彼が?)


 するとバアル=ゼブルは程なくその視線に気づき、傍らに立つ船長に片手を上げると甲板に居るアルバトールたちの方へ降りてくる。



[聞きたいことがあるなら面と向かって言いな。いい年した大人がみっともねえぜ?]


「エルザ司祭が君に怒ってたよ。昔ナンパしたんだって?」


 アルバトールは、特に何かの悪意を込めてその問いかけをした訳では無い。


 単に世間話の体でバアル=ゼブルをからかい、どんな反応をするか見てみようと思っただけだった。



 だがその言葉は、彼の想像の範囲を超えた影響を青い髪の旧神に及ぼすことになる。



 まるで見えない巨大な刃で体の中心を串刺しにされたかの如く、陽気な旧神は完全に体の動きを止め、その顔は完全に放心し、瞳はこれ以上ないほどに見開かれる。


 その姿はまるで遥か古代の言い伝えにある、生きたまま塩の柱と変化させられた人物かに見えた。



「おい! バアル=ゼブル!? 大丈夫かい!? 今の君の様子はただ事じゃないぞ!」


 自身が発した言葉の影響――バアル=ゼブルの急激な変化――に誰よりも驚いたアルバトールは、慌ててバアル=ゼブルに近づいてその容態を心配するが、その対象たる旧神はその姿を見て何かを恐れるように後ずさり、かろうじてその口を開いた。


[なんでもねえ……いや……ああ、神様ってのは長く生きるもんだから、よ。その中で何かがあったかも知れねえな。とりあえず俺が言えるのはそれだけだ。もっと詳しい内容を聞きたきゃあ、そのエルザ司祭に聞くんだな]


 何か重大なことを隠している。


 見た者すべてをそう確信させる態度をとるバアル=ゼブルを、アルバトールはじっと見つめる。


 しかしその蒼白な顔色を見たアルバトールは話題を変えるべきと判断し、そして常にないほど動揺している今ならば、バアル=ゼブルがヘプルクロシアに渡航する目的も聞けるのではないかと思った彼は、慎重に言葉を選んで質問をした。


(弱みに付け込むようで好きじゃないけど、こんな状況だと仕方がないよね……)


 そんな言い訳を、自分自身にしながら。



[……ああ、何てこたあねえよ。アスタロトって堕天使を探してるだけだ。今回はお前さんたちの渡航目的を聞くのが第一の任務だったから、それが達成した今となっちゃあとっとと二人で王都に戻ってジョーカーに報告するのが一番なんだが、あの野郎気配を完全に絶って、こっちに見つからねえようにしてやがる]


「ふ~ん……ちなみに第二の任務は?」


[いつもの如くお前さんの討伐だ。いい加減マンネリだから他の展開を考えろって出かける時にジョーカーに言ってやったから、俺に感謝してくれてもいいぞ]


「それ嫌がらせの手段を別に考えろってことじゃないか。却下」


 ちっ気づきやがったか、などとブツブツ呟き始めるバアルゼブルの顔色は、さっきの蝋のような色から、随分と血の気が戻っているように見える。



(やれやれ、何で僕がバアル=ゼブルにこんなに気を使わなきゃいけないんだ)


 などと思いつつ、情報を引き出すためにアルバトールは更なる質問を飛ばす。



「そう言えば、何で船に乗ってるんだい? 君の飛行術なら、ヘプルクロシアまでひとっ飛びだろうに」


[あん? お前さんだってそうだろ]


 意外そうに答えるバアル=ゼブルに対し、アルバトールはゆっくりと首を振る。


「ヘプルクロシア王国は旧神の一人ティアマトを周辺海域の番人として雇い、船は移動が遅いから見逃してもいいが、空から急襲してくる者に対しては撃退せよと命令している。通常ならテイレシアはヘプルクロシアの同盟国だから飛んで行っても問題は無いんだけど、今は事情が事情だ。安全な船を選んだまでさ」


[なるほどな、まぁ俺の方も似たような事情だ。お前さんは知らねえだろうが、その昔、俺は東方で旅をしていたことがあってな]


 バアル=ゼブルがそう言い終わった時、船首の方が何やら騒がしくなるが、彼はそれに気づかずに話を続ける。


[その時にティアマトのバーさんに絡まれちまってな。何でも昔バーさんを倒したマルドゥクって奴の力と俺の力がそっくりらしくてな。こっちが何度違うって言っても襲い掛かってくるから、つい本気を出しちまってよ]


「アルバ様、ガビーが海に落ちました」


「自分で何とか出来るんじゃないの?」



 以前のガビーは自分の行動と発言に対してまるで不用心であったから、場合によっては四大天使全員の正体が彼女から露見する恐れがあった。


 よって天使としての力を封印し、不用意な力の発動によってガビーが天使と露見することを防いでいたのだが、今の彼女はガブリエルとしての力を使えるはずであった。



「それが出立前、普段は強気に見えるけど実は気弱なドジっ子設定にしたと言っておりまして。その故か何もしようとせず、そのまま波間に飲み込まれてしまいました」


「……仕方ないな、まず救命具を投げよう。本当は火球を投げつけたい所だけど」


「御意。私も毒槍を投げつければ爆風でこちらに飛んでくるのではないか、と先ほど思った所でございます」



[で、何とかその場を凌いだんだが、どうもやり過ぎたらしくてそれからずっと目の敵にされてな。こうやって風を起こすくらいなら、遠くのシルフ共に働きかけりゃあいいだけだからティアマトにも多分見つからねえだろうが、飛行術となると自分の周囲に力場を展開させるから、すぐに見つかっちまうんだよ]


 慌ててアルバトールとベルトラムはガビーの救出に向かったのだが、自らの物思いに耽っているせいか、バアル=ゼブルは周囲の状況にまったく気付く様子は無い。


 つまり今の彼は隙だらけなのである。



「思ったより船足が早いですな。既にガビーを見ることが出来なくなっております」


「……仕方がない、そこの旧神はどうも自分の話に酔ってて危険は無さそうだから、僕が飛んで拾ってくるよ」


[つーワケでよ、お前さんたちが余計な術を使ってティアマトの注意を引かなければ、俺も無事にヘプルクロシアに着けるって訳だなんか息苦しいな]



 そしてガビーを拾ってきたアルバトールが、溺れた彼女の介抱を自分でするか、ベルトラムに頼むか悩んでいる横で、バアル=ゼブルは巨大な海蛇の形をとった海水に飲み込まれていた。



「アルバ様、バアル=ゼブルがティアマトに飲み込まれました」


「自分で何とか出来るんじゃないの?」


 今はどうか知らないが、かつてはアナト、モート、ヤム=ナハルらを統べる主神を務めていたバアル=ゼブルである。


 如何に東方の神々の母と言われたティアマトと言えども簡単にやられるはずはない。


 そうアルバトールは確信していた。



「ほら、あんなに元気に動き回ってるしヘーキヘーキ」


「溺れているように見えますが」


「そうなの? ティアマトに襲われてるのに、パントマイムの余興をするなんて余裕だなって思ってたよ……ああ、確かに苦しそうだ」



 ティアマトの中に取り込まれたバアル=ゼブルは、ヤグルシを発動させることも、マイムールを顕現させることも出来ず、水でできた海蛇の内側を叩き、もがき苦しむ。


 ように見えつつも時々全身をかきむしるその様は、何かが彼の全身を舐め……這いずり回っているように見えた。



「フォルセールの天使様、今回の船旅は急ぎと言うこともあって、少々水夫をケチ、いえ集められませんでしたので、あの男を助けないとヘプルクロシアに着く時間が遅くなっちまいます。何とかしていただけませんかい?」


 バアル=ゼブルの姿を呆気にとられて見ていたアルバトールだったが、船長のその指摘にもっともだと納得すると、水龍ティアマトを説得するべく声高に叫びをあげる。


「あ、そう言えばそうだった。えーと、旧神ティアマト! 私はフォルセールの天使アルバトールと言う者! そちらにも譲れぬ事情はあろうが、ここは一つ同盟国のよしみで、体内に取り込んでいるバアル=ゼブルを解放しては貰えないだろうか!」


 あまり緊張感のない叫びでアルバトールが目の前のティアマトに呼び掛けると、意外なほどあっさりと、吐き出されるようにバアル=ゼブルは水の中から解放される。


[ゲホッゲホッ! クッソ、だから俺はテメエとは会いたくねえ……ん?]


 だが甲板に放り出されたバアル=ゼブルは、ティアマトに向けて毒づくと同時にある力場に気が付き、その持ち主に即座に叫ぶ。


[おいアルバトール! ヤム=ナハルの加護を持っているな!?]


「う、うん、それがどうしたんだい?」


 いきなり叫び声を上げたバアル=ゼブルを見てアルバトールは驚くが、彼はそれ以上のことは語らなかった。


「いきなり何なんだ……え」


 いきなり叫んだ後、まったく口を開こうとしないバアル=ゼブルから再びティアマトに目を移したアルバトールは、そこに起きた異変に目を奪われる。


 なんと先ほどバアル=ゼブルを飲み込んでいた水の海蛇は、全身から煙を上げ、その身を高熱の緋色へと変化させていたのだ。



[あー、お前さんに言うのを忘れていたぜー。ヤム=ナハル爺とティアマトは夫婦喧嘩中でな。ヤム=ナハル爺の力の欠片であるその鱗を手放さないと、ひょ~っとしたらお前さんティアマトに襲われるかも知れねえから。気を……つけ……ろ……よ]


「……へぇ、二人は夫婦だったのか。とりあえずこの場を生き延びることが出来たら、君の忠告に従うとするよ」


 

 アルバトールが渾身の力を以って振り下ろした炎の剣を、必死にマイムールで受け止めるバアル=ゼブル。


 しかしいきなり驚愕の声を上げたバアル=ゼブルを見たアルバトールは、背後のティアマトへと注意を向ける。


 するとそこには、船を丸ごと飲み込んでしまいかねないほどに、その太さと高さを巨大化させた水龍ティアマトの姿があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ