第116話 旅は道連れ
酒場付きの宿に泊まれば飯が食える。
当然の権利を行使するべく、アルバトールが宿屋に隣接している酒場を訪問したのは、日が暮れてから二時間ほどしてからである。
他のメンバーは日没とほぼ同時に食事へ行ったのだが、彼だけは込み合うのは嫌だから、と言う理由で遅めに行ったその結果、当然と言おうか、メニューの何品かは既に品切れとなっていた。
(あー、いい考えだと思ったのに……ラィ・ロシェールの街並みを見ずに、皆と一緒に食べれば良かったよ。それにしても、一人で大量の食事をたいらげた女性ねぇ……)
宿に到着してすぐに酒場の主人に聞いた時には、食材はたっぷりとあるとの話だったのだが、その後夕刻にふらっと一人で現れた玲瓏な女性が、先に居た仲間らしき集団と一緒に何人前も食べた為に、食材が足りなくなったとのことだった。
(その女性に興味はあるけど、まずは食事かな)
壁に貼り付けてある木の板に書かれた文字と絵。
つまりメニューの下にはかなりの割合で×印の札が下げられているが、それでも白身魚のシチューを頼むことが出来た彼は、最初に持ってこられたパンを、添えられたワイン水と一緒に流し込む。
ここラィ・ロシェールはガラス工芸も有名で、ワイン水が入っているグラスも、上の縁から下の持ち手まで切り立った涼し気なデザインをしており、食事だけでなく、グラスの見た目も彼の食指をそそるものになっていた。
(傷みやすい魚介類も、割れやすいグラスも、街道を整備すればあらゆる場所に早く安定して届けられる。問題は道中の安全か……国による警備隊を組織して、税金の代わりに安全保証料を支払って貰うようにしたら、新しい雇用も創出できるかな?)
口に運ぼうとしたスプーンを途中で止め、考えごとを始めるアルバトール。
その彼の姿を見て顔を陰らせる主人を見たアルバトールは、何でもないと言った風に主人に手を振り、残りのシチューとパンを一気に片付けにかかったのだった。
「美味かったよ主人。明日の朝は早めに来ることにするよ」
ホッとしたような主人の顔を見たアルバトールは、そのまま酒場に隣接する宿屋にいる仲間の元へ向かう。
その彼の後に続くように、一つの人影が酒場の物陰から現れるが、すぐに何かの気配に気づいたように宿屋の二階を見上げると、人影はそのまま建物の影へ姿を消した。
「ただいま。やれやれ、せっかく食事を楽しみにしていたのに……って、なんで居るんですか」
泊っている部屋のドアを開けたアルバトールの視線の先には、食事を済ませたばかりの彼の顔をげっそりとさせた原因、フォルセールで留守居をしているはずのエルザが笑顔で座っていた。
「あらあら。何故ここに居るのかなんて、冷たいにも程がありますわ。この人でなし」
「フォルセールに残っているはずのお方がここに居るのに、驚かない方がおかしいですね。何かあったのですか?」
「私の快気祝いですわ」
「……は?」
エルザの説明が理解できなかったアルバトールは、助けを求めて周囲に居る仲間たちの顔を見るが、どうも全員元気が無い。
むしろ具合が悪いと言うか、ぐったりしている。
まさか自分がいない間に敵が攻めてきたのかとアルバトールが身構えた時。
「ヘルメースのお陰で体力も回復したのに、一緒に祝ってくれる貴方たちは旅立った後。なので急いで追いかけてきて、下の酒場で全員に食事をおごって……」
「アンタのせいかァァァァッ!」
悪びれもせずに、それどころか朗らかな笑顔を浮かべて説明の続きをするエルザを見て、何となく安心してしまった自分に嫌悪感を感じつつ、アルバトールは明日の朝食の時間を頭に思い浮かべた。
二時間ほど後。
「それでは全員、無事に帰ってくるように祈っておりますわ」
「本当に飲み食いしに来ただけですか。それにしても……人のことは言えませんが、よくそんなお金がありましたね」
「東方で寄進された布施を、ガビーは殆ど使わないままこちらに持ち帰ってくれましたからね」
「なんてひどいことを。ってそうでもなさそうか」
エルザの役に立てたことを喜んでいるのか、隣にいるガビーが顔を輝かせるのを見てアルバトールは苦笑する。
そしていきなり宿屋に現れたエルザは旧神ルー、そしてクー・フーリンに関する簡単な情報、そして若干の力を籠めてヘプルクロシアの名産品に関する情報を話すと、来た時と同じように唐突に帰っていく。
「ガビー、アスタロトも貴女と同じくこちらに戻ってきています。決して油断しないように。ベルトラム、アルバトール、ガビーを頼みましたよ」
しかし去り際にエルザはそれだけ言葉を残し、それを聞いたガビーは顔をさっと青ざめさせ、手をきゅっと握りしめて顔を下に向ける。
そのただならぬ様子を見たアルバトールは、エルザに詳しい事情を聞こうとしたが既に彼女は光の玉と変じ、飛び去った後だった。
「明日の朝は早い。今日はもう寝て、積もる話は船の中でゆっくりするとしよう」
法術による遠話でエルザに詳細を聞こうかとも思ったが、聖霊の揺らぎによって予想もしない敵を呼び寄せることを嫌ったアルバトールがそう提案すると、周りにいる全員もそれに同意して彼らは部屋に戻っていった。
アルバトールたちが部屋に戻り、灯りを消そうとしていた頃。
光の玉と転じてフォルセールへと戻っていったはずのエルザは、なぜかラィ・ロシェールの郊外にある草原に降り立っていた。
何かを待つようにじっと立っていた彼女は、夜の闇に紛れて飛んできた何かの塊に反応して手を振り上げ、それを消去すると目つきを冷酷なものと転じる。
「お久しぶりですわね、堕天使の長殿」
[まったく久しぶりだね。まさか君にこちらの行動が読まれているとは思ってなかったよ。お陰で余計な手間を取ることになった]
先ほどまで確かにエルザ以外に誰もいなかったはずの草原には、いつの間にか黒い影……先ほど街でアルバトールの後を追おうとした人物が立っていた。
[なかなか可愛いね、あの子。ちょっと興味が湧いちゃったよ]
そう嬉しそうに言うやいなや、堕天使の長アスタロトは闇に同化した服を一転させ、テイレシアで着ていたスパンコールの塊へと変貌を遂げて片目を閉じる。
その姿を見たエルザは、どうやらいきなり戦いにならないようだと判断したのか、表情をややいつもの悠然としたものに変え、だがいつでもアスタロトを攻撃できるように精霊をじわじわと呼び集め始めながら嫌味を口にした。
「あらあら、以前の地味な服装よりは多少マシになったと言う所でしょうか……極端から極端に走っただけに過ぎませんけどね」
[うーん、これでも東方の最新流行を取り入れた服装なんだけど。こんな片田舎で埋もれている君にはちょっと理解できないかもね]
「海辺のド田舎で育ったカッペが、ちょっと東方の暮らしを経験しただけで言うようになったものですわね」
少々感情を表に出したエルザにアスタロトはからかうような笑みを見せ、視線は外さないままに少しだけ体を前に傾ける。
[君も少しは外の世界を見てきた方がいいんじゃないかい? 脳に刺激を与えないと、すぐにお婆ちゃんになっちゃうよ?]
「……なかなかいい嫌味ですわね」
[嫌味じゃなくて老婆心さ。さて、そろそろ本題に入ろうか]
自然体のまま、笑顔のまま。
天軍を統率するミカエルを正体とするエルザを目の前にしながら、堕天使の長であるアスタロトは余裕の姿勢を崩さずに口を開く。
[今回のヘプルクロシアへの天使派遣の真意、これを探るのが今回のボクの務めなんだけど、良かったら教えてくれないかい? エルザ]
「相変わらずいい性格をしておいでですわね。そもそも私が教えても、その情報が本当かどうか判別するすべが貴女には無いでしょうに」
[君がくれた情報が本当かどうかは、あの可愛い天使に確かめれば済むことさ。同じ話を聞いて、あの子と君が話した内容に矛盾があるかどうかで判断はつく]
軽い口調で話すアスタロトの顔を見たエルザは息を軽く吸い込み、目つきを再び鋭いものと変え、いつでも動けるように腰を少し沈める。
「天使アルバトールに確認しなくてもいい方法がありますわ。私が情報を提供した後、真偽の確認が貴女にとって意味を成さなくなればいい。つまりこの場で堕天使アスタロトを消せばいいだけですわね」
[出来るのかい? ボクが見た所、どうやら今の君は全快にはいささか遠い状態のようだ。ボクとしては、出来るなら万全の状態の君を叩きのめしたい所だね。その方が君の絶望は……より美味な物となる……]
エルザの挑発に、挑発を返すアスタロト。
しかしすぐにエルザが動かないのを見て取ったアスタロトは、口元を緩めて手をマントに回し、そのまま身を翻す。
[と言っても君は聞かないだろうから、取引をしよう。君は今回の任務内容をボクに教える。ボクはガブリエルの秘密……今の姿と名前を仲間に話さない。それでどうだい?]
「貴女がそれを今まで誰にも話していないと言う保証は?」
[君の正体が今まで誰にもバレていないことは、保証にならないかな?]
「……いいでしょう」
話はまとまり、天空を彩る数知れない星々が見守る中、二つの対照的な、それでいて相似的な影が交わり、そして離れていく。
[なるほどね、後はヘプルクロシアに着いた後に彼らに聞くとするよ。じゃあね、かつて聖女と呼ばれた者よ]
「今度会う時は、その下衆な本性ごと叩き潰してあげますわ。母性に名を借りて変節を繰り返す者よ」
辺りを包む闇と同化するが如く、アスタロトが静かに姿を消したのを確認すると、エルザもまた光の玉へと姿を転じ、その場を飛び立つ。
「成長して無事帰ってくることを願っていますよ、天使アルバトール」
そしてそう呟くと、エルザは東へ姿を消した。
天使と堕天使の長の間に密約が交わされた、明くる日の夜明け前。
「アルバ様、少々問題が発生いたしました」
「うん……? まだ夜は明けてないみたいだけど、何があったの」
今日の出立に向けて早めに床に就いたアルバトールは、まだ外が暗いうちにベルトラムに起こされる。
眠い目をこすって周囲を見れば、眠りが浅い、または殆ど寝ることのないバヤールは起きていたが、ガビーはまだ寝台の上で安らかな寝息をたてていた。
「敵襲です」
そこにベルトラムの不穏な言葉を聞いたアルバトールは、瞬時に眠気を振り払う。
そして先ほど敵襲と告げられたにも関わらず、静まり返っている部屋の中を見たアルバトールは窓に近寄り、そこから外に立っている人物の顔を認めた彼は寝台の横に置いてあった剣を腰に結わえ、窓を開けて外へ飛び降りた。
[よう、元気そうで何よりだ。今日はちょっくら聞きたいことがあって来たぜ、アルバトール]
歩く人もいない、ひっそりと静まり返った街。
その静けさを身に纏ったような神妙な顔で、旧神バアル=ゼブルは立っていた。
[おいおい、そんなおっかねえ顔をするなよ。別に戦いに来た訳じゃねえんだ。まぁ、お前さんが望むならそれもやぶさかじゃねえが、お前さんもこんな街中で戦って騒ぎを起こしたくねえだろ?]
殺気を隠そうともしないアルバトールを見たバアル=ゼブルは、呆れた口調でそう言うと周囲を見渡し、両手を広げて戦意が無いことを示す。
確かに今のバアル=ゼブルは以前アルバトールが王都で相対した時とはまるで違い、視線を合わせるだけで肌が切り裂かれるような重圧は感じない。
だが静から動へ一瞬で転じ、必殺の一撃を放ってくる目の前の旧神の恐ろしさは、アルバトールは王都で身を以って経験していた。
「信用ってのは積み重ねが必要でね。残念ながら君の信用は、積み重なった先から風に吹き飛ばされる砂粒のような物……と言いたいけど、確かに今の状況では君を信用するしか無さそうだ」
[理解が早くて嬉しいね。そんじゃ早速聞こうか。まずお前さんの今回のヘプルクロシア遠征の目的。二つ目はアスタロトって堕天使を見なかったかどうかだ]
その意外な質問の内容に、アルバトールは目の前の旧神が何か企んでいるのではないかと疑った後、問題は無さそうだと判断して答えを返す。
「一つ目については隠すようなことでもないし、少し街で聞けば判る程度だから言ってもいい。アデライード王女が誘拐されたから連れ戻しに行くんだよ。二つ目のアスタロトって堕天使についてだけど、こっちは残念ながら知らないな」
アルバトールは少々悩んだ後、自分の手には負えないと見て二階の窓を見上げる。
「……ベルトラム、そのアスタロトって人は見たかい?」
しかし窓から顔を出している二つの顔の一つ、ベルトラムは即座に顔を振り、その隣のバヤールもほぼ同時に否定をしていた。
「だってさ。そのアスタロトって人に何か特徴はあるかい?」
その質問を聞いたバアル=ゼブルは、露骨にいやそうな顔をして言いよどみ、彼には珍しく言葉を慎重に選ぼうと悩んでいるように見えた。
[あー……まぁ何だその、一風変わった服装をしている、とだけ言っておこう。やっぱそっちは無理に教えてくれなくてもいいわ]
「何それ」
だったら聞かなければいいのに、などと思いつつ、アルバトールはバアル=ゼブルに他に用件は無いか聞き、特に無いと返答をもらった彼は、再び眠りをむさぼる為に宿屋の客室へ戻ろうとする。
[じゃあまたな、アルバトール]
眠気に頭を囚われていた彼は、その言葉をよく吟味することもなくベッドに潜り込んだのだった。
[よう、いい天気だなアルバトール。そんじゃヘプルクロシアまでの短い間だが、よろしく頼むぜ]
「はあぁ!?」
朝日が眩しい夜明け直後。
船に乗り込んだアルバトールたちを待っていたのは、青い髪をなびかせたバアル=ゼブルだった。