第115話 港町ラィ・ロシェール
「セファール、とりあえず午前の巡回は終わったからお主の父上に水路の鎮魂を……何やっとるんじゃあいつら」
ある日の昼前、午前の巡回を早めに終えたフェルナンが詰所の執務室に戻ると、そこにはバアル=ゼブルをはじめとする旧神の四人とアスタロトが、備品のボードの前に集まって何やら講義めいたことを行っていた。
[今後の魔族に必要なことをバアル=ゼブル様が講義したいらしく、使用料は払うからここを貸してほしいと……団長様も午前は巡回で留守にすると仰っていましたから、構わないと思ってお貸ししてしまいました]
「む……まぁ確かに予定を早めに切り上げて戻ってきたのはワシの方じゃが……しかし今後の魔族についての話し合いをここでするなど、もっての外……」
渋い顔をして魔族を睨み付けるフェルナンの耳に、口から唾を飛ばして話すバアル=ゼブルの声が入ってくる。
[つまりボケと呼ばれる非日常、非常識な事態が発生すると、話の内容がそちらに引き寄せられてしまい、周囲の状況は日常、常識から大幅に逸脱、乖離して空白となり、停滞してしまう。俺たちが王都を占領しても、思うように事が進まないのはこのせいだ]
どこから言葉を借りてきたのかと思うほどの、難解な講義内容。
だが話の最初に、見過ごせないほどの違和感を感じたフェルナンは、自分の流した冷や汗に気付かないほどに目の前の魔族たちの行動を注視する。
[非常識の方へ周囲の常識が吸い寄せられ、引き離されて通常の方法では対応が難しくなったこの状態を回復させる方法は、二つの間に生じた隙間にツッコミと呼ばれるものを捻じ込んで隙間を埋めること]
そこで厳格な顔をしたバアル=ゼブルは、ボードに書き込まれたツッコミ役、と言う文字に、パァンと棒を叩きつけた。
[先ほど説明したように、ボケ役は基本的に常識から乖離した存在だ。よってボケ役が何人いても、非常識側に論点や話の流れを持って行かれて物事の流れは停滞する。そこですかさずツッコミを入れ、論点を常識側に引き戻して話を進める訳だ。つまり今の俺たちに欠けているのは、ツッコミをするツッコミ役と呼ばれる存在、と言う訳だな]
「……」
フェルナンはしばらく無言で立ちすくんだ後、ようやく何かを理解したのかぎこちない動きで頭だけをセファールに向ける。
「本当に何をやっとるんじゃあいつら!?」
その問いに、セファールも先ほどのフェルナンのようにしばらくきょとんとした顔で動きを止めるが、最終的に彼女は少し首を傾げて微笑んだだけで何もフェルナンに答えられず、最近購入した詰所の備品類の納入リストに目を落とした。
「放置しておいても問題は無さそうじゃが……い、いやこのままではワシの精神に支障が出ることは確実……しかし使用料をすでに貰っている立場上……」
どうやら目の前の問題を解決するのは難しそうだとフェルナンが諦めかけた時、彼の背後にゆらりと人影が忍び寄る。
その気配に驚いたフェルナンを見ると、その人影――白い髪、黒い肌を持つ男――は満足そうに微笑み、未だ講義中の魔族を見つめて口を開いた。
「……団長、それについては私から話させてもらうよ。最近八雲って弟と再会したんだけど、それがまた面白みのない性格をしていてね、見ていてつまらないから、からかいがてらボケとツッコミ論って嘘をでっちあげて教えたら、それを真に受けちゃってね。いやぁあの時の八雲の顔を団長にも見せたかったよ」
「あまり悪さをしていると、こちらも対応を考えねばならんぞ、迦具土」
迦具土から聞かされた話の内容にフェルナンは軽い頭痛を覚え、同時に苦々しげな口調で迦具土に忠告をする。
しかしその背後からは、新たな人影が更に忍び寄っていた。
「それでも兄がわざわざ教えてくれたことだし、何かの役に立てねばならないと思っていたら、昨日バアル=ゼブルからジョーカーの手助けについて相談を受けてな、その結果がこれだ。まさか本気にするとは思っていなかった」
いつの間にか巡回から戻ってきた八雲が、背後でいきなり説明を始めるのを聞いたフェルナンは今度も多少驚くが、その説明で多少の状況を飲み込んだ彼が再び旧神たちの方へ顔を向けた時、場に流れていた講義の声が止まる。
[おう爺さん、邪魔して悪いな]
「う、うむ……本当に邪魔でしか無いが……まぁ、金を既に支払ったと言うのであれば仕方がない……」
[何だよ珍しく歯切れが悪い答えだな。頭でも打ったんじゃねえだろうな]
よほど熱中していたのか、フェルナンが執務室に入ってからかれこれ十分以上は経っていたと言うのに、バアル=ゼブルは今気づいたと言わんばかりの表情でフェルナンに声をかけていた。
「まぁ、なんじゃ、その……お前がこれほど真面目に話すのを初めてみた気がするわい……しかし何でここで講義をしておるんじゃ? 城でやれば良かろうに」
しどろもどろになりながら事の仔細を尋ねてくるフェルナンを見て、バアル=ゼブルは照れくさそうに鼻をかきながら答える。
[ああ、最初はそうしようと思ってたんだが、なんかジョーカーが上級魔物たちの相談を受けるらしくてよ。俺たちが魔族の将来について深刻な顔をして議論しているのが見つかったら、全体の士気に関わるとかなんとか言われて追い出されちまったのさ]
「そ、そうか。そりゃ災難じゃったの」
士気に関わるのは議論している内容そのものだ、と指摘するのは何となく気が引け、かと言って他に上手い慰めの言葉が思いつくことも出来ずに途方に暮れたフェルナンは、適当に相槌を打ってその場を凌ごうとするがそうもいかないようだった。
[と言うことで手紙も預かってる。爺さんが愚図った場合はこれを見せろと言われてな]
そう言われてバアル=ゼブルから手紙を受け取ったものの、今の説明を聞いてしまったフェルナンはすぐに開ける気になれず、封筒の裏を何の気なしに見る。
するとそこには微妙に捻じれた筆跡でジョーカーの名前が書かれており、なおさら彼は開ける気になれなくなってしまっていた。
[どうしたんだ? せっかく持ってきたのに見ないのか?]
持ってきた手紙を開けようとしないフェルナンを見て、バアル=ゼブルが発したその言葉に悪気は無い。
一片の欠片も無い。
むしろ、本当に具合が悪いのではないかとこちらを心配する善意の塊である。
だからこそフェルナンは手紙を開ける気にはなれなかったのだが、バアル=ゼブルの気づかいが痛いほど(実際に胸に痛みを感じるほどに)感じられた彼は遂に決心し、ゆっくりと封筒を止めてある蜜蝋をナイフで切り、中に収められている便箋を取り出す。
そこにはこう書いてあった。
~今日くらいは一人になりたい。金は余分に包ませてもらったからよろしく頼む~
その短い文章に込められた、万感の思いを感じ取ったフェルナンは思わず目頭の奥に熱を感じ、手の平で目を覆ってしまっていた。
[お、おい爺さん何があった!?]
そして心底こちらを心配してくるバアル=ゼブルの顔を見て、フェルナンは何でもないと言って手を振ると、八雲とセファールへ彼らの世話を頼むと言い残し、迦具土と共に執務室を出て行った。
[まったく、爺さんどうしちまったんだろうな……まぁいい、先ほどの話の続きをするぞ。ジョーカーが少しでも楽に仕事を進めることが出来るように、俺たちで話を進める環境を整えてやらねえとな!]
その日の夕方。
「もう勘弁してくれ」
[おいおい、何を言ってるんだよ]
あの後、延々と執務室でボケ続ける魔族に根負けした八雲はすべて白状していた。
そして息を切らして深々と頭を下げる八雲の前には、すべてを知ったバアル=ゼブルがにこやかな笑顔をして立っている。
[さ、ボケとツッコミの練習の続きだ。どんどんツッコミ入れるから早くボケてくれ]
……、…………。
バアル=ゼブルの爽やかな笑顔とは裏腹に、強張った顔の八雲から発せられる言葉。
それによって、執務室の空気は氷河と転じさせられたかのように凍り付く。
その停止した部屋の中の時間を尻目に、詰所の上空に浮かぶ赤く染まった月はゆっくりと中天を過ぎていき、生暖かく湿った風が街の中を吹き抜けていったのだった。
[……満足そうだなバアル=ゼブル。まさか朝帰りをするとは思わなかったぞ]
[ジョーカーか。ああ、まさかアイツがあそこまで意地っ張りだとはこっちも思ってなかったぜ……]
他の者たちが全員帰る中、八雲と二人で夜を徹してボケとツッコミを繰り返したバアル=ゼブルは、色々な意味で消耗した心身を癒す為に寝室で眠りについたのであった。
その日の昼過ぎ。
[と言う訳で、出かけるよバアル=ゼブル]
[あー……? なんだアスタロトか。眠いからまた今度にしてくれ]
[しょうがないなー、じゃあボクだけで行ってくるよ]
そんなやりとりがバアル=ゼブルの寝室で行われる。
そして夜。
[何でアイツ一人で行かせたんだよ!?]
[知らん! 私はきちんとアスタロトにお前と一緒に行けと言ったぞ!? そのお前が何でまだここにいるのだ!?]
港町ラィ・ロシェールに向かった天使、アルバトールの目的を探ることと、場合によっては討伐することを命じられたアスタロトが、一人で出発してしまったとバアル=ゼブルがジョーカーから聞いたのは、彼女が既に出かけてしまった後だった。
ジョーカーとバアル=ゼブルが責任の擦り付け合いを始める少し前の夕刻。
その話題の中心であるアルバトールは、レオディール領の港町ラィ・ロシェールの波止場に立ち、そこに打ち込まれた杭に右足を乗せつつ、前傾姿勢で沖を見つめていた。
海岸に沿って構築された波止場には数々の漁船が並び、沖には巨大な商船らしき船も数隻ほど見受けられる。
遠く聞こえてくる鳴き声に上を見上げれば、そこには数々のカモメが飛び、視線を戻して横を見れば、立ち並ぶ倉庫の間に大きな幌が張られて市場が開かれ、目を見張らんばかりの品数の海産物に群がる人々の姿があった。
「ここがラィ・ロシェールか……」
「海を楽しむなら東のマロールセリユ、海で儲けたいなら北のオゥフルール、海を味わいたいなら西のラィ・ロシェールと言われており、水揚げされる海の幸の種類、量に於いて聖テイレシアの頂点に立つ港町です。時間が許すのであれば、ひと月ほど滞在したい所でございますな」
アルバトールは横に立つベルトラムから説明を受けると、吹き付けてくる潮風に身を任せ、内より湧き上がってくる海の男のロマンに心を委ねるのだった。
そんなポーズをとりながら、アルバトールは数日前のことを思い出す。
ヘプルクロシア王国からフォルセールに戻ってきたダリウスから話を聞き、即座にヘプルクロシアに旅立つことになった時、その心は不思議と静かなものだった。
最初から交渉が一筋縄ではいかないと判っていたこともあるが、それよりヘプルクロシア王国には彼の騎士養成所の同期であり、友人であるクラレンスが居るからである。
かつて聖テイレシアに留学に来ていた彼に人形呼ばわりされ、決闘になる所だったことを思い出すと、アルバトールは波止場の杭の一つに足を乗せたまま苦笑を始める。
「……」
しかしその姿を彼の執事であり、正体をウリエルとするベルトラムと、東の教会から派遣された聖職者ガビーと言う体裁のガブリエル、そして正体を大っぴらにしている神馬バヤールの三者に不審な眼で見られていることに気付いた彼は、その場を誤魔化す為にわざとらしく咳ばらいを一つし、ベルトラムに今後の予定を聞いた。
「お、おほん。ベルトラム、出港できるのはいつくらいになりそうだい?」
「ディオニシオ伯からは明後日の早朝と聞いております。小さい船ならともかく、貴族を乗せるような大きい船は、水夫の手配などがすぐにはできないとのことで」
「気を使わなくてもいいのにね」
「残念ながら、伯は大きな船であれば、多くの荷物も乗せられるからな、と高笑いしておりましたぞ」
その時のディオニシオの顔が目に浮かび、アルバトールは苦笑しつつ顔を振る。
そんな彼を見たガビーは不満げに眉間にしわを寄せ、腰に手を当てて顔を上げると、年端もいかぬ少女の姿からは想像もつかないほどに老練した忠告を口にした。
「そんなことより、こんな大勢で行って大丈夫なの? エルザ司祭様がヘルメースの力を吸い取って回復したからフォルセールの守りは万端としても、これから向かうヘプルクロシアにとってこの人数は脅威ではないかしら?」
「それがこちらの狙いなんだから仕方がない。ヘプルクロシアの情勢は、思ったより深刻なようでね、詳しい内情をこれから宿に行って話そう」
しかし忠告の内容は先刻承知しているとばかりにアルバトールは返答すると、そのままガビーが着けているサークレットを見る。
フォルセールにガビーが来てから数日。
その動向を何人かで経過観察した結果、天使側の秘匿情報をうっかり口に出すことも無くなっていた彼女は、再び元の力を振るうことを許されたのだが、念のために電撃サークレットはそのままとなっていた。
と言っても、ガビーが元の力を取り戻した今ではその効き目は怪しい物だったが、少しの刺激くらいは感じ取るだろうとのエルザの言葉に従い、着けさせているのだ。
しかしアルバトールは、エルザの言葉に別の意味があるのではないかと見ていた。
(多分エルザ司祭にとってもトラウマになってるんだろうなー……実はあの額冠を遠ざけたいだけじゃ?)
内心でそんな考えを思い描きながら、彼はヘプルクロシア出立の経緯と、目的の説明をする為に宿へ向かった。
「と、言うことで。どうやら彼らの主神であるルーが乱心したのではないか、と言うのがダリウス司祭の意見さ」
海が見える宿の一室で、アルバトールは出発に至る詳細な説明を始める。
「ルー直々に、先王の弟であるクラレンス殿を王座に据えた、ですか……世俗の権力を左右するのは無用な争いを呼ぶとして、どの神々もとうの昔に止めていたはずですが」
ベルトラムの呟いた内容に、アルバトールも素直に頷いて同意する。
「ダリウス司祭もそう言っていた。これは王族の争いに名を借りた、ヘプルクロシア旧神の勢力争いではないかと言っていたよ。英雄クー・フーリンは皆知っているよね」
突然出てきたヘプルクロシアの半神の英雄の名前に、全員が驚きながら頷く。
「彼は一度戦場で壮絶な死にざまを遂げたにも拘わらず、人々の信仰の元にその身を旧神に変化させ、現世に留めおいた。だがその高すぎる名声故に、彼は父であり主神であるルーに匹敵する能力を身に着けてしまったらしい。そしてそのクー・フーリンが、兄であり、先王であるリチャード殿の後ろ盾だとか」
「その状況じゃあ兄もクー・フーリンも納得してなさそうね。臣下や諸侯はどっちに着いてるの? 民衆は?」
思慮深そうな表情もできるガビーの呟きにアルバトールは感心し、そして現在の状況に置かれたヘプルクロシアの人々に同情しつつ溜息交じりに答えた。
「そのどちらも真っ二つだよ。ついでに言うなら既に利益誘導が始まって、国内のあちこちで小競り合いが始まっているみたいだ」
「なるほど、今回のあたしたちの目的はアデライード姫の奪還だけでなく、王族同士の争いの調停も兼ねてるって訳ね。腕がなるわ!」
「ククク……このバヤールの顔に泥を塗った罪、その身であがなうが良い……」
不敵に笑うガビーの後ろで、丸太のような腕を組んだバヤールが含み笑いをする様はどう見ても悪役である。
だが、今回はあくまで話し合いをしにヘプルクロシアに行くのだ。
もちろん交渉が決裂した場合はその限りでは無かったが、まず話し合いなのである。
「言っておくけど、ダリウス司祭の情報元は城に集まった王侯貴族が主。僕たちは民衆や各地の諸侯の情報も聞いてから最終的な判断を下すことになっている。それを絶対に忘れないでくれよ二人とも」
しかしその注意にニコニコとしながら頷く二人を見たアルバトールは、どうせ争いに巻き込まれるんだろうな、とこの時すでに諦めの境地に達していた。
そして溜息を一つつくと、彼は腰に帯びた炎の剣に視線を落とし、剣から感じる神気の息吹を恐れるようにその柄を抑え込み、一人考えに沈む。
(現王クラレンス……やはり君なのか? ではアデライード王女を誘拐したのは、僕を王座を争う道具として使う為か?)
下手に動けば、内政干渉によって両国に思わぬ影響を与えかねないその重圧に、アルバトールは再び溜息をつくことしかできなかった。