第114話 一日の始まり
王城で魔族がいつものように騒々しい一日を終えようとしていた夕刻のこと。
自警団の団長フェルナンは、街の巡回の後に直帰すると言っていたブライアンの訪問を受けていた。
「ん? 何か忘れものかジョーカー……おお、ブライアンか。てっきり帰宅したものと思っていたぞ」
「ええ。私も小用を済ませた後、そのまま部屋に戻ろうと思っていたのですが、今後の王都について私なりに考えていた案に目途がつきましたので、まずフェルナン団長に相談してみようかと」
ここでフェルナンがブライアンとジョーカーを間違えたのには少々理由がある。
自警団の執務室に、城に戻ったはずのジョーカーが再び現れたのが二時間ほど前。
そして帰ったのがつい先刻、つまりブライアンの入室と十分ほどしか変わらなかったからだ。
それに加えて、先ほどまで来訪していた堕天使はいつになく憔悴しているように見え、ここに来て何をするでも、何を語るでもなく。
ただ単に虚空を見つめ、ぶつぶつと呟き、時にいきなり立ち上がって周囲を見渡し、床の木目を指でなぞり始めるなど奇行を繰り返した後。
[よし、帰るぞ!]
と叫ぶやいなや、その場で飛び上がり、廊下を走って詰所を出て行ったのである。
こんな姿を見せられては、帰る途中で正気に戻り、再び訪ねてきたと思われても不思議は無かっただろう。
何はともあれ、王都の将来についての案を聞くのはフェルナンにとっても意義深いことであった。
「ふむ、何やら面白そうな話を聞かせてくれそうじゃの。セファール、すまんがブライアンに茶を出してくれ」
そして温かそうな湯気を立てる茶器が並べられた後、二人の会話は始まった。
「……なるほどな、孤児院が完成するまでのつなぎとして、街の孤児たちに何らかの働き口を紹介したい、と言う訳か。だがその働き先が王城とは……ちと危険すぎるのではないか?」
フェルナンはそう言った後、目の前に置いてある茶器を手に持ち、中の黒い液体から立ち昇る豊かな芳香で鼻腔を満たした後にすすり始める。
その飲み物は、最近テイレシアでも入手しやすくなったコーヒーであった。
刺激的な味と、意識を覚醒させる効果があると言うことで、とあるカフェからここ数日で爆発的に王都テイレシアに広まっているが、その仕掛人は未だ不明である。
「確かに危険です。しかし今のテイレシアに新しい雇用先を見つけるとなると、やはり王城にいる魔族しか思いつきません」
ブライアンの言い分にフェルナンは尤もだと頷き、だが危険なことには変わりないと悩み始める。
しかしそれはブライアンの考えの内にあったことなのだろう。
すぐに始まった説明に、フェルナンは耳を傾けた。
「ええ。ですから城に奉公に行く前と、行った後に詰所に寄ってもらいます。その時に人数と素性――人間であるか――を確認します。また行く前に一人一人に違うキーワードを伝え、戻ってきた時にそれを言って貰おうかと」
「ほう、なるほどな」
単に孤児院を建てるだけではすぐに行き詰る。
孤児院の維持費、そこから子供たちが巣立つ時に備えてその就職先を確保しておくのは、フェルナンの懸念材料の一つでもあった。
「判った、城にはワシの方から伝えておこう」
「その前にバアル=ゼブル様に事前交渉をしておいた方がよろしいかと。かのお方であれば、必ずや子供たちを魔物の手から守ってくれることでしょうから」
頷くフェルナンを見たブライアンは立ち上がり、一礼をして執務室を退室した。
「責任を取るのはお前一人。いいな」
「お気づきでしたか。委細承知しております、八雲殿」
だがブライアンが廊下に出た途端、扉のすぐ横に立っていた一人の男から鋭い声が彼に向けて飛ばされる。
死角からの声にも関わらず、ブライアンはまるで驚く様子も無いどころか、八雲の唐突な内容の命令までをも重々しく肯定していた。
動揺することも無く、ただただ冷静な彼の澱みない返答を聞いた八雲は、だが協力は惜しまないと言い残し、その場を去った。
「不惜身命……このブライアン、王都奪還の為であれば喜んで幾らでも泥を被ろう」
そして詰め所を出たブライアンは懐具合を確かめると、騎士団の未亡人が勤めていると噂される店へ軽い足取りで向かうのであった。
次の日の朝、王都テイレシアに集う魔族の間では、どんよりとした空に起因せぬ重い空気が流れていた。
合流した堕天使の長、アスタロトと旧神たちの間に昨日揉めごとがあったと聞いた彼らはそれぞれ不安を口にし、また一向に仲が改善しそうにない自分たちの指導者たちに向けて溜息をつく。
[しょせん我らは烏合の衆。全員をまとめ上げるルシフェル様が復活されない限り、いくら個々の戦力があろうとも……]
そして誰が発したか判らぬ愚痴に、その場にいる者たちは次々と同意していった。
[やあ、お早う諸君! 気持ちのいい朝だね!]
一方、魔物たちの噂の元であるアスタロトは、広間に入ると同時に隅々まで良く通る声で、そこに集う全員に挨拶をしていた。
その挨拶に思わず反応してしまったジョーカー、バアル=ゼブル、モートの三人は、その先にあるアスタロトの爽やかな笑顔を見てしまい、どんよりとした雲……ではなく、顔になって挨拶を返す。
[あれれー? どうしたんだい君たち。こんなにいい朝なのに、君たちの顔ってばゴーストより青白いよ?]
[なーにがいい朝だ、外は土砂降りの雨じゃねえか。寝ぼけてんじゃねえぞアスタロト]
そのようにつれない態度をとる彼らを見ても、あくまで明るい態度を崩さないアスタロトに、バアル=ゼブルは反発するかのようにぶつぶつとケチをつける。
[そんな狭い考えをしているから、君たちはあっさり天使たちにやられちゃうのさ。雲の上はいつでも晴天! そう、僕の着ている服のように煌き輝く太陽が、雲の上に出ればいつでも見れる! そう考えないとね!]
アスタロトはそれを意にも介さず、形の良い胸を張って自らを指差すが、バアル=ゼブルだけは納得できないのか、拗ねたように口を尖らせて更に口答えをした。
[雲の上に行くのが面倒だろ]
[仕方ないな……昨日みたいに、地上に居ながら雲の上にいるような心地にしてあげようか? バアル=ゼブル]
[バ、バッキャロウ! そんなことより飯だよ飯! 今朝の飯当番は誰だジョーカー!]
だがどうやらそれは、彼を窮地に追い込んだだけのようであった。
顔を近づけ、耳に熱い吐息を吹きかけてくるアスタロトから慌てて身を遠ざけると、顔を真っ赤にしたバアル=ゼブルはジョーカーに朝食はどうなっているんだと叫ぶ。
だがジョーカーが指さした相手は他でもない、当番は誰だと叫んだ彼自身であった。
[パス]
[ならば仕方ない、魔物たちに作らせるとしよう]
[アイツらの作った飯ってなんか臭いからそれもパス]
[ふむ、では今朝の朝食は全員抜きだな]
ジョーカーがそう言い放つと全員から悲鳴が発せられ、すぐにバアル=ゼブルへと鋭い視線が集中していく。
[先に言っておくが、アナトは今後食事を作ることは許さん……待て待て、せめて食事を完成させられるようになってから抗議をしろ! 食材に込められた力ごと塵にされてはかなわん!]
そして一人の女性、アナトが席を立つ姿を見たジョーカーはただちにそちらへ警告するが、その途中でおもむろに大剣を呼び出した彼女を見て悲鳴をあげる。
しかしそこに、まるでアナトを臆する様子もない声が間に割って入り、それを聞いたジョーカーが救いを求めるべく声の持ち主を向くと、そこにはアスタロトが人差し指をアナトに向け、片目をつぶった姿で立っていた。
[ボクがやろう。久しぶりに皆に食事を振る舞ってあげたいしね]
[アスタロト、あまりバアル=ゼブルを甘やかしては困るぞ]
直後に発せられたモートの苦言に対してアスタロトは笑顔を返し、そのまま軽い足取りで厨房へ向かった。
[出来たよー、時間が無いから食材を全部まとめてピラフにしてみたー。食材の切れ端でスープも作ってみたよ]
十分ほど後、そう言って大量のピラフを乗せた巨大な皿を、頭の上に掲げて持ってきたアスタロトは、小皿と大きいスプーンのような陶器をベリアルに、スープをペイモンに持ってこさせ、次々と配膳していく。
[すまんな、向こうから戻ってきたばかりで疲れているであろうに、皆の食事の世話までさせてしまうとは]
[ああ、気にしなくていいさジョーカー。昔からバアル=ゼブルの我儘には慣れてるよ]
[だそうだ。大人しく自分で作っておけば、何もしようとしない役立たずと皆に思われずに済んだものを]
[……うっせーぞジョーカー]
そのジョーカーの嫌味に追い打ちをかけるように、バアル=ゼブルにモートが耳打ちをする。
ちょっとした悪ふざけのつもりだったのだろう? と彼の本心を的確に突いてきたモートの指摘に、バアル=ゼブルはむすっとしながらスプーンでピラフをつつく。
しかしそのスプーンを口の中に運んだ瞬間、彼の胸の内はアスタロトが去る前の穏やかな日々に塗り替えられていた。
懐かしい笑顔、懐かしい匂い、懐かしい味。
バアル=ゼブルはスプーンを口の中に運ぶ度に蘇ってくる、かつての思い出に心を奪われてしまう。
――ひょっとして自分は、昔のように姉が我儘を聞いてくれることを望んで、無意識に当番を拒否したのではないか――
小皿の半分ほどピラフを食べ進んだ時、ふとそんなことを考えてしまったバアル=ゼブルが、それに勘付いた不届き者はいないかと器で自分の視線を隠しながら、食卓に並ぶ面々の顔を覗き見ようとした時。
[んん~? 何を見ているのかな?]
彼は迂闊にも、それをアスタロトに見つけられてしまう。
[お前さんに味の感想を求められた時に、失礼のないように他の奴らの顔を見て参考にしてたのさ]
[やれやれ、素直じゃないなぁ。昔通りで嬉しかった、でいいじゃないか]
――美味かったじゃないんだな――
そう言おうとしたバアル=ゼブルは、アスタロトの顔を見るなり口をつぐみ、どうやら自分の考えていることは、アスタロトに全部見通されているらしいと天を仰ぐ。
知と力で彼の上を行く姉が、再び彼の身近にいるようになったことを一言で簡単に言い表すなら、やりづらくなった、に尽きるだろう。
だが不思議なことに、そのやりづらくなった状況を彼は歓迎しており、それを上回る充足感を感じてもいるようである。
それはまるで、アルバトールとエルザの関係のようであった。
[信仰心が詰まった供物の代わりに、精霊の力を込めた食事を摂るか。いい考えだとは思うんだけどさ、何で今更そんな余計な手間をかけるんだい? いつもテイレシア中を荒らしまわって、そこから連鎖的に発生する負の感情だけでまかなってたじゃないか]
食事を終えた後、満足そうに椅子に座る皆を見たアスタロトは、不思議そうに首をかしげてジョーカーに質問をする。
[確かに転戦を続けていけば、行く先々で新鮮な負の感情が大量に手に入る。しかし王都を占領した以上は、ここに居座り続ける必要があるからな。だがいざやってみると、思ってもみなかった問題が発生した]
コーヒーの苦みに顔をしかめたジョーカーは、新鮮な牛乳を確保する必要があるな、とボヤいてアスタロトに応える。
[人間たちの我らへの順応が思ったより早くてな。生かさず殺さずの予定が、ほぼ共生の状態にまでなってしまった]
[あらら。勝手にボクたちを祀り上げて、神頼みを始めちゃった頃を思い出すね。相変わらず図々しいなぁ人間は]
うんざりとした表情のアスタロトを見たジョーカーは、所属する陣営を次々と変える厚顔無恥なお前に言われたくは無いだろうな、と苦笑する。
[こちらも色々と手は打ったのだが、人間たちの恐怖などの負の感情は薄れる一方。仕方なくこうやって力を召喚させた食事を我々も摂る必要が出てきたと言う訳だ。まったく人間どもの図々しさには呆れるばかりだ]
[なんだか面倒だね。もう王都なんか捨てちゃった方がいいんじゃないかい? 一つのことに執着しすぎると、他の面が見えなくなっちゃうぞ?]
[お前の言う通りだな。人間と言う種族が、これほど安定に長けているとは想定外だった。おかげでアギルス領に確保させておいた食料が持ちそうにない]
[おいおい、冗談だろ? 俺がアギルスとフェストリアに用意させた食料は、王都に居る全員が四か月は持つ量があったはずだぞ?]
ジョーカーの言った内容が信じられないとばかりに悲鳴を上げたバアル=ゼブルに、ジョーカーはアーカイブ術を展開させ、その内の数枚をバアル=ゼブルに送り込む。
[ああ……なるほどな。横領はともかく、盗賊の類まで計算に入れてなかったのは確かだが……ちっと多すぎねえか?]
[盗賊の振りをした何者かの可能性もある]
[やれやれ、アギルスの石頭共か]
ジョーカーの予想を聞いたバアル=ゼブルは、アギルスとの同盟成立の時に、最後までテオドールに反対していた一部の家臣たちの顔を思い出し、唾を床に吐き捨てる。
[アギルスの家臣と言うのであれば、単に事務処理が遅れている可能性もあるな。主は反逆者として死に、周囲は敵ばかり。やる気が無くなっても仕方がない状況だ]
[誰のせいだかな。つーか俺をアギルス領に行かせろって言ったのを止めたのは、他でもないお前自身だと言うことを忘れるなよジョーカー]
[数名ほど魔神を差し向ければ何とかなる、と言ったのは誰だったかな?]
ジョーカーの言葉に、即座に顔をそむけるバアル=ゼブル。
その青い髪の旧神からベリアルとペイモンに視線を移したジョーカーは、彼らにアギルス領へ向かうように要請をするが、その答えは素っ気ない物だった。
[ダーメ。アタシだけならともかく、この状態のベリアルを一緒に連れてなんか行けないよ。好みだけど]
アナトの後ろに隠れているベリアルに流し目を送りながら、ペイモンはジョーカーの申し出を断る。
[ボクが行こうか?]
[お前が行っては呼び戻した意味が無かろう。アスタロトの申し出は嬉しいが、今回は他の者を行かせるとしよう]
そう言うと、目の前をさり気なくうろうろするバアル=ゼブルを見ないようにして、ジョーカーは広間を出て行った。
[あんのヤロウ……俺を無視して派遣人員を決めるとはいい度胸じゃねえか]
あの後すぐに戻ってきたジョーカーにより、アガレス、アンドラス、そして最近合流したダンタリオンの三人の上級魔神がアギルスに派遣される旨が伝えられる。
それを聞かされたバアル=ゼブルは、即座に街の様子を見てくると言って城を飛び出し、貧民街へと向かっていた。
あちこちを半眼で見つめながら見回りをする彼は、良く言って街を歩く与太者と言った様子で、規範を外れた下級魔物が居ないか睨みを利かせつつ、体を揺らしながら歩いていく。
「どうした、お前にしては珍しく不機嫌そうだな」
[うるせえよバカ野郎ちょっと考えごとをしてただけだよバカ野郎]
だが不機嫌そうに睨みを利かせているはずの彼に対し、恐れる様子も無く話しかけてきた一人の黒髪の男がいる。
言わずと知れた自警団の副団長、八雲にバアル=ゼブルは毒づきながらも弱音を吐き、気づけば相談を持ち掛けていた。
「なるほどな。お前にも真面目に物事を考える日があると分かっただけで、今日の巡回は得難い価値が付与されたぞ」
[ちょっと城の外に出ろコノヤロウ]
バアル=ゼブルは、ここ最近で自分なりに考えた結果を八雲に相談したのだが、俺には関係ないとばかりに茶化す八雲の返事を聞いた彼は、他人に相談したのが間違いだったとばかりに八雲に詰め寄る。
[冗談だ。真面目に考えているところを茶化して悪かった]
すると傍若無人の八雲にしては珍しくすぐに謝罪をし、その姿を見たバアル=ゼブルは何かあったのかと相談相手に向かって逆に質問を始めていた。
「気を使わせてしまって済まないな。いちいち気に障ることを言う兄が、すぐ近くに居座るようになってから少々心が荒んでしまってな。他人の心を慮った発言が出来ないようになってしまったようだ」
[……いや、お前初対面の時からまったく他人のことを気にしてないから]
その後、気にしていた、気にしていなかったで言い争う二人の後を、のんびりと自警団の団員たちは着いていく。
彼らの眼前の二人の内、一人がその気になっただけでもこのテイレシアを一瞬にして壊滅に追い込むことが出来る。
その事実を知っていても、彼らに慌てふためく様子はまったく無い。
そんな彼らの様子を知ってか知らずか、バアル=ゼブルは必死に八雲と言い合いをしながら街を練り歩いていく。
「バアル=ゼブルさまぁ~ん、今度はいつお店に寄って下さるのぉ~ん?」
「ちょっとコーヒーのブレンドの配合を変えてみたんですが、味見してくれませんかいバアル=ゼブルの旦那」
「風のあんちゃーん、異国の話をまた聞かせてよー」
その間、この王都を攻め落とした魔族の一人である彼に話しかけてきた街の人々は、両手を使っても数えきれないほどのものだった。
「この街を占領した魔族が大した人気だな」
[これが神の徳ってやつだ、覚えておくんだな]
「その神が人間のように悩んでいるとはな。人のことは言えぬが、こちらの神は随分と俗物的のようだ」
[ヘッ、元々神なんざそんなもんさ。何もかもを超越した、概念によって表現されるような訳の分からねえ存在は、いつの間にか唯一神なんぞと祭り上げられるようになったあの忌々しい天主だけだ。まぁいい、さっきの話だが、俺はどうすればいいと思う]
バアル=ゼブルは八雲の平然とした表情を見て、思わず昨日のジョーカーの弱った姿を脳裏に浮かべ、動揺とは無縁に見える隣の男へ問いかける。
その追い詰められた表情を見た八雲は、参考になるかどうかは判らんが、と前置きをしてから助言をし、それを聞いたバアル=ゼブルは喜び勇んで城へ戻っていった。
「……一応、忠告はしておいたからな」
そしてバアル=ゼブルを見送った八雲はそう呟くと、先ほどの八雲の助言を聞いてそれぞれに顔を見合わせる団員を連れ、街の巡回へ戻っていったのだった。