第113話 アスタロト、堕天使を率いしモノ
モートの怒号により、謁見の間は一気に地獄絵図と化す。
火が付いたように泣き出すベリアル。
その場を収めようと、何とかモートを説得しようとするバアル=ゼブル。
一方、謁見の間を怒気の海に沈めた当のモートは、ベリアルの泣き声を聞いて駆け付けたアナトにより、血の海に沈められていた。
[待てアナト、これには訳がある]
瀕死の状態から復活し、事情を説明しようとするモートだが、アナトがそれを聞く気配は無い。
[私がお前を引き裂く理由が、増えることはあっても減ることは無い。それを承知で尚言うつもりがあるのなら聞こう]
それどころか火に油を注いだ状態になったアナトを見て、モートは少し考えこみ。
[と言う訳だ。説明を頼んだぞバアル=ゼブル]
[俺かよ! えーとだな……ん?]
いきなりモートに話を振られ、慌てるバアル=ゼブル。
だが戸惑いながらも彼が説明を始めようとした時、ひっそりと謁見の間に現れた人物がベリアルの顔をじっと見つめ、その場に居並ぶ顔を、力のない老人のような動きと表情で確認し始める。
[……どうして子供がここにいる?]
[ああ、この子供はベリアルだから気にすんなジョーカー]
表情を変えぬままバアル=ゼブルは説明をし、その説明を聞いたジョーカーも表情を変えずに口を開く。
[フェルナンの所に行ってくる]
[判った]
背中を丸め、ぴたぴたと力ない足音で謁見の間を出ていくジョーカーを全員が無言で見送った後、バアル=ゼブルは何となく申し訳なさそうに説明を始めるのだった。
[なるほどな。つまりベリアルがセファールにちょっかいを出していた所を、ヤム=ナハル爺に見られたのが原因か]
[ああ、それも運の悪いことに、八雲もその直後に巡回から戻ってきてたらしくてな。ヤム=ナハル爺のお仕置きを喰らって瀕死の状態の所に、タイミング良く――この場合は悪くか? まぁ八雲の雷撃が直撃しちまったって話だ]
バアル=ゼブルはそこでうんざりしたような表情で両手を上げ、脇でおどおどとした態度のままのベリアルに視線を落とす。
[その結果、転生はかろうじて免れたものの、力と記憶が消し飛んじまったみてえだな]
説明を聞いたモートがベリアルを見ると、彼はその視線から隠れるようにアナトにしがみつき、顔だけ出してモートを恐る恐る見上げる。
以前のふてぶてしい態度は鳴りを潜め、牙を抜かれた狼のようにおとなしくなったベリアルの姿を見て、モートはうなだれ、諦めたように顔を振った。
[せっかく王都を占領し、我々の目的に向かって一歩進んだかと思えば、仲間内でまとまることは無く、勝手な行動をとって自滅する奴らばかり。これではジョーカーの身が持たんぞ]
[……おい、きちんとアナトにも聞こえるように言えよ]
耳に顔を近づけ、ぼそぼそと愚痴をこぼすモートにバアル=ゼブルは呆れたように言うと、そのまま彼は謁見の間を出て行こうとする。
[アナト、悪いがベリアルの様子を見ていてやってくれ]
そしてそう言い残すと、アナトの返事も聞かぬままに彼は謁見の間を後にした。
[さて、兄上にベリアルの世話を頼まれたはいいが、どう処分……処置をすればいいものか。モート、ペイモンはどこだ?]
[判らん。先ほどアスタロトを部屋に案内してくると俺に言った後、どこかに姿をくらませてしまったようだ]
バアル=ゼブルが居なくなった後、こっそりと再び壁際に移動したモートをアナトは不思議そうに見つめる。
そこに足に何かがしがみついたような感触に気付いたアナトが足元を見下ろすと、そこにはベリアルが心細そうな顔で彼女を見上げていた。
[おじさんはどうして壁際に移動したの?]
あどけない表情で質問をするベリアルに対して答えたのは、アナトではなく不機嫌そうな声をしたモートだった。
[俺はおじさんではない]
[だって髪の毛が無いよ]
[これは剃っているだけだ]
[本当に?]
おじさんと呼ばれた後、こみあげてくる怒りを何とかして堪えるように下を見てベリアルの質問に答えていたモートは、ついに我慢の限界が来たのか顔を上げ、ベリアルを睨み付ける。
[よせモート、子供に対して大人げないぞ]
[はい]
しかし顔を上げたモートの視界に入ったのは、アナトが投げつけたアスワド・タキールであった。
アナトの術を喰らい、成すすべなく倒れたモートが顔を上げると、そこには口の端を吊り上げ、ニタリと笑うベリアルの顔があった。
[うわあああああん、お姉ちゃんこのおじさん怖いよおおお]
そしてモートの発言を封じるかのように即座に泣き出し、アナトにしがみつく。
[おおよしよし、しょうがない、ペイモンが見つかるまで私が世話をすることにするか。モート、ペイモンを見たら私の部屋に来るように伝えてくれ]
[……それが妥当な所だろうな]
モートがその提案に承諾すると、アナトはベリアルの手を引いて彼に背中を向ける。
その直後、ベリアルが肩越しに再び冷笑を自分に向けたことにモートは気付き。
[待てアナト! お前は気づいていないかもしれんが――]
アナトに少々乱暴な制止の声をかけてしまう。
[誰が世間知らずの小娘だ]
[すまん]
地面に倒れたモートから謝罪の声を受け取ると、アナトはベリアルと共に謁見の間を出て行ったのだった。
[ここか]
謁見の間を出て行った後、バアル=ゼブルはアスタロトに割り当てられた部屋の前に立っていた。
かつての仲間であり、再び仲間になった存在に会いに。
(まぁしょうがねえよな。昔は昔で今は今。奴が争いを嫌って天使側に裏切ったのも、更にそこから堕天使に身を堕として俺たちと手を組んだのも……やっぱムカつくな)
だが先ほど、なめくじのようにぐにゃぐにゃの姿となってしまったジョーカーを見た彼は、そのざわつく心を抑えて彼女に会う必要があることも判っていた。
少し前のことになるが、あるお人好しな天使の性格に付け込んで無理難題を頼もうとしたバアル=ゼブルだったが、これを見る限り彼も人のことは言えないようである。
[アーシ……アスタロト、俺だ、バアル=ゼブルだ。入ってもいいか?]
すると、部屋の中からすぐに懐かしい声が返ってきていた。
同時に彼の胸には、姉である彼女と共に過ごした数々の思い出が去来し、それに心を奪われたバアル=ゼブルは、ドアノブを回す手の動きを一瞬止めるが、ついに思い切ったように勢いよく扉を開ける。
[やあ! 久しぶりだねバアル=ゼブル! 君と会うのは……]
ぱたん。
[ふむ]
一大決心をしてアスタロトが居る部屋の扉を開けたはずのバアル=ゼブルは、部屋の中を見た途端になぜかその扉を再び閉め、廊下に立ったまま自らの考えに沈む。
[どうしたバアル=ゼブル]
そんな彼に、廊下の向こうから巨大な人影が近づいて声をかけた。
[モートか……そう言えばお前を謁見の間に置き去りにしていたな]
[そんなことよりどうした、アスタロトの部屋の前で立ちすくんだりして]
いつの間にか服がボロボロになったモートを見つめた後、バアル=ゼブルは少し躊躇うようにモートに答える。
[いや、アスタロトに少し相談したいことがあってな。だが久しぶりに会うもんだから、何から話していいもんか迷っちまってよ……]
[何だそんなことか。らしくないな、部屋を開けて再会を喜べばいい。後は向こうから相談に乗ってくれるさ。昔から彼女はそうだっただろう。自分の姉に会うのに何の遠慮がいるものか]
[ああ……判っちゃいるんだが、何となくな……]
その煮え切らない姿を見たモートは、バアル=ゼブルの肩を軽くたたいて自分に任せろ、と言った後、先ほどのバアル=ゼブルのようにドアを開ける。
かちゃぱたん。
[……お前、知ってて俺を行かせたな?]
[何のことだ?]
口の端をひくつかせて答えるバアル=ゼブルの襟首を両手でつかみ、モートは一気に間合いを詰める。
[とぼけるな! なんだ部屋の中にいるアレは! 俺の知っているアーシラト……アスタロトとはほぼ別人だぞ!]
[あー、そうだな、ありゃどう見ても……]
白を基調とし、金色で縁取った長袖のダブレットにズボンとマント、そこまではいいとしても、その至る所に金属片をつけ、キラキラと無駄に全身が輝くその服装、男性のように短く切りそろえた金髪はまるで……
[ロザリーが劇でやってたヅカとかいう王子姿にそっくりだわアレ。昔からいきなり突飛な行動をとる所はあったが、ホント何考えて生きてんだろうなアイツ]
二人はげっそりとした顔になり、先ほどのジョーカーの様子を思い出して互いに顔を見合わせる。
[なぁ、ひょっとして……]
バアル=ゼブルがモートに話しかけようとしたその時。
ギィィィ……
横にある扉が開かれ、それを見た二人の背中をある感情――恐怖――が貫き、彼らはまるで体を動かせなくなってしまう。
凍り付いた四肢を動かすことを諦め、ゆっくりと眼だけを扉に向けた二人は、そこに張り付いたような闇を見た。
蠢くのではなく、わだかまるのでも無く、ただそこに張り付く闇。
次に見たのは手。
妙に白い――いや青黒く這いずる何かをその白さの向こうに透けさせて見える手。
その上には眼が。
赤く光る、赤く滴る眼球。
最後に闇の中に徐々に開き、浮かび上がる白い光。
それは口であっただろうか。
[GIIIIYAAAAAAAAAA!?]
……パタン。
そして、誰も居なくなった。
[あらお姉さま! お久しぶりでございます! まぁ……少し見ない間に随分とハイカラな格好にお成り遊ばして……]
その後、廊下を歩いていたアスタロトを偶然見かけ、声をかけたのはアナトだった。
うっとりとした熱い視線を向けてくるアナトに対し、アスタロトの機嫌はすこぶる良いようで、彼女は髪をかき上げた後にアナトの手を取り、お互いの息を感じる距離まで近づいてから囁く。
[久しぶりだねアナト、君も相変わらず綺麗だよ……いや、最後に会った時からより一層美しくなった]
[まぁ、お姉さまったら……]
頬を染め、手を頬に当てて体をよじるアナトを愛しそうに見つめたアスタロトは、その足元にベリアルが居ることに気付き、そのまま座り込んで視線の高さを合わせる。
[アナト、この子はどうしたのかな?]
[ああ、そうでした。お姉さま、お兄様たち、もしくはペイモンを見ませんでしたか? この子ベリアルなのですが、私に世話をしてくれと言ったきり音沙汰が無いのです]
途方に暮れたように相談をしてくるアナトに晴れやかな笑顔を向けると、アスタロトはボクに任せてくれ、とアナトに告げ、ベリアルの手をとって部屋に戻っていった。
パタン。
この物語を書くにあたり、神の名前を良く確認せずに書いたもので、アーシラトとアスタルテをごっちゃにして考えてたんですけど、実際は違っていたようです。
当時調べてたら地中海近辺は起源が一緒の神様がかなりいまして、で、このアーシラトとアスタルテも名前が似てるから一緒なんだろうくらいに考えてたら、実際は違ったようで……
まぁストーリー的にちょっと深いところまでアーシラト神に関わらせちゃったんで、この世界ではアーシラト=アスタロトになってますトホホ。
で、本来ならバアル=ゼブルの母、または後に妻となった説がありますが、この作品ではいじりやすい姉と言う立場にしております。