第107話 可愛い土の妖精さん
「お金が無ければ稼げばいいじゃない、か。エルザ司祭もなかなかに無理を言ってくれる。経過を経ずに結果だけを得るなど、神ならぬ人間にできるはずが無いだろうに」
アリアに手渡されたほうきとチリトリを装備したアルバトールが、広間に産まれた数々の粗大ゴミと格闘していた頃、館の執務室ではシルヴェールが天井を相手に愚痴をこぼしていた。
いつもなら彼の横にはフィリップとベルナールがいるのだが、彼らはそれぞれの仕事の為に城の外へ出ており、珍しく部屋の中には彼一人しかいない。
二人がいるのであれば、次々と彼らから渡されてくる書類を右から左へ処理する必要があるのだが、居ない今はそれをする必要も無い。
仕方なく一人で机の上にある書類を最初からじっくりと目を通していると、お目付け役が居ないこともあって気が抜けた彼は、ついつい独り言を呟いてしまうのだった。
(いや、そもそもすべてが望んだ通りになるのだから、経過や結果と言う概念すら無いだろうな。世界のすべてが自らが望んだ通りになっていることに気づかず、自らを取り囲む状況を、自らが力を及ぼした結果であると気づかない)
子供の頃、シルヴェールは自分が食卓に着く時には、そこに食事があるのが当たり前だと思っていた。
しかしそれは誰かが作った食料が、誰かによって王都に持ち込まれ、王城のコックが調理し、使用人が食卓へ持ってきたものなのだ。
そんな当たり前のことすら気づかずに過ごした少年の頃を思いだし、シルヴェールは気恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。
(失敗と言う結果を知らない限り、主は自らが全知全能であると気付かず、失敗した時点で……おっといかんいかん。失敗せずとも、主は人という失敗を繰り返す生物を知っているではないか。そもそも知りえないことすら知っているからこそ全知全能、だな)
一人で居ると余計なことを考えてしまうのは、人の性と言う物であろうか。
主の否定に繋がる考えに気付いて我に返ったシルヴェールは、慌てて今日片付けるべき書類に目を落とし、内容の確認を再開する。
するとそこに執務室の扉がノックされ、それに反応したシルヴェールが入室を許可すると、一人の女性に見える人物が、いくつかの茶器を乗せたトレイ、そしてかぐわしい芳香と共に入ってきていた。
「陛下、お茶をお持ちしました」
「そうか。今見ている書類の区切りがついたら飲むから、テーブルに置いておいてくれラビカン」
ラビカンは忙しそうに返答するシルヴェールを見て了承の意を返すと、なるべく食器の音をたてないように、優雅な仕草でポットとカップを置いていく。
「無責任な天使や神、魔族の思考について考えるのは建設的ではありませんよ陛下。彼らは力を持つが故に、その思考は時に人にとって一足飛びなものとなりがちです」
「聞こえていたか。エルザ司祭はともかく、ダリウス司祭には秘密に頼むぞラビカン。それにしても……」
自らも神馬という超常的存在でありながら、天使や魔族と言った存在をまるで他人事のように話すラビカンを不思議に思ったシルヴェールが、お前は違うのか? と質問をすると、彼は次のように返事をした。
「助言は苦手です」
「ふむ」
シルヴェールは柔らかな笑顔で断りを入れるラビカンに生返事を返しつつ、ある陳情について目を通す。
次々とページをめくっていた指がある箇所で止まり、そして視線がしばしの間そこに書かれている内容に釘付けとなった後、彼はまるでそばにフィリップやベルナールがいるかのように感想を述べた。
「勝利を担保にした借金か。だが窮乏した今の状態では、利に聡い商人たちに足元を見られるだけだな。何か一つでもいいから確実な財源を確保してから交渉に臨めば、やりようもあるのだが」
王都を奪われる以前であれば、魔族が国を支配すれば人間は皆殺しになるだけ、と半ば脅迫じみた借金の要請を商人たちにすることもできたのだが、不安要素を見せながらも魔族が何とか人間とうまくやっている事実が知れ渡った今では、それも難しい。
対等とまでは言わずとも、商人たちに一方的に条件を押し付けられるような交渉にならないように、シルヴェールは商談のテーブルに置く商品に付加価値をつけるための算段をつけ始める。
「借金を返済するための確実な財源……人は食わねば生きていけぬ……となればテイレシア最大の穀倉地帯を抱える、ベイルギュンティ領はエドゥアール伯に協力を仰がねばならぬか。さて、こちらは何を条件に出すべきか」
ああでもない、こうでもない、と独り言をいいながら、羽根ペンをくるくると回して考えるシルヴェールだったが、しばらく経った後にそれを和らかな笑顔で見つめていたラビカンがやんわりと口を挟む。
「気分転換をした方がよろしいようですね。私で良ければ話し相手を務めさせていただきます陛下」
「……そうしよう」
ラビカンの提案を聞いたシルヴェールはお手上げと言った仕草をすると、椅子から立ち上がってテーブルの傍に置いてあるカウチに体を預ける。
と、程なくラビカンの細い指が手早く準備を整え、何とかまだ湯気が立つ程度には温かさを残すポットから、ティーカップに向けて黒い液体が注ぎ込まれていき、シルヴェールは受け取ったカップに口をつけた後に深く息を吐いた。
「無い袖は振れぬ。つまり我々が今持っている物で、何かエドゥアールが望む物を供与する必要がある……」
そう言うと、シルヴェールはコーヒーが注がれたカップに己の視線も注ぐ。
その底に何かの答えが沈んでいるかのように、白磁のカップに注がれた漆黒の液体に生じた小波を見つめながら、自らの考えをカップの底に潜らせていく。
そんな彼を横から見つめていたラビカンが、ある一つの提案を口にした。
「穀物を有効活用されては如何でしょう」
「そんなことは判っている。だから今こちらから出す条件を考えているのだ」
思わず仏頂面で返答したシルヴェールだったが、ラビカンの、神馬と呼ばれる存在の提案内容をそのまま額面通り受け取ってしまったことに気づいた彼は、謝罪の言葉と共にその真意を問いかけた。
「種もみなどであればともかく、水分の多い果実や加工した食品などはすぐに劣化し、腐敗します。ですから果実の栽培、加工した食品などの生産地域は、今のところテイレシアやフォルセールなどの消費量が安定して見込める大都市近郊に限られています」
ラビカンは自らの持つティーカップへ向けていた温和な視線を、真剣なものと切り替えてシルヴェールへと向ける。
「ですがそれが遠くまで……例えばアギルスやアルストリア、レオディール領まで。または小さい町や村まで短時間で運ぶことができるとしたら?」
ラビカンが珍しく見せた真っ直ぐな眼差しに、シルヴェールは残念そうに首を振る。
「それは私も考えたことがある。いや、私以外にも思いついた者は数限りなく居ることだろう。だがそれを不可能にする理由がある。それは消費と供給のバランスが一定しないことによる在庫管理の難しさだ。短時間で運んでも、そこで余って腐らせてしまえば運ばないのと同じ……いや、それまでの手間暇を考えると運ばない方がよほど有益だ」
ラビカンはにっこりと笑い、その解決方法をもシルヴェールに提案した。
「私の眷属がお手伝いいたします。食物の輸送はもちろん、在庫過多、過小を防ぐ為の情報もお運び致しましょう」
ラビカンからの願っても無い提案にシルヴェールは顔を輝かせるが、すぐに眉を寄せて考え込み始め、問題点を幾つか挙げてそれへの解答を求める。
「在庫情報と言うが、法術による念話は聖霊の偏在によって使える時と使えぬ時があるぞ。それに運ぶと言っても、お前たちだけでは量を運べまい」
「情報に関しては我らが直接運びます故に問題ありません。輸送量に関しては流石に馬車を使わせていただきますが、我らが眷属であればそこらにいる馬では及びもつかぬ速さで運ぶことが可能。街道の不整備による馬車の故障、所領の関所通過に必要な書類審査や荷物検査に関してはどうにもなりませんが」
ラビカンはそこで言葉を区切り、カウチの上で身を正した後に、シルヴェールにあらたまって口を開く。
「よって陛下にお願いがございます。テイレシア全土に於ける街道の整備、及び関所の通過手続きの簡素化、それに加えて通行や滞在にかけられる諸税金の撤廃。それが叶わない場合には大幅な減額を」
だが、ラビカンからの要請に対してシルヴェールは即座に首を振った。
「今の私には無理だ。いずれはやらなければならないことと分かってはいるがな」
「無論今すぐにとは、陛下一代で成し遂げてくれとは申しません」
ラビカンはまっすぐにシルヴェールを見つめ、説明を続ける。
「移動に関するコスト軽減に伴う流通の活発化、テイレシア全土の街道を整備していくことに伴う商品の多様化。流通速度が速まれば、人の少ない僻地で作った食料を腐らせずに大都市に持って行って売れるようになれば、僻地の開拓も進むでしょう」
「確かにな」
「開拓できるようになる土地が増えれば、それに伴って食料の総生産量も増えますから自然に人の数も増え、国が養える兵士も増加し、国力は増大します。それらの過程を見ていれば、諸侯も自ずと協力してくれるようになるでしょう」
ラビカンの提案に抗いがたい魅力を感じたシルヴェールは、先ほどから胸中で渦巻く一つの疑問について答えを求めた。
「だが、お前たちの協力に対して私は何を以って報いれば良いのだ?」
その問いに関する解答は、あっさりと返って来る。
「我が父、グリフォンをテイレシア王家の象徴に」
「む……」
とりもなおさず、それはラビカンの提案がかなり以前より彼の中にあったことを示すものだった。
「聖テイレシアが十字架をその象徴としていることは知っております。そこに我が父グリフォンを加えていただくだけで構いません。そうすれば、我らが眷属は絶対的な忠誠を陛下に誓うでしょう」
無理は承知とばかりに、すぐに譲歩を見せるラビカンだったが、それでもシルヴェールはいい返答を返すことができなかった。
「前向きに検討はする。だが期待はするな」
「承知いたしました」
ラビカンがティーセットと共に部屋を退出すると、シルヴェールは黙ってカウチから立ち上がり、腰のジョワユーズの柄を左手で握りしめ、顎に右手をあてる。
(おそらくエルザ司祭は許可するだろう。となると、問題は教会の権威が貶められたと騒ぎ立てる可能性を持つダリウス司祭、そして中央教会の枯れ木どもか。面白くなってきたな)
聖テイレシア王国と、アルメトラ大陸のかなりの範囲に影響を持つ中央教会との繋がりは深い。
四方を他国に囲まれたテイレシアが、天魔大戦を何度も経験しながら何とか領土を維持できているのも、中央教会の執り成しが諸国にあったからである。(強大な魔族が跋扈――つまりうろつき回るこの国に、無理をして攻め落とす価値を感じなかったと言うのも一因ではあったが)
その教会の加護を受けている、庇護下にあると表すものであり、教会の威を示す証でもある十字架。
国の紋章の唯一の意匠である十字架が、唯一のものではなくなったとしたら。
(一人で悩んでもしょうがあるまい。とりあえずはフィリップ、ベルナールが戻ってからの話だ)
シルヴェールは深く息を吸って吐き、ジョワユーズを腰から抜いて一閃させる。
かつて城の抜け道で現わした時とはまるで違うその剣身は、絶えず色を変えながら揺らめく光彩を周囲の壁に与えた。
「通行証を確認しました。行ってらっしゃいませ天使アルバトール様」
ほうきとチリトリを手に広間の家具だったものを片付けた後、アルバトールとガビーは巨大な漆黒の馬であるバヤールに跨り、城の最外壁を抜けてフォルセール郊外にある礼拝堂にのんびりと向かっていた。
「やれやれ、後片付けついでに掃除までさせるなんて、アリアにも困ったもんだ」
「そもそもアルバが保身に走って、ジュリちゃんに余計な言い訳をしようとしたからあんなことになったんじゃないかしらね。ま、いくら一緒に居たいからって、広間から退出した私をわざわざ呼び戻して一緒に掃除するなんて、これはまさしく愛ね……あ、あれ? 何で頭を掴むのごおおおおっ!?」
≪我が主、この幼女は一体?≫
前に座っていたガビーの頭をわしづかみにし、そのまま宙づりにするアルバトール。
珍しく荒れている主人を見たバヤールは神馬の姿に戻っていることもあり、念話で不思議そうにアルバトールに問いかけた。
≪エルザ司祭の知り合いだってさ≫
≪ああ、ガブリエルでしたか≫
≪ガブリエルを知ってるの?≫
まぁエルザ司祭とも顔見知りだったし、ガブリエルを知っていても不思議はないか、と思うアルバトール。
だがバヤールの話はまだ続きがあった。
≪いえ。直接会ったことはありませんが、先ほどエルザに少しだけこの少女の面倒を見ていてくれと頼まれまして。その時に自分は天軍の副官なのよ、とか四大天使の一人なのよ、とか私に自慢しておりましたから、そうではないかと思っていました≫
≪ああ、そうだったのか。単なる馬と、人の言葉を解する神馬バヤールの見分けもつかないとは、困ったものですね副官殿は≫
終わったことは仕方がない。
相手もバヤールだし、馬相手にしか自分の自慢ができないような不憫な境遇の少女と思えば腹も立たない。
今度から気を付けてもらえば……と彼が思った瞬間。
「え? 神馬って知ってて言ってたんだけど」
ガブリエル嬢は平然と言ってのけたのだった。
「さて、今日は大丈夫かな?」
礼拝堂に着いたアルバトールは、煙を上げている何かを手にぶら下げたバヤール、そして焦げた何かであるところのガビーを後ろに連れて礼拝堂のドアをノックするが、中から返事は無かった。
(中の気配は二人。おそらくあのドワーフの夫婦だろうが……居留守を使う必要があるってことかな?)
修行に来た時、最初の内は二人が幻術で人間に姿を変えていたことを思い出したアルバトールは、ゆっくりとノックを繰り返した後に外から呼びかける。
「私です。この前ここにピサールの毒槍を取りに来たアルバトールです。扉を開けて頂けませんか?」
その瞬間、礼拝堂の中から激しい物音がし、いきなり彼の目の前にある扉が勢いよく開けられる。
「怖かっただよおおおおお!!!」
そしてドワーフの頭突きを食らったアルバトールは、今日も気絶したのだった。
「おかしいな、智天使になったら大体の物理攻撃は効かなくなるってエルザ司祭が言ってたのに」
「ああ、オラたつは妖精だから精神体も問題なく殴れるっぺよ」
「……なるほど。で、怖かったと言うのは?」
流石に今回の彼の復活は早く、気絶は一分ほどで済んでいた。
よってアルバトールは、ドワーフたちの住処に生じた問題の解決に取り掛かるべく、夫妻に詳しい情報の提供を求める。
「ふむ……魔法陣を破壊した直後から、地下のドワーフたちの様子がおかしくなった、ですか」
大地の妖精であるドワーフの夫婦が同時にうんうんと頷く姿は、まるで水飲み鳥のおもちゃを思わせるもので、思わずアルバトールはクスリと笑ってしまう。
「おおおおお、おかしくないだよっ! 本当に怖かっただよ! いやそれを司祭様に報告した時の方がもっと怖かっただけども!」
鬼気迫る表情で続けて説明するドワーフ夫を見てアルバトールは納得し、とりあえず下に降りることを決める。
「安心することね! この天軍んんんんんんっ……!?」
「懲りないねガビーも。じゃあ行こうかバヤール」
「いってらっしゃいませ天使様~バヤール様~」
手を振って見送るドワーフ夫婦に手を軽く振り返した後、アルバトールたちは次々と地下へ続く通路へと降りて行く。
そして彼らが姿を消した後。
「そう言えばお前さん、天使様たつは地図を持って行ったっぺか?」
「うんにゃ」
「お前さん持って行ってあげな」
「怖いからいやだっぺ」
「オラも怖いからいやだべ」
「んじゃしょうがねえな、吉報を待つっぺよ」
ドワーフの夫婦は二人で仲良くトコトコと裏口から出ていき、ばっちりと息の合った薪割りを始めたのだった。
「凄いなこの土壁。まったく崩れてくる気配が無い」
そう呟きながらアルバトールは地下への階段を下りていく。
「昔からドワーフは土の中に住んでいましたから、土の加工はお手の物なのでしょう」
そう説明するバヤールに頷き、アルバトールは足元に気をつけながら先頭を進んだ。
するとすぐに少し開けた広間に出て、そこには次へ続く幾つかの通路と思われる穴が開いている。
「さて、どこに……あれ、どこに行けばいいんだろう。まさか道案内が居ないとは思わなかった」
どこに行けばいいのか分からず、周囲を見回してもドワーフは一人も見当たらず、アルバトールは途方に暮れる。
「仕方ない、とりあえず一番左から行ってみよう」
そう宣言してアルバトールが通路に向かおうとした時だった。
彼の背後に幾つかの気配が生まれ、呻き声が発せられたのは。
「どご……いぐつもりだオメら……」
「あ、いるじゃないかドワーフ。ってうわっなんだこれ!?」
アルバトールたちが向かおうとした通路の反対側から出てきた、不自然な形の物体。
それはドワーフが何体も重なって巨大に膨れ上がった、いびつな生物の姿だった。