第106話 見覚えのある朝の風景
朝、昨日の余韻がまだ腕に残っているアルバトールは、ベッドの上で自分の掌を見つめていた。
(……そう言えば成り行きとは言え、昨日ガビーを押し倒したんだった)
智天使となり、体の主な組成が物質界から精神界へと転じたことによって自分の内に宿った強大な力。
その存在は、目が覚めた直後から感じていた。
物質界の軛を断ち切ったことにより、更に激しく自らの内に渦巻くようになった力。
それを今まで使用する機会が無かったこと、そして現実の力として現わすことを躊躇う気持ちが自分の中にあった為に、昨晩まで力の放出を試しておらず。
その為にミカンの実を踏んづけたくらいで力に振り回され、ガビーの方へ倒れこんでしまったのだ。
(よし、これで行こう)
奇しくも彼は、エンツォの右腕を神気の暴走で射抜いた次の日の朝と殆ど同じ思考を辿った末に、昨日の件についての言い訳――説明をするためのシナリオを作り上げることに成功したのだった。
そして少々の時間が過ぎた後、アルバトールの姿は広間の中にあった。
そこには昨日、試練のために朝まで城に居残っていたエルザと、この城を仮の王城として住むようになっているシルヴェールを迎えており、加えてガビーも同席している。
よって今朝の食事は賑やかな……ものには残念ながらなっていなかった。
なぜなら広間を妙に緊迫した空気が覆い、テーブルに列席する人々は意識しないままにある一人の人物に視線を向け、その顔に気づいては慌てて顔を逸らしていく。
もう一人の当事者であるガビーと言えば、エルザの感情を昔から読み続ける必要があったせいか、その場に漂う気まずい雰囲気を敏感に感じ取っており、列席者の顔をちらりと見ては視線を落とし、その都度パンをちぎってシチューにつけ、口に運んでいた。
しかしその中にあって皆の耳目を集めている張本人、つまりアルバトールだけは、ぎこちない笑顔と会話を周囲に向けながらパンやサラダを口にし、何とか場を盛り上げようと苦心している。
しかしそれは暗がりに人を誘い込む犯罪者のような、そこはかとなく闇を感じさせるものであり、よって他の者たちは互いに顔を見合わせるだけで何も語らず。
そんな中、一人の女性が耐えきれないとばかりについに口を開いていた。
「ああ……あ、あらあら、今朝は随分と食欲があるようですね。天使はあまり俗世の欲に身を任せてはいけないのですが」
流石に昨晩の一件について、彼女なりに責任を感じているのだろう。
必死にもがくアルバトールを援護しようとしてエルザが発した軽口にも、皆は散漫な同意の声を多少返してくるだけで、いつものように場は明るくならなかった。
あせったアルバトールは口の中の渇きを覚え、パンを呑み込むためにアリアにワイン水の追加を頼む。
しかしカチャカチャと細かく振動するポットを持ってきた彼女は、いつもより露骨に離れた位置からアルバトールのグラスにワイン水を注ぎ、無言でありながら雄弁に拒絶の態度を顕示するという器用な真似を見せ。
「あ……ありがとう、アリア……あのもしもし?」
トドメとばかりに水を注ぐ表情は、以前の冷たい物に戻っていた。
ただしその中に宿る感情は、アルバトールのメンタルに対して以前とは比較にならないほどの破壊力を持つもの、いわゆる軽蔑に変化を遂げていたが。
「……」
アリアは無言のまま頭を下げ、そのまま素早く後ずさりをして彼から遠ざかる。
無論それは直接口を利くことが恐れ多いから、と言った部類の物では無く、ただただ目前の人物から一刻も早く遠ざかりたい気持ちからであっただろう。
流石に少々ショックを受けるも、アルバトールはめげずにアリアへ笑顔を向けるが、その直後に彼は、優しさとは時にして残酷であると思い知ることになる。
彼の笑顔を見たアリアは主人に対する礼を失しまいとしてか、歪んだ笑みを必死にその顔に浮かべたのだが、彼女の努力の結果はアルバトールの心を更にずたずたに引き裂くという、彼が天使になってから最大の戦果をあげることになってしまったのだ。
「ああ……あ、ああええと、天使アルバトール。昨日頼んだお使いですが、すぐに出立していただいてもよろしいですか?」
そのエルザの提案に抗いがたい魅力を感じるアルバトールだったが、ここで逃げては今朝がた必死になって考えたせっかくのシナリオが水の泡。
なんとかして昨晩の釈明が出来る状況に持っていかなければと考える彼に、今日もフィリップが声をかけてくる。
そしてあの日のように、今日の執務の予定がベルトラムの口から告げられ、それを聞いたアルバトールはてっきりそのまま庭に出るものと思い、椅子を少し引いて腰を浮かせようとする。
しかし今日はこのまま話をするようであった。
「昨晩の一件は聞いている。ガビー殿、愚息が迷惑をかけたようで申し訳ない」
「え、あー……はい。いえ、何ていうか、迷惑だなんて思ってないですし、あのあの、えーと……いずれこうなる運命だったのかなって……あたし彼を一目見た時から感じてましたお父様」
(……電撃ってどうやって加えるんだっけ)
自らの立場も忘れ、虚ろな目で自分の指を見つめるアルバトール。
ミシィ……
そして脇から聞こえてくる重い音に気づき、恐る恐る振り向けば、金属製のトレイがある一人のメイドによって、紙のようにくしゃくしゃにされている。
(わー……軽蔑したり嫉妬したり、大変だなアリアも……いやいやそうじゃなくて、何であんな人間離れしたことが出来るようになってるんだ!?)
即座にアルバトールはエルザの顔を見るが、彼が見た限りでは口に手を当てながら軽く面白がっているように見えながらも、その実は軽く驚いているようでもあり、どうやら今回の犯人では無さそうだった。
(クッ、他にも敵がいるというのか……エルザ司祭以外に一体誰がこんな真似を!)
見えない犯人像に歯噛みをしながら周囲に目を配り、怪しい動きをしている者がいないか探し始める。
そんな彼の背後から一人の執事がアリアへ歩み寄っていく姿を見て、アルバトールは呆気にとられた顔をした。
「力は制御できてこそ力であり、制御できない力は忌避すべき暴力である。更なる鍛錬が必要か?」
その静かな声にアリアはたちまち表情を変えて声をかけてきた執事、彼女にとって兄同然であるベルトラムに謝罪をし、それを受け入れたベルトラムは体の向きをフィリップへと変え、深々とその銀色の頭を下げた。
「申し訳ございませぬフィリップ様。アリアがこのような不始末をするに至ったのは、指導にあたった私めの責任、どうか懲罰は私へお与えくださいませ」
「人は感情の生き物であり、失敗をする生き物である。気にしなくてもよいぞベルトラム、アリア」
使用人と雇い主の美しいやり取り。
それを聞いたアルバトールは、感動ではなく諦めの境地で天を仰いだ。
(ベルトラムよ、君もか)
立て続けに身の回りで起こっていく超常現象に、彼は頭を抱える。
自分がその中心である事を棚に上げ。
そして彼が頭を抱えている間にも、周囲の状況は刻一刻と変化を遂げていた。
「ふむ」
フィリップはガビーに対して生返事を返した後、息子であるアルバトールへ優しい目を向けたのだ。
「迷っているのだな、我が息子よ」
明らかに勘違いしている父の言葉に、アルバトールは感動ではなく情けなさで泣きそうになる。
(どうやら下手に反論できない雰囲気になりつつある、か……だがここで否定しないともっと不味いことになりそうだなハハハ。……どうするどうするどうする!?)
その沈黙を肯定と受け取ったのか、フィリップは次の言葉で一気に畳みかけてきた。
「迷っているのだな? 我が息子よ」
「……!」
大事なことなので、念を押すように二度言ってきたフィリップの言葉から感じられる重圧に、完全にアルバトールは押しつぶされる。
(どうしよォォォオオ!? いや確かに迷ってるけど多分って言うか絶対父上の考えてる内容と全然違う方向で迷ってますからァァア!?)
フィリップの眼差しはアルバトールの方を向いていながら、その焦点はどこか遠くに合わせられていた。
「つい先ほどまで成熟した女性がいいと思いながら、うら若い女性がやはりいい、と好みを変えることは、若いうちは日常茶飯事であると思う。お前のその気持ち、私も判らぬではない」
(いえ違います父上)
アルバトールは喉の所まで上がってきている反論の内容をぐっとこらえ、なぜ自分一人でこんな苦しみを抱え込まなければならないのかと考える。
「最近のお前の行動を見て、時々思うことがあった。お前は今まで他人の気持ちだけを考え、自分を押し殺して生きているのではないかと。お前が自分の好みを声高にあげないのをいいことに、我々は自分達の価値観をお前に押し付けてきたのではないかと。つまりその、お前の女性の好みが実は……ガビー殿のような……」
アルバトールは混乱する。
父の言いたいことは判っていた。
いや、何というか母が父と結婚した年齢を考えれば、その考えに至っても当然と言うべきであろうが、それを認めたくない感情が彼の中にはあった。
現実逃避という感情が。
彼は尊敬する自分の父が、世間の一般常識の範疇に入っていない部分をちょっと持っている可能性があるという推論から、その重圧から、彼は逃げたかったのだ。
もっともフィリップの場合は、ジュリエンヌに精神的に救われたから婚姻したのであり、心のつながりこそが重要であったのだから、彼の考えていることは失礼に過ぎるというものであった。
「……今の私にできることは、お前とお前の選んだ結果を信じ、認めることだけだ。心が決まれば言ってくれ」
先ほどの話を聞いてから、ずっと考えごとをしているアルバトールを見た後にそう告げると、フィリップは背後の妻に顔を向ける。
「お前もガビー殿と気が合っているのではないか?」
「その問題と、この問題とは別だと思うよフィル君。嫁入り前の娘さんを手籠めにするのは、流石に良くないと思う」
珍しく難しい顔をしているジュリエンヌを見てフィリップは苦笑いを浮かべ、シルヴェールにそろそろ執務に取り掛かることを提案し、そしてエルザに耳打ちをする。
「では、後のことはよしなに」
「ガビーもラファエラと同じく聖職者の端くれであり、私にとっても大切な存在。そうそう還俗させるわけにはまいりませんが」
「後は息子に任せるだけだよ。それでは」
広間を出ていくシルヴェールに続き、フィリップもその場を後にする。
残されたアルバトールは、追い詰められた状況を打開すべく深刻な顔をしたまま自らの考えに没頭しようとした、が。
「アルくううううううううううううん!!」
「う、うわっ!? 母上!?」
「大丈夫!? そろそろ誰かに刺される頃なんじゃないかってあたし心配!」
「人聞きの悪いことを言わないでください!」
いきなり飛びついてきたジュリエンヌの物騒な台詞に、アルバトールは辟易しながら答え、だがいつもの姿に戻った母を見て安心する。
「あれ? 結構元気そうだね。さっきまであんなにゲッソリしてたから、あたし心配になってアリアちゃんにアル君を刺さないように頼み込んでたんだよ!」
「いや昨日と言うか昨晩説明した通りきっぱりと誤解ですからね! 先ほどのガビーの言ったこともすべて忘れて下さい!」
だがアルバトールが必死な表情でジュリエンヌに行った反論に呼応するかのように、ガビーがうっとりとした表情で、そして神に祈りを捧げるような姿で独白を始める。
「そうね、昨日の成果は二人だけの秘密……そう司祭様からも言われたもの」
確かに試練の内容は周囲に秘密にするべきものである。
しかしそれを言うタイミングじゃないだろとアルバトールは内心で毒づくと、懇願するような表情を作りあげてエルザへ手を上げる。
「エルザ司祭。ガビーを目の届かない所まで連れて行っていただけませんか。手の届かない場所でもいいんですが」
「やれやれ、この借りは後できっちり返して頂きますわよ。と言うかどうせ私から課せられた試練の一部だった、という内容でジュリエンヌ様を説得されるのでしょうから、先にその旨を私から断っておいた方がよろしいですわね」
ガビーの首根っこを摘み上げたエルザは、昨晩の出来事はアルバトールに課した試練であったとジュリエンヌへ説明し、去っていった。
「と言う訳なんです母上!」
「どういうことなの?」
ここでアルバトールは、今朝方にベッドの上で考えた言い訳――ではなく説明をジュリエンヌにする。
省略してしまったものの、実際には長々とした説明がアルバトールより行われ。
それを聞き終わったジュリエンヌは首を傾げ、しばらく考える様子を見せた後にぱちぱちとまばたきをしながら呟いた。
「えーと良く判らないんだけど、要するにアル君溜ま」
「母上ストップウウゥゥゥウウウウ! それ以上はダメエエエエエエエエ!!」
――カラン――
そしてジュリエンヌの呟きと共に横から乾いた音、トレイを落としたと思われる音を聞いた彼は、そちらを見ないままにその音を立てた者がアリアであると確信し、ゆっくりと彼女の方を向いた。
「オーケーオーケー、アリア少しもう少~し考えて落ち着こう、そうゆっくりと手を下げて小剣を床に……なんで勢いよく振りかぶった手を下げようとしてんの!?」
しばし時は経ち。
ガビーと共にバヤールに跨ったアルバトールは、気の抜けた表情を城下町の人々に見せていた。
(空って広いよね。悪いことしても何でも許してくれそう)
アルバトールがエルザから言い付けられた用事を済ませる為に、ガビーとバヤールの二人と共に郊外の礼拝堂に向かったのは日も中天に近づいた頃。
乱雑に散らかったアリアの心と広間の始末が終わってからであった。