第100-1話 王女誘拐
アデライード誘拐。
その信じられない内容の報告を、アルバトールは領境付近でバヤールからの遠話によって受け取っていた。
現在この大陸に於いて最も堅牢であり、厳重と言っていいフォルセール城。
そこに住まう人々の中でも、最重要人物に含まれるアデライードを誘拐されるとは一体フォルセールで何が起こったのか。
≪……わかった。可能な限り早く戻ると皆には伝えてくれ≫
はやる心を押さえつけ、アルバトールは目前の脅威へと注意を向ける。
彼らが王都に潜入する際にエルザが行った破壊活動により、厳重な警戒網が敷かれるようになった領境。
そこに配置された魔族と交戦状態にあったアルバトールは、今しがたのバヤールの報告を焦りではなく、敵を突破する原動力へと転じさせて多大な戦果を上げていく。
いくら上級、下級魔物を討伐隊やレナたちに任せたとは言え。
固有名詞を持たぬ魔神だったとは言え。
上位魔神を五体、下位魔神七体を一人で倒した戦果に彼以外の全員が驚きを見せ、同時に戸惑いを見せていた。
「アルバトール、先ほどから様子がおかしいが、フォルセールに何かあったのか?」
多数の魔神を苦もなくあしらったアルバトールの様子に何か不審な物を感じたのか、眉根を寄せて質問してくるベルナールの顔を見たアルバトールは、少し迷った後にアデライード誘拐の件を耳打ちする。
「なるほど、な……そう言う事態になっていたとは」
「他の者、特に魔族に聞かれてはならないかと思い、報告が遅れました」
謝罪するアルバトールに、ベルナールは問題ないと告げた後で新たな指示を出す。
「よし。領境は既に突破したことだし、飛行術を使って発見されても問題はあるまい。レナ! ナターシャ! ロザリー! 飛行術で急ぎフォルセールに向かう! 準備をしろ!」
だがベルナールが彼女たちに指示を飛ばした直後には、既にその場にいる全員の体が光り輝き始めていた。
「これは……?」
三人のうち、誰がその声を上げたのかは遂に判らなかった。
その声を発した者が判明する前に、全員を赤い光が包んでフォルセールに凄まじい速さで飛び立った為に。
またそんな些事を詮索する必要も無かった為に。
ただ彼女たちは理解したのみだった。
この飛行術を誰が発動させたのかを。
「座天使アルバトール帰還した! シルヴェール陛下にお目通り願いたい!」
「アルバトールか。すまないが陛下は今しがたここを出て城に戻ったところだ」
騎士団の詰所を守る兵士に名乗りを上げるアルバトール。
だが彼に返答したのは兵士ではなく、門の柱の影にいたアランであった。
フォルセールに戻ったアルバトールはそのまま領主の館に直行したのだが、迎えに出たベルトラムにシルヴェールが騎士団の詰所に視察に出たことを聞き、すぐさま飛んできたのだが、どうやらその甲斐もなくすれ違いとなったようだった。
「おお、お久しぶりですアラン殿……と言うほど私もフォルセールを離れていたわけでもありませんが」
アルバトールはすぐにでも城に戻りたいと逸る心を押し隠し、それどころかアランに微笑すら浮かべ、現在の情報を集めるべく質問を始めていた。
彼らが王都へ偵察に出かけていた間、留守を守る大役を引き受けてくれたアランを軽んじるような態度を見せたくなかったこともある。
しかしその真意は、ある程度ここで情報を引き出しておいた方が、シルヴェールやフィリップの負担を少しでも軽くすることが出来ると思ったからだった。
王女誘拐と言う大事件が起きても、フォルセールの執務をこなし続けなければならない二人の負担を。
「ゆっくりと話をしたい所ですが、今はそれより先に聞きたいことがあります。アデライード姫が誘拐されたと聞いたのですが、アラン殿は何を知っておられますか?」
「大体のことは知っている……が、今回の件に関しては私から聞くより、陛下御自身に聞いた方がいいだろう。私も久しぶりにお前と語らいあいたい所ではあるが、今は一刻も早く陛下の下へ」
「承知しました」
聞くやいなや一礼をアランに返し、きびすを返して城に飛び立つアルバトールの背中を一つの叫びが追いかける。
「誘拐の主犯はヘプルクロシア王国の旧神ルー! 長腕のルーだ!」
アルバトールはその名を胸に刻むと、情報をくれたアランに手を振り、館に向かって一直線に飛んで行った。
「お帰りなさいませアルバ様」
「ただいま。相変わらず君は冷静だね、ベルトラム」
城に戻ったアルバトールは笑顔を見せながら、殊更にゆったりとした仕草で執事であるベルトラムに外套を渡す。
「陛下は先ほど執務室に戻った所でございます」
「ありがとう。アリアの姿が見えないが、どうしている?」
「此度の件に責を感じ、暇さえあれば武術を修めようとしております」
「判った。話を聞いたら会いに行く」
「よしなに」
廊下を歩きながら、二人は慣れた調子で次々と情報を交換していく。
「越境するに際し、エルザ司祭に敵の誘導を頼んでいたがその隙にやられたか。我らが司祭様は今回の件について何と?」
「特に何も。アルバ様が戻られたらすぐに連絡を寄越すように、とだけ仰せつかっております」
「……それは恐ろしいな」
「御意」
何が起きても無駄口と皮肉だけは忘れない。
そのエルザが単純な用件のみの言伝を頼むとは、それもなかなかの事件と言えた。
「行ってくる」
「では、私は厨房へ」
「これほどの大事がなければ、凱旋の宴を討伐隊と開くはずだったんだけどね。じゃあ後でまた」
執務室の扉を開けるアルバトールに対して頭を深く垂れた後、ベルトラムは髪の一部に変化させているピサールの毒槍を取り出し、指で小さく弾く。
そしてしばらく経った後、彼は顔つきを若干厳しくして厨房へ足を向けた。
「王都偵察、苦労をかけたなアルバトール。その顔つきではアデライードが誘拐されたことは知っているようだな」
「もったいないお言葉でございます陛下」
硬い顔を崩さぬままに労いの言葉をかけてくるシルヴェールに、アルバトールは今まで聞いた情報を総括して簡潔に伝える。
しかしそれを聞く間に生じた、シルヴェールの表情と部屋の雰囲気の二つが微妙な変化を遂げたことに気付いた彼は、うっすらとした不安が胸の内に広がるのを感じた。
だがシルヴェールが話し始めた為にそれを考察する時間は無く、彼はその不安を振り払うように軽く息を吐き、シルヴェールを注視した。
「我々も油断していた。まさか天魔大戦が始まった今、魔族以外が我々に不利益をもたらす行動をとるとは思っていなかった故にな」
シルヴェールはほぞを噛み、腰に下げているジョワユーズの柄を左手で握りしめながら話を続ける。
「お前が王都に偵察に向かってから、アデライードは時々アリアと共に城の郊外に出て、お前の戻りを待つようになっていた。だがある日いきなり現れたヘプルクロシアの旧神ルーによって、飛行術で連れ去られてしまったのだ」
なぜ護衛を着けなかったのか。
アルバトールはシルヴェールに問いかけようとし、だが思いとどまる。
「何の前触れもなく現れたルー。ラファエラ侍祭だけはその気配に気づいていたが、彼女も結界の維持に手いっぱいで動けなく、それでもラビカンを通して私に大事を伝えてくれたので、急いで現場に向かったのだが、着いた時にはすでに手遅れだった……」
その時のことを思い出しているのだろう。
シルヴェールの顔は、今まで誰も見たことが無いであろうほどに歪んでいた。
「アデライードも出かけるなら出かけるで、私に言ってくれれば警備の者を……いや、詮無いことを言った。旧神に我々人間が幾ら掛かっても太刀打ちできるはずもない」
自分が先ほど飲み込んだ質問の答えを得たアルバトールは、新たな情報の下に新たな解答を得るべくシルヴェールに質問をする。
「それです。何故ヘプルクロシア王国の旧神ルーがアデライード姫を? 天魔大戦が始まった場合、テイレシアの周辺諸国はその終結に向けて協力するように、との条約を教会の協力のもとに結んでおります。加えてヘプルクロシア王国は平時に於いてもテイレシアの同盟国であり、今回にしても海上の封鎖を要請したばかりのはず」
そのアルバトールの質問に対し、明確な答えをシルヴェールは持っていなかった。
「うむ……交渉に行ってもらったダリウス司祭によれば、確かにアギルス領とフェストリア王国の海上封鎖は引き受けてもらえた。しかしその直後にこの騒ぎだ。奴らが何を考えているのかさっぱり判らん」
「ダリウス司祭はヘプルクロシア王国との交渉内容について、何と仰っているのですか?」
「封鎖自体はあっさりと承諾してもらえた。当然のように利権の要請……つまり物品にかける税や港湾使用料の免除枠を設けることなどは要請してきたが、それは想定内の期限と金額だった故に応じたらしい。が、その他に一つ奴らは条件を出した」
シルヴェールは背もたれに体を預け、その重みに抗議するような軋み音を立てる椅子を無視するかのように手を組み、目を閉じて天井を見上げた。
「その一つとはヘプルクロシアの国王とアデライードとの婚姻だ。それが叶うなら、こちらの要請に対して税や港湾使用料の免除を求めることはしない、と」
あまりに重いシルヴェールの口調。
それに押しつぶされたかのように、しばしの間部屋を沈黙が包んだ。