第99話 戦い終えて日が暮れて
「帰ってきたか」
ベルナールは丘の方から近づいてくる光の玉に気付き、その短い言葉に幾多の思いを込めて呟く。
(疲れているようだな……無理もない。戦いは肉体的な疲労だけではなく、その肉体を支える精神力が何よりもモノを言うものだからな)
飛行術の光に包まれていても、疲労の極致と判る表情を浮かべながら合流を果たしたアルバトールに、ベルナールは多くを聞こうとせずに黙ってその肩を軽く叩いた。
「団長、バアル=ゼブル……たちはどうしたのです? 姿が見えないようですが」
しかしアルバトールはベルナールに一礼を返すと、その時間すらもったいないとばかりに右の拳を握りしめながら周囲を見渡す。
が、どこにもあの青い髪の旧神の姿は見当たらず、アルバトールは先ほどまでの疲労を感じさせない勢いで再びベルナールへと近づき、一人の旧神の行方を尋ねた。
「我々の置き土産が思ったより大物に拾われていたようでな。彼らも力を消費していたし、痛み分けと言った感じで誰かさんの救援をする為に戻って行ったよ」
「は? はぁ……そうですか……置き土産?」
意味深な言葉に、毒気を抜かれるアルバトール。
それを見たベルナールは、片方の目をつぶっていたずらっぽく笑うと、フォルセールへの帰還を全員に命じ、命令を聞いた討伐隊が手早くその準備に取り掛かっていく。
だが先ほど見渡した際に、大切な何かを忘れているような気がしたアルバトールは、騒がしくなった周囲を再び慌てて見回すと、ベルナールの傍に駆け寄った。
「……団長、何か忘れているような気が」
「気のせいだろう。確かに王都を脱出する際に、馬車を囮として使ったから紛失した物もあるだろうが、帰還に必要な物や形見など、重要な物は肌身離さず持ち歩くように言ってある」
「いえ、物ではなく……あ」
「……そういえばブライアンはどこに行った」
ここでようやく忘れ物……者に気付いた二人は冷や汗を垂らし、ベルナールはこの場に居ない一人の消息をその場にいる全員に聞く。
「団長、私の記憶ではブライアンの姿を広場から転移した後一度も見ていないようだ」
「俺も……」「私もなのです」
「でもよ、転移の術ってその場にいる全員をまとめて転送するモンじゃねえのか? バアル=ゼブルのダンナがさっきそんなことを言ってた気がするんだがよ」
エレーヌ、リュファス、ロザリー、カロンが意見を述べ、それを聞いたベルナールが苦い顔で首を振る。
「アレは急いで発動させた、と前置きしてからの発言だから参考にならん。むしろ時間があれば魂の解析や分類を行って、飛ばす対象を選択できるとしか聞こえなかった」
ベルナールの発言に全員が黙り込み、そして誰か喋れよ、とばかりにお互いの顔を見た後、更に重い沈黙が辺りを包んだ。
しかし一人の青年が発した言葉が、その沈黙を撃ち破る。
「ここはフォルセールに一旦帰還しよう。居るかどうか判らないブライアンを探しに王都に戻るのは危険すぎる」
方針を宣言したのは、ベルナールではなくアルバトールだった。
全員の安全の為に、一人の仲間を見捨てる。
妥当とも言えるその提案の内容に、しかしその場にいる全員が発言者の顔を見つめ、そしてその表情を見た後に何も言えなくなった彼らは、再び帰還の準備を始めた。
「良いのだな?」
「配下を信じて待つことも上に立つ者に必要な資質。私はブライアンが無事に生き抜くことを信じております」
ベルナールはその説明を聞くと、これでも長い付き合いですから、と付け加えて真っ直ぐに見つめてくるアルバトールの目を真っ直ぐに見つめ返し。
「分かった。私はカロンと少し相談をしてくる」
そして先に目を逸らしたベルナールは、帰還ルートを決める為にカロンの所へ歩いて行った。
「戻ったぞ団長、夜番の連中は今どこにいる?」
激しい戦いの後、転移で詰所前に飛んだ八雲は、仕事の引継ぎ報告をする為に自警団の廊下を踏み鳴らしながら団長室へ急ぐ。
人気の少ない詰所内に嫌な予感はしていたものの、八雲は遅刻を誤魔化すために、団長室に入るや否や、かなりの勢いで夜番担当の者たちの居場所をフェルナンに聞いた。
「ああ、皆もう市中の見回りに出かけたわい。仕事の引継ぎならそこに……ん? あ、そっちじゃったか。そっちにいる若い者に言ってくれ」
だが目の前のフェルナンがそれほど怒っていないのを感じとるなり、八雲はいつもの憎まれ口をたたく。
「煮え切らない指図だな。待たせている者の居場所も分からないとは、言いにくいがそろそろ引退を考える年なのではないか?」
「引退して家でおとなしくしておれと言うことか? それが少しは外を出歩けとワシに説教した者が言う言葉か。ああ、引継ぎを済ませたらそちらの御仁の説明をするんじゃぞ、八雲よ」
迦具土を手の平で指し示すフェルナンに頷いた後、八雲はそのまま部屋の片隅で闇に紛れているような、霞のように捉えどころのない男に近づく。
手が届く位置に居ながら、手の届く位置にまで近づける気がしない。
不思議な雰囲気を持つその男に、八雲は昼間の出来事を簡潔に話し、男が了解した旨を返してくると、八雲は首を捻りながらフェルナンの処へ戻っていった。
「さて、この前牢屋に使っている地下室でお前も会ったから覚えているじゃろうと思うが、一応紹介しておく。フォルセール騎士団の隊長の一人、ブライアンじゃ」
部屋の片隅に澱む闇から姿を現し、ゆっくりと手を差し出してくるブライアンの手を握り返し、まるで覚えていないと答える八雲に対してフェルナンは鼻白む。
「ハハハ、まあこう言った事には慣れておりますし、あの時副団長は牢屋にお見えになっていなかったかと」
笑顔を浮かべながら八雲を弁護するブライアンに、フェルナンは軽く詫びを入れ、それから迦具土の素性に関して、八雲と迦具土に事情を聴き始めた。
「つまりお主は、この迦具土と言う御仁を殺すためにここに連れてきたと言う訳か?」
八雲はフェルナンに頷く。
[つまり私は利用されていたと言う訳ですか?]
八雲はセファールに首を振る。
「なるほどなるほど。なかなか人間界の色恋沙汰……では無かった、仕事と言うのは辛いもののようだね、弟よ」
八雲は首を傾げ、しばらく迦具土と攻防を繰り広げた後にセファールへ真摯な眼差しを送った。
「セファール、今の俺には贈り物として其方に進呈できるものがそれしか無かったのだ。またその簪は、其方の一生の守り刀に成りうることも考えて贈らせてもらった。それだけは信じてほしい」
求婚とも受け取れる、と言うか求婚としか受け取れない言葉にセファールは顔を真っ赤にし、もじもじと身をくねらせながら八雲に背中を向けた。
「まぁなんにせよ、じゃ。法を守らせる立場にある自警団の副団長が、私怨によって人殺しをすると言うのは認められんぞ、八雲よ」
「ダメか」
「ダメじゃ。そもそも迦具土殿は、既に父であるイザナギに切り殺されておる、つまり死を以ってその罪をあがなった後じゃ。それを尚も滅すると言うのは道理に合わぬ。幾らお前が母であるイザナミに命じられたと言っても通らぬ話じゃ」
「しかし俺は、親の頼みを聞かぬ不心得者とは……」
食ってかかる八雲に、フェルナンは静かに告げた。
「むしろ無理難題を申し付け、お主を遠ざけるのが母君の目的だったのではないか?」
両眼を閉じ、眉間にしわを寄せてフェルナンは何かを待ち、そして静かになったことを確認すると片目だけを開けて八雲を見つめた。
「では仕方がない。迦具土よ、自警団の仕事が一区切りつくまでお前にはここに居てもらうとしよう」
「やれやれ、そうなると思ったわい。八雲よ。その御仁、暴発系ではあるまいな」
「歩く癇癪玉が長の組織では、そんな人材が揃うのも当然のこと。諦めるんだな団長」
すぐに横で始まった騒ぎを余所に、セファールは迦具土に自警団の説明を始める。
そして八雲から引継ぎの説明を受けたブライアンは、いつの間にか部屋の中からその姿を消していた。
[ふふ、騒がしくありますが、ここはとても良い人が揃っていますよ、迦具土様]
そう言って華やかなに笑うセファールの髪をまとめている髪飾りと、簪を見た迦具土は、苦笑を浮かべてセファールを見つめた。
「君には正式な自己紹介はまだだったね。私は八雲の兄にあたる火之迦具土神。見た目は生者のように見えるが、この体は仮初めの物だから食事はおろか、睡眠すら必要ではない。気づかいは無用だよ」
迦具土は自分が自己紹介をする間に、セファールが差し出してきたカップに入っている黒い飲み物を見て手を振る。
[味わうことも、ですか?]
「誰かが私の中に入ってくれればその人の五感を共有できるが、それは今のところ望めないね。貴女の魂を私に入れてしまうと、その場で弟に切り殺されてしまいそうだし」
溜息をついて苦笑を浮かべる迦具土を見たセファールは、手を口に当てて軽やかに笑うと、未だフェルナンに怒鳴られている八雲を呼ぶ。
[では、これから共に働く仲間への最初の手助けです八雲様。迦具土様にコーヒーを味わわせて下さいな]
「なっ」
[早くしないと冷めてしまいます。煎れたてのコーヒーがもったいないですので手早くお願いしますね。では、私は隣で洗い物をしておりますので、飲んだ後の食器を後で持ってきてくださいませ]
可愛らしい笑顔を浮かべたセファールは、可愛らしい声で二人にそう告げると、壁で区切られたキッチンの奥へと姿を消す。
しばらくの間、隣の団長室からギスギスした雰囲気が流れてきたものの、やがてカップを持ち、口を微妙な形に曲げた顔をした迦具土が入ってくる。
「なかなかに変わった味の飲み物だったよ。これからも弟を支えてやってくれるかい? セファール」
セファールはニコリと笑って食器を受け取ると、そのままシンクに溜まった水ごと食器を宙に浮かべ、高速で水を回転させて食器を洗っていった。
こうして時は過ぎ、日は落ち、王都のあちこちの家で、帰ってきた家人に温かい手を差し伸べる明かりが灯っていく。
しかしそんな中、町の一角では一人の堕天使と一人の上級魔神が、未だ戦いを繰り広げていた。
[まだ終わらねえのか? ったく、こっちゃあ死ぬような目に遭って力がスッカラカンなんだからよ、さっさと片付けて城で休ませてくれやジョーカー]
[そう思うなら少しはアガレスを治す方法を考えたらどうだ! こちらはこちらで、生かさず殺さずの戦いをずっとやり続けているせいで、神経が焼き切れそうなのだぞ!]
[つっても俺は繊細な解析、制御が必要な精神系の回復術は使えねえからな。お前の回復がしてやれなくてホントすまねえ。とりあえず声援は送ってやるから頑張れよ]
謝罪しているとはとても思えない、薄笑いを顔に張り付けたバアル=ゼブルが目の前で戦うジョーカーに声援を送る。
[私の疲労はいいからアガレスを元に戻す方法をだな……!]
しかしその声援を受けた相手ジョーカーは、なぜか不満げな様子で息を切らしながら叫んでいた。
[おおそうだな]
バアル=ゼブルは路地の木箱の上に胡坐をかき、肘をついてその苦情を聞き流すと、ニヤニヤと笑いながらジョーカーとアガレスの戦いを高みの見物と決め込み、十秒ほど経った後に飽きたのか、隣で壁に背中を預けている美しい青年へと顔を向けた。
[まったく退屈な戦いをしてやがるぜ。それにしてもべリアル、お前さんならこの幻術を解けるんじゃねえのか? こんな意地の悪いモンはお前さんの十八番だろ]
[人聞きの悪いことを言うね、バアル=ゼブル。確かに幻術は得意だけど、どうもこの術をかけた当人の意地の悪さが僕の力を大幅に上回るようで、まったく解けないのさ]
[ほー、お前さんでも無理とはな]
[君がさっき言っていたベルナール? どうも一部の突出した悪意を持つ人間がかけた幻術は、我々魔神を軽く上回ることがあるから困る]
[お前さんの今のセリフ、本人に聞かせたいもんだぜ……お、来たか?]
べリアルの感想を聞き、高笑いをあげていたバアル=ゼブルの目に、路地の向こうから巨大な車輪のようなものがこちらに転がってくるのが見えてくる。
[お医者様のご登場だ。もう少し頑張ってなジョーカー]
遠目には車輪と見えたそれは、近づくにつれその詳細を明らかにしていく。
驚くべきことにその車輪の中心には獅子の頭がついており、車輪の輪っかと見えた部分は、高速で回っていたヤギの足であった。
その珍妙な姿をした上級魔神は、バアル=ゼブルのすぐ傍につくと人の形――コランタン――をとり、戦っているジョーカーとアガレスの方を向いてニタニタと笑った。
「なんだぁ? まぁだ解けてねぇのかよ。ベルナールの底意地の悪さぁ、天下一品だぜまったくよぉ」
[あん? なんだ知ってたのか。まぁいいや、とりあえずちゃっちゃと治してくれやセンセイ様よ]
だが、その場に現れたコランタンは一向にジョーカーの治療を始める様子は無く、それどころかバアル=ゼブルの横で手を振って酒瓶を一本と、グラスを二つその手に出し、その一つにブランデーを注いでいく。
「医は仁術。請われれば悪魔はおろか、天使だって治してみせる……と言いてぇ所だが、なにぶんそんなことぉしてちゃあ、俺様の時間が幾らあっても足りねぇ。取捨選択の指標ってもんがぁ、こっちにもあるのさぁ。例えば金とか、あるいは俺様が見たこともねぇ珍しい酒とかよぉ」
ブランデーを注ぎ終えたコランタンが、いやらしい笑みを浮かべながら隣にいるバアル=ゼブルへ説明をする。
彼はその説明内容を、いたく気に入ったようだった。
[だとよジョーカー。さっさと有り金出した方が、お前さんの身のためじゃねえか?]
ゲスな笑みを浮かべてコランタンに同意するバアル=ゼブルに、ジョーカーは怒りを隠そうともせずにその提案を否定する。
[こちらの弱みに付け込むのが仁術なものか! このジョーカー、断じてそのような悪魔の取引には乗らん!]
「堕天使に言われたかぁねぇが、まぁ悪魔の持ちかけてる取引なんだからしょうがねぇぜ、諦めなぁ?」
その負の感情を味わったコランタン――上級魔神ブエル――は目の前でグラスを軽く振り、ジョーカーを揶揄う素振りを見せた後に口に近づけた。
「まぁ、こっちはそれでも構わないぜぇ? 殺し合いってのは、酒の肴にゃ持って来いだからよぉ。しばらく見て俺様が満足したら、治療してやるぜぇジョーカーさんよぉ? ヒェッヘヘヘ」
グラスをあおり、香り高いブランデーを一気に喉の奥に流し込むと、コランタンはバアル=ゼブルにもう一つのグラスを渡して酒を酌み交わし始める。
と、それを目ざとく見つけたベリアルも、ジョーカーとアガレスを放置して近づき。
[おお、こりゃ美味しいね、どこの作り手だい?]
[おいおいベリアルよ、いいのか? ジョーカーだけに任せて]
[交代で休憩することに今決めたよ]
[そんじゃ問題なさそうだな]
[……貴様等、この後死ぬ覚悟は出来ているな?]
剣呑な雰囲気を発し始めるジョーカーを余所に、酒宴は盛り上がりを見せていく。
その時だった。
[ん? ヤム=ナハル爺じゃねえか。今までどこに……って、うわクサッ!? 何だこの下水みてえな臭いは! ホント今までどこに……ってどこに行くんだ?]
突如としてその場に現れた不死身の龍帝ヤム=ナハルは、汚水を滴らせながらジョーカーの方へ歩いていく。
そしてその姿を見つけたジョーカーは。
[待て待て、いや私の読みでは状況次第でそちらから逃げ出す者がいたはずだったのだ。結果的に無駄骨となった事は確かだが……ちょっと待てヤム=ナハル!!]
いきなり身体の周りに発生した、高速で回転する大量の水に体を捻じられ、ジョーカーとアガレスはまるで壊れた人形のようになって渦の勢いに弄ばれる。
更に水もろとも凍結させられてしまった彼らは、完全に動きを封じられていた。
[おいおいヤム=ナハル爺、いきなり凍結とは穏やかじゃねえ……かも……な?]
[感心しないね、いきなり仲間を襲うとは。如何な不死の龍帝と言えどこのまま無事に……どうぞ城で疲れをお癒し下さい]
天魔大戦初期から生きる闇の水ヤム=ナハル。
その巨魁の本気の怒気を見て何も言えなくなった二人は、彼が去った後にコランタンにジョーカーとアガレスの治療を頼み、治療に邪魔な氷を溶かし始める。
[思ったより簡単に溶けるな……ってことは本気じゃなかったんだろうが、しっかし相変わらずやる時は徹底的にやるな、あの爺さんは]
[あの下水の臭いと何か関係があったのかもしれないね。まぁ結果的に二人の争いを止めてくれたことに感謝しておこうか]
こうして王都テイレシアの騒動はひとまず収拾が着く。
だが新たな騒動の火種は、既にフォルセールで起きていた。
「アデライード様が誘拐された……?」
王都を脱出したアルバトールを待っていたのは、信じられない事件であった。