第97話 迦具土神、降臨
「我が真名と神名に於いて命ずる。その御魂振りて目覚めよ天叢雲剣。我は建速須佐之男命也」
八雲は歩を進めながら、謳うように口から大祓詞を唱えていく。
その歩みと共に、剣が放っていた白銀の光はぼんやりとした物から眩いまでの物に変じ、また未だ昼だと言うのに周囲が薄暗くなったことに天を見上げてみれば、そこには陽の光をまったく遮るほどの分厚い雷雲が生じていた。
その巨大と言うも愚かな雷雲のすべてを満たすほどの稲光が、対峙する八雲とメタトロン、そして二人を遠くから不安げに見つめるベルナールたちを激しく照らし出す。
そんな中、遂に激しい雷鳴が地上に轟く。
「キャアア!?」
その音を聞いた瞬間に、頭を抱えてしゃがみこむエレーヌをベルナールは興味深そうに見つめると、八雲のほうへ注意を戻した。
「神鳴り、か……ひょっとすると、八雲殿の正体は東方の神の一人、雷神なのかもしれんな」
呟いた後、ベルナールは丘の周囲の景色に目をやる。
先ほどまで地獄とも思われた丘の周囲は、八雲が施した八坂瓊曲玉によって元の緑の草原と土の大地を取り戻しており、メタトロンが行った破壊の痕跡を残すこと無く綺麗に癒されていた。
「破壊した城を修復したと話には聞いていたが、ここまで見事なものだとは。こうして実際に見ると空恐ろしくなってくるな。お前はどう思う、バアル=ゼブル」
[アァ? 知らねえよンなこたぁよ]
「……無茶な神頼みを聞いてもらい、死地に飛び込んでもらったことは感謝しているし、その為に負傷してしまった点については謝罪をする。だから機嫌を直してくれ」
頭を深々と下げて謝罪するベルナールの前方には、不貞腐れたように地面に寝転び、ケツを掻きながら屁を捻り出すバアル=ゼブルがいた。
「俺たちも必死だったんだよ、ホントごめんよバアル兄ちゃん。反省してるから許してくれよ」
「ごめんなのです、せめて怪我の治療のお手伝いだけでもさせて欲しいのです」
そしてベルナールに続いてリュファスやロザリーも頭を下げるが、彼が機嫌を直す様子は一向になかった。
[兄上……流石にそのような態度は子供の教育に悪いかと]
そして先ほど広場でリュファスへの暴行を止めなかったことに引け目を感じていたのか、謝罪をしながら何度も頭を下げる子供たちの姿を見たアナトが、取り成しをしようとバアル=ゼブルの側に座り込み、おずおずと口を開く。
[なんだよアナト、俺を置いて一人だけ良い子ちゃんかよ。あー白けるわー流石に愛の女神様は俺みてえな一発で吹き飛ばされる役立たずとは一味違うわー]
しかしバアル=ゼブルに口汚く罵られてしまったアナトは、聞くなりその顔を見ることができなくなってしまい、悲しそうに目を伏せて黙り込んでしまう。
そのアナトの様子を見てバツの悪そうな表情になったバアル=ゼブルは、八雲とメタトロンが対峙している方へ寝転んだまま顔を逸らした。
「ええい! いつまでもうじうじと情け無い! それでも男か! 今回はたまたまメタトロンの方が力が上だったと言うだけであろう! ちょっと手も足も出ずに奴に退けられたことをいつまで引きずるつもりだ!」
だがその瞬間、女性をぞんざいに扱うバアル=ゼブルの態度に憤慨したエレーヌが、地面に寝ころんだままの後頭部を思い切り蹴り飛ばした為、彼はその痛みに悶絶する。
[何しやがる! つーかテメエらさっきはよくも俺を騙してメタトロンに突っ込ませやがったな! 嘘泣きまでしやがってこのスベタ!]
すぐにアナトが駆けつけ、頭に出来たコブを癒してもらうとバアル=ゼブルはエレーヌを罵倒し始めるが、彼女の熱弁は止まらなかった。
「アルバトール、いや、メタトロンは先ほどお前にこう言っていた。旧友ともう一つ、力を取り戻していることを、とな。我々が最早あの二人に下手に手出し出来ない状況になった以上、お前にはその二つについて……イヤアアァァアア!! 雷! 雷止めて!」
しかし再び轟いた雷鳴にエレーヌはあっさりと弁舌を止め、しゃがみこんで涙ぐみながら震え始めてしまい、そんな彼女をふぅむと呟きながらバアル=ゼブルは見つめる。
「あ、悪い顔だ」
「こらリュファス、神様を指差すなんて行儀が悪いですよ。ゲスをうつされる前にやめるです」
[テメエら絶対反省してねえだろ……]
先ほどまで不機嫌そのものだったバアル=ゼブルが、あっさり二人の子供とたわいもない会話に興じ始めた姿を横目で見ていたベルナールは、八雲とメタトロンの方から張り詰めた気配を感じて視線を戻し、その顔に緊張を漲らせて構えた。
「始まるぞ」
その声が響いてから程なく二人の男が近づき、接触し。
そして空間が歪んだ。
「チッ! テメエらここから離れるぞ! アンドラス! 暗黒魔術の障壁を張れ!!」
この聖テイレシアに集った超常的存在の中でも。
いや、このアルメトラ大陸全土を見渡しても、際立って力を持つ者たちが集うこの場において、更に抜けた力を持つ二人の戦いに巻き込まれぬように。
彼らからほとばしる力の奔流から逃れる為に。
バアル=ゼブルたちは、先ほどまで彼らがいた丘がようやく見える程に離れた林へ転移して難を逃れ、息をついた。
[何なんだまったく……一ヶ月ほど前に消費しつくした俺の力がせっかく回復してきたかと思えば、今のでまた殆どカラになっちまった]
バアル=ゼブルは忌々しげに先ほどまで戦っていた丘の方向を見つめ、地面に唾を吐き捨てる。
[邪魔な八雲は居なくなったが、アナトもさっきのメタトロンとの戦いで殆ど力を使っちまったみたいだし、これじゃフォルセールの奴らは見逃すしかねえな]
残念そうな顔をするバアル=ゼブルに、アンドラスが疑惑の目を向ける。
[そう思うなら助けなければ良かった物を。なぜ敵であるこやつ等までわざわざ転移なさったのです、バアル=ゼブル様]
[あの状況じゃあ転移させる奴を細かく分類する暇が無かったんだよ。とりあえず巨大な魂を持つお前らを急いで運ぼうとしたら、矮小な人間のこいつらまでついでに転移させることになっちまっただけの話だ]
[それは真意でございますかな?]
目を細め、じっと見つめてくるアンドラスに、バアル=ゼブルはうっすらと酷薄な笑みを浮かべた。
[今まで俺を本気で怒らせて、未だ俺の前に姿を現せる奴は何人もいねえ。これ以上ごちゃごちゃ言って俺をイラつかせたくなかったら、この話題についてはこれまでにしろ。いいなアンドラス]
[……御意]
不満気な顔で、しかしうやうやしく頭を下げるアンドラスの頭を睨みつけた後、バアル=ゼブルは遠く丘の方角を見つめているベルナールの隣に並んだ。
[アイツらなかなか戦おうとしていなかったが、何をしてたんだ?]
「八雲殿がここ聖テイレシアまで来た目的は母君の仇討ちで、その相手が迦具土神と言う旧神らしい。八雲殿はメタトロンにその正体を見たようだが、しかしメタトロンは覚えが無いと言い、二人の議論が平行線を辿った後に戦いになった。良くある話だろう」
[めんどくせえな、何でいきなりぶん殴って終わりにさせねえんだよ。先手必勝って言うだろうが]
ベルナールはその台詞に、先ほどアナトとアルバトールが戦っていた時、彼が問答無用でヤグルシを放った姿を思い出して苦笑した。
「天使の王とも言える存在に、事前交渉も宣戦布告もせずに戦いを挑むわけにはいかんと言うことだろう。八雲殿も故郷ではかなり高位の存在であることを時々匂わせていたから、ヘタをすれば東方の国と天使の軍勢がいくさになるかもしれん」
[なんか問題があるのか?]
真面目な顔でそう言い放つバアル=ゼブルに、ベルナールは深いため息を贈る。
「そうなれば戦火は今までとは比較にならない物となる。つまり今回は個人同士の争いと言うことで決着を着けたいのだろう」
[だからめんどくせえって言ってるんだよ、やりたいなら一人で勝手に……]
「過去に一人だけで勝手に行動をしようとして、仲間を慮る余りに結局できなかった男の言う台詞ではないな」
彼の言葉に口を尖らせて黙ってしまったバアル=ゼブルを見て、ベルナールは丘で戦う一人の男の無事を願い、胸の前で十字架を切るのだった。
「八雲とか言ったか。なかなかの力だ。だが先ほどの結界を思い出すに、君の強大な力は自然界の生命その物を根源としているのではないか? ならば周囲を焼き払えば君の力は半減すると見たが、如何に」
その頃、遠く離れた丘では既に激戦の火蓋が切って落とされ、辺りは再び灼熱の世界へと戻っていた。
メタトロンは薄笑いをその顔に浮かべつつ、上空に集う雷雲から次々と結界内に落ちてくる落雷を高速で、あるいはフラム=ラシーヌによって地へ誘導させて避けながら、周囲のフラム=フォレから次々とフラム=フォイユを八雲へと集わせていく。
「余裕だな、と言ってやりたいが……この場合は油断だな」
しかし、八雲が持つ剣の一振りでそれらはすべて吹き飛ばされ、結界の内側にあたって消滅してしまっていた。
「天地合一。稲妻は天からの物ばかりではないぞ、メタトロン」
新たな攻撃を仕掛けようとしてか、フラム=フォイユを消されたメタトロンが右手を振り上げた瞬間、地面から天に突き上がった雷にメタトロンは体を貫かれてしまう。
苦悶の表情を浮かべながら膝をついたメタトロンは、それでも歯を食いしばりながら顔を上げ、油断なく剣を向けたまま近寄ってくる八雲へ減らず口を叩いた。
「確かに油断だったが、君も人のことは言えないのではないか?」
「人を気にしている場合ではないだろう。無数の目を持ち、数々の名と共に神をその身に内包する天使メタトロン」
八雲は鋭い眼差しでメタトロンの言葉を払いのけ、剣を持つ右手に力を籠めた。
「だが如何にメタトロンが強大とは言え、貴様ほどの神が取り込まれていたとはな。我が兄、火之迦具土神。いや、むしろ自らをメタトロンに売り渡し、その身に逃げ込んだか」
「だからその神の名は覚えていないと……む」
矢継ぎ早に剣を振りながら話しかけてくる八雲の動きを見切り、反撃しようとしたメタトロンがフラム=ラシーヌで目の前の相手を貫いたと見えた瞬間、その姿は掻き消えてメタトロンの背後に複数の八雲が現れる。
即座にメタトロンが迎え撃ち、その攻撃で殆どの分身が消されるも、その中の一体の剣がメタトロンを真っ二つにしたと見えた瞬間。
「これで終わりだメタトロン……何ッ!?」
「ヤタノカガミが君の専売特許と思ってもらっては困るな。天界の書記官でもある我は、アーカイブ領域の管理者だ。不完全ながらも、このセテルニウスに存在するすべての術は我も使えると思った方がいい」
メタトロンの姿も八雲と同じように掻き消え、それに驚いた八雲は、上から襲い掛かってきたメタトロンのフラム=ブランシュに気付くことが出来ず、地面に叩きつけられていた。
「他者の術に便乗するとはな。音に聞くメタトロンもなかなか器が小さいと見える」
しかしそれほど痛手では無かったらしく、八雲は地面に叩きつけられた勢いを利用し、片手で大きく飛び退って追撃のフラム・フォイユから身をかわす。
「だが、メタトロンよ、お前が決定的に勘違いしていることがある」
「む? これは……」
思ったよりダメージを受けていない八雲にメタトロンが感嘆の声を上げた途端、彼の背中にはうっすらと血が滲み、メタトロンはその額に汗を浮かべた。
「天叢雲剣、八咫鏡、八坂瓊曲玉は術にして術にあらず、神器にして神器にあらず」
八雲が再び気合の声を上げると、その姿は十人を超える数へと増え、一瞬にしてメタトロンの周囲へ展開する。
「それらすべては我に助力する神そのもの! つまりお前は俺一人だけではなく、同時に複数の神を相手にしているのだ!」
八雲の叫びと共に、上空の雷雲が一際大きな光を内包したかと思うと、その直後に幾つかの巨大な雷光が地面と天空を繋ぎ、それぞれの光の中から八匹の龍が顕現し、巨大な咆哮で大気を震えさせた。
「大雷神、火雷神、黒雷神、咲雷神、若雷神、土雷神、鳴雷神、伏雷神。8人の雷神たちよ、その男を喰らい尽くせ!」
八雲が剣先を前へ向けると、次々と現れた龍がメタトロンへ襲い掛かっていき、その標的であるメタトロンは迎え撃つべくフラム=フォレを急激に成長させる。
そしてメタトロンの周囲を埋め尽くすほどに伸びた炎の枝、フラム=ブランシュが龍を絡めとり、その体を締め付けた。
「無駄だ! お前の術が植物の名を冠する以上、この草薙剣の支配からは逃れられん!」
だが八雲が天叢雲剣を鞘に収めると同時に草薙剣の名を叫び、すぐさま鞘から剣を解き放って眼前の空間を薙ぎ払うと、そこから巨大な風が巻き起こる。
途端に龍を絡めとっていたフラム=ブランシュは宙に散り、自由を取り戻した龍がメタトロンへ襲い掛かっていくが、その巨大な顎を見てもメタトロンは余裕の笑みを浮かべたままだった。
「やれやれ、我も甘く見られたものだ。我の術がフラム=フォレに基づく物だけでは無いことを知らしめねばならんのは業腹だが、事ここに至っては仕方あるまい。炎帝よ、我が眼前へ。アルバトールよ、勝負はお預けとしよう」
そしてメタトロンを庇うかのように、炎と言うよりは眩く光る、常人の3倍はあるかと思われる熱球がその場に現れ、八匹の龍全てを巨大な白光の刃で貫いていく。
「それを待っていたぞ! 天つ罪が一つ串刺!!」
だが、八雲はメタトロンがその身に内包する神々を放出し、力を発動する瞬間をこそ待っていたのだ。
「その力、俺が貰い受けるぞメタトロン!」
天を埋め尽くした雷雲から、見上げるほどに巨大な白刃が現れ、熱球から人の姿を取ろうとした光の玉を大地ごと貫き、辺りに電撃を撒き散らす。
「まだそのような術を隠し持っていたか! 我が友人に何をするつもりだ!」
怒りの声を上げるメタトロンに対し、八雲が勝ち誇った顔で鬨の声を上げた。
「俺が記憶を封じたのはお前に術を読み取らせぬが為! お前は自分が持つ巨大な力ゆえに慢心し、失敗したのだ!」
だが光は白刃に貫かれたままその場に留まり、大きさのみを膨らませていく。
そしてその様子をまじろぎもせず見つめていたメタトロンが、不意に別れの挨拶を光の玉へ送った。
「……さらばだ炎帝。今まで我の都合に付き合わせてしまった事を深く詫びよう」
そして光は弾け、辺りは再び雷雲に陽光が遮られた薄暗いものに戻り、白刃も塵と還っていった。
「君の切り札は消え、我はこうして息災のままだがまだやるのか? 高天原は三貴神が一人、建速須佐之男命よ」
「ほう、流石はメタトロン。この短時間で俺の正体を見抜いたか。お前の問いに対する答えだが、無論やるに決まっている。我が母イザナミが仇、火之迦具土神を殺すまではこの戦いが終わることは無い」
「そうか、我もこの場から消えた異端者たちを探す必要がある故に、いつまでも君と戦っている訳にはいかぬ。少々気が引けるが使わせてもらうぞ、我の術を」
短く息を吐き、メタトロンが目を閉じるとその背に孔雀の尾羽根のような形をした、眩い光を放つ羽根が無数に生え、頭上と背中に巨大な天使の輪が浮かび上がる。
「アポカリプス」
刹那、尾羽根にある眼が全て開き、赤い光が周囲に満ちた。
「天つ罪が一つ、溝埋!」
数え切れない数の光がメタトロンの目から次々と発せられ、八雲に向けて放たれていくが、その直前で八雲の張った障壁に行き先を阻まれた光は、赤いガラスの破片のような姿へと転じ、虚空へと還っていく。
そしてしばらくの間せめぎ合いが続くも、遂に八雲の作り上げた障壁は突破されてしまい、赤い光が障壁の向こうにいる彼へ襲い掛かる。
だがその時には既に、八雲の姿はそこから消えていた。
「だが我の眼からは逃れられぬ。我が眼は世界の奈辺を見通し、余人の思惑を見抜く」
メタトロンは断言し、姿勢をそのままに尾羽根の眼を上空へと移動していた八雲に向けて光を放つ。
だがその時には八雲の姿は再び消えており。
そしてメタトロンの眼前に再び現れた時、八雲は既に剣を一閃していた。
「ぐっ!?」
その苦痛の声を上げたのがどちらだったのかは判らなかった。
或いはどちらとも、だったかもしれない。
胸の辺りを深く切り裂かれたメタトロンはそこからかなりの出血が見られ、そして切り付けた側の八雲も左腕、右腿、右脛を赤い光で貫かれていたのだ。
「八坂瓊曲玉よ、力を」
「プルミエソワン」
二人とも術によって怪我を治しはするものの、その身に秘める力までは元に戻っていないように見える。
特に八雲は今まで見られなかった疲労を表に出しており、彼自身のみならず、彼に助力している神もまた疲弊をしていることが明らかだった。
「やれやれ、まさか我が本気を出してさえ手こずるとは……だがそろそろおしまいにしよう。我の中にいる若き天使も及第点に達したようだからな。……待て! 今君に出てこられては全てがおしまいになる! いや、アルバトール! 君ではない!」
慌てた声を出すメタトロンの目の前には、先ほど炎帝が出た時のように光の玉が現れており、そして瞬時に人の姿を取ると、焦るメタトロンへゆっくりと頷き、背後の八雲へ振り返った。
「火之迦具土神……」
そこには全身を光り輝かせ、八雲と似た衣装を着込んだ黒い肌と白い髪を持つ旧神、火之迦具土神が降臨していた。