第96話 精神世界より
「アルバトール……目を覚ましなさい、アルバトール……」
アルバトールが目を覚ました時、周囲は暗闇に包まれていた。
「目を覚まさないと鼻フックの刑ですよ、アルバトール」
「もう起き……おごぼぼぶびべばびいび!?」
しかし目を覚ました時アルバトールは一人ではなく、その暗闇に包まれた中でさえ美しい輝きを見せる、白い肌とゆるやかに波打った金髪を持つ一人の女司祭が彼の名前を呼んでいた。
「もう少し常識的な起こし方は出来ないんですか! まったくもう……」
全身を倦怠感が覆ってはいたが、それでもアルバトールは何とか体を起こし、鼻をさすると、その美しい外見とは正反対にドス黒い性根をしているエルザの方を向いた。
瞬間に顔を背けてしまっていた。
「何で全裸なんですか!?」
「服の情報を付与するのが面ど……いえ、貴方たちの出立日が思ったより早かったので、小剣に服の情報を付与する時間が無かったのですわ。そんなことより貴方に話しておかねばならないことがあります」
真剣な口調に変わったエルザを見て、いや見るに見られず俯いた姿勢で、アルバトールは彼女の話を聞き始める。
「貴方が今見ているこの私は、ある目的の為に私が力を篭め、貴方の精神に直接照射している物です。つまり貴方がこれを見ていると言うことは、自分の力や今の装備だけでは、どうにもならない事態に直面していると言うことです」
流石は大天使ミカエルをその正体とするエルザである。
アルバトールは感心し、我々の様な凡人とは違って二手三手先のことを考えて行動しておられる、などと神妙な顔で頷いている間にも幻影のエルザは話を続ける。
「さて、そんな時にこの小剣の存在を思い出した貴方は、私がベルトラムへ言伝と共に託したこの小剣には、実は何か特殊な力が篭められていて、貴方が窮地に陥った時に抜いたらブァー! とか、グワー! とか音を立てて何とかしてくれるのではないか、と思ってちょっとワクワクしながら手に取ったのではありませんか?」
「ちょっと違いますが……まぁ似たようなものです」
今日も今日とて妙な展開になっていくことにアルバトールは頭を抱える。
その目には、すぐ側に立っているエルザが喜んでいるように見えた。
「しかし小剣にはそんな力など無かった。その結果に今の貴方はおそらく『え、本当に何か特殊な力があると思ってたの? 今どんな気持ち? ねぇ今どんな気持ち?』と誰かに嘲られたような心境になっていますね?」
「はい。と言うか嘲ってる本人がそれを聞く必要があるんですかね」
「またその指摘に反論したくても出来ない不甲斐ない自分に逆上し、冷静な判断が出来なくなっている状況になっていることでしょうホーホホホ」
「全然違いますが。と言うかたった今まさに逆上した所でしかもその相手は自分じゃなくてエルザ司祭なんですけど」
その時、外……と言うよりアルバトールの体に間借りしたメタトロンが、何やら脆いだのジョーカーが持ちこたえただのと言ったような気がしたが、怒りのあまり頭に血が昇った状態の今の彼には、空耳にまで意識を振り向ける余裕は無かった。
「ですがそれもそのはず。小剣は目の前の障害を取り除くための武器ではなく、障害を取り除く為の手段に取り込まれない為の道標、灯台の光のような物だからです」
「いや灯台でも障害でも何でもいいですよこの怒りをぶつける対象が見つかれば」
いつの間にかアルバトールは、目の前のエルザが全裸でも気にしなくなっており(そもそも純粋な天使には性別が無いことを思い出した)それどころかギラギラとしたケダモノのような眼で睨み付けていた。
「もしもメタトロンが暴走し、その意識に飲み込まれそうになった時には、この小剣を抜きなさい。きっとメタトロンは冷静な判断を取り戻し、窮地を切り拓く為の力を貴方に貸し与えてくれるでしょう」
「……へ?」
エルザが口にした言葉の内容に、思わず間が抜けた声を出してしまったアルバトールは、自分のその行為を恥じて思わず口を塞ぎ、顔を赤らめる。
そして目の前のエルザは、彼のその隙を突くかのように姿を消そうとしていた。
「その効果は一度きり、絶対に忘れてはなりませんよアルバトール……」
「え? ちょっと! どこ行くんですか!」
「なりませんよアルバトール……ませんよ……せんよ……」
「何で自分でエコーかけてるんですか! これ小剣に籠めた映像じゃなくて絶対現在進行形で話しかけてるでしょ! 最初の方のやり取りでバレてるんですからね!」
しかしアルバトールの必死な呼びかけにも関わらず、光を放ちながら話していたエルザの姿は消え、周囲は再び暗闇に包まれてしまう。
「小剣を抜いてるのに、もう乗っ取られてるんですけど……どうするのこれ」
アルバトールは急にその存在価値が儚げな物になってしまった小剣が、精神界にも姿を現していることを少し不思議に思いつつ、鞘に再びしまおうとして手で腰の辺りをごそごそしていると、彼の意識は再び闇に包まれた――
――かに感じた瞬間、再び空耳が聞こえてくる。
それはベルナールと話している、バアル=ゼブルの声だった。
アルバトールはその内容を聞き、不安に駆られて呟く。
「居場所が無くなるって……どう言うことなんだ」
「それを当事者の一人である君が心配する必要は無い。若き天使よ」
いきなりその場に響き渡った声に多少動揺しながらも、アルバトールは意識を周囲に向け、その正体の推察をしようと試み、成功する。
「……メタトロンか? 僕がそう言われて黙って引き下がるように見えるのかい?」
先ほどの聖歌。
そして居場所が無くなると言うバアル=ゼブルの発言に加えて、自分が当事者と呼ばれたアルバトールは、それらの要素から連想される一つの罪に気付いて全身に緊張を走らせ、メタトロンに話の続きを促した。
「君にとっては非常に残念な話だろうが、そこに居るフォルセールの民は我に全員異端者と認定された。その祈りの対象となった君は、この戦いが終わったら天界に連行され、異端認定裁判にかけられるだろう」
「やはりね。それを回避する方法は?」
「無い」
取り付く島も無いといった返答をしてくるメタトロン。
しかしそれに対し、自分でも驚くほどアルバトールは冷静だった。
「すまない、言い方を変えよう。こちらに協力してくれない目撃者をすべて滅する以外で、それを回避する方法はあるのか? 天使メタトロン」
否――アルバトールは冷静ではなかった。
怒りを秘めた口調で、冷酷にそれを口にした。
つまり協力してくれない場合、メタトロンを滅すると彼は脅迫をしたのだ。
「面白い冗談だ。アナトに手も足も出なかった君が我を滅すると? そもそもどうやって滅するのだ。我は君の精神の中に間借りしているのだよ?」
もっともな指摘に対し、アルバトールは自信に満ちた口調で質問を返す。
「なぜ君は僕の精神に間借りしている?」
「間借りした方が都合がいい、あるいは間借りしなければならない必要が我にあるからだろうな」
核心を突く質問に、感心したようにすんなりと返答してくるメタトロンに対し、アルバトールは一つの条件をメタトロンに出した。
「間借りしている理由はこの際どうでもいい。取引だメタトロン。君が僕に間借りしている目的に対して全面的に協力をするから、フォルセールの皆を見逃して欲しい」
「我の目的も聞かずに協力をすると? 随分と浅はかな提案だ。もし君にとって、フォルセールの民より更に重要な人物に危害、あるいは重要な物に損害を与えることが我の目的であった場合、君はどうするのだ」
「一般的な犯罪者の目的は、大半が対象に危害や損害を与えることにより、自らが利益を享受すること。つまり君の求める利益を、他の手段によって達成すればいい」
「……なるほど、やぶれかぶれで自らを差し出そうと言う訳ではなさそうだが……根本的な問題が解決した訳ではないぞ。遥か高みにおわす主より、君の方を讃えたという彼らの罪が、君の協力のみで打ち消せるとでも思っているのか?」
冷たく指摘するメタトロンにアルバトールは溜息をつき、右手にある小剣を見た。
「交渉決裂かな。物質界と同じように、この精神界においても死と言う概念があるのかどうかは判らないが、やってみる価値はありそうだ」
先ほどまで余裕の態度を崩さなかった話し相手が、途端に身じろぎをしたような気配を感じたアルバトールは安堵のため息をつく。
やがて響いてきた声の内容に、彼は全身を昂ぶらせ、拳を握り締めた。
「では提案だ。私は今、アナトの他にバアル=ゼブルとも戦うことになりそうな状況にあることを知っているな?」
アルバトールは頷く。
彼がメタトロンと言い争っている最中にも、外の声は聞こえてきていた。
そしてその内容が深刻な方向へ向かっていることが、メタトロンとの取引を急いだ理由だったのだから知っていて当然だった。
「その戦いの間に我を超えてもらうことが、フォルセールの民を見逃す条件だ。バアル=ゼブルたちを倒す前に、一度でも我より早く術を発動させれば君の勝ち。出来なければ君の負けだ」
旧神――いや魔族の中でも最高峰の力を持つ二人を同時に相手をする状況でも、当然のように勝利を前提とした条件を語るメタトロンに、アルバトールは内心で恐れを抱きつつもある質問を口にする。
「それは今の僕に達成できるような条件なのか? どうやっても皆を助けられないような不可能な条件を飲むつもりは無いぞ」
「出来なければすべてが終わる。君はやるしかないのだ。やれなかった時のことを今から考えてどうする、若き天使よ」
その一言で、一押しで彼はメタトロンに挑むことを決め、どこにいるとも知れない相手に対して挑戦の口上を叩きつける。
「始めようかメタトロン。今から僕は、いずれ率いることになる我が民を救う為に、全身全霊を注いで君に挑む」
その宣言と共にアルバトールの目の前の闇が口を開け、熱で満たされた結界の中へと彼は放り出された。
「君の肉体は我が使っているので、我が内なる存在の中の一つを君の依代とする。よって君はこの勝負が終わるまで他の者と話すことは出来ないが、術の発動には何ら関係しないから心配しなくてもいい」
メタトロンが喋り終わると同時に、彼は凄まじいまでの力が全身に漲るのを感じる。
座天使であるアルバトールと比べてもその力は法外な物であり、その力を制御するだけで彼は時間を費やさなければならなかった。
しかしその悪戦苦闘の最中に、彼の耳に信じられない情報が舞い込む。
「……うわああああ!!? 急に何を言い出してるんだバアル=ゼブル! アナトとの接吻も胸に飛び込んだのも、わざとじゃないんだぞ!?」
「うむ、いい妨害だ。戦いではそうやって相手の心を掻き乱し、術の邪魔をするのも重要なこと。だが今ので少し結界が……」
「そういう問題じゃない!」
メタトロンの懸念を聞きもせず、アルバトールは動揺して力を暴走させ始める。
更にバアル=ゼブルが甘ったれのクソガキと叫ぶのを聞いてしまった彼は、とうとう絶叫を上げて力を外へほとばしらせていた。
「接吻や乳に動揺するようなクソガキで悪かったなァァァアア! 後で顔が変形するまで殴ってやるから今のうちに首を洗っていろバアル=ゼブル!!」
エルザの幻影とのやりとりで溜まった怒りと、アナトへの性的嫌がらせを全員の前で告発したバアル=ゼブルへの怒りが合わさって爆発したのか、彼は凄まじい勢いで力を放出させ、その瞬間にメタトロンの干渉が緩む。
すぐに全身に激痛が走り、思うように動きが取れなくなったアルバトールだったが、程なく四肢を拘束する物が外れて動きがとれるようになると、彼の中にメタトロンの苦情が響きわたった。
「やれやれ、君が暴走したせいで余計なダメージを貰うことになってしまった。では始めるぞ」
「丁度こちらもこの依代に慣れてきたところだ。お前の思うように事が進むと思うな……ってちょっ!?」
言い終わらぬうちに、メタトロンが戦況に応じた術を立て続けに編んでいく。
「こんな体たらくでよく今まで生き残れてきたものだ。もう終わってしまうぞ」
それに対し、アルバトールも素早く対抗する。
術を編む事に集中して、メタトロンへの妨害がおざなりになっていたとは言っても、彼なりに全力を尽くして発動させようとしたのだ。
その速さは、今までに彼が見てきた天使や旧神と比較しても、決して劣っていなかったはずだった。
だが、それでも尚メタトロンには一歩届かなかった。
短い時間の間に、凄まじい速度で成長を続けた彼の力を以ってしても勝てなかった。
炎の森から無数に現れ続ける炎の葉の一片すら、彼は制御下に置くことが出来なかったのだ。
「今まで見てきた強者たちと比較しても、劣らぬ速度で術を発動させたのに届かなかった。自分に今出来るすべてを尽くしたのに届かなかった。とでも言いたいかね」
放心状態でメタトロンの言葉を聞く、アルバトールの目に映る景色は歪んでいた。
熱気によって屈折して見えるのではなく、周囲に存在するすべての物がどこか別の世界の物のように、手が届かない場所にある物のように感じた。
彼は、彼の民を助けようと必死に手を伸ばし、だが彼が率いることになる民の命を掴みあげられなかったのだ。
「自分が見てきた力を己の限界、己が到達することの出来る天井。そう無意識に位置づけた己の未熟さを呪うのだな。それらを超えた遥かな高みに自らを位置づけようとしていれば、まだ我に抗することが出来ただろう。そこで裁きの時を待つが……何だ!?」
メタトロンの驚愕の声と共に、周囲に展開されていた結界を含むすべての炎が吹き飛ばされ、辺りは静寂に包まれる。
そこに新たに生まれたのは、彼の外に在る黒髪の一人の男がメタトロンに向けた、そして一人の天使が間借りしている存在に向けて発した歓喜の声だった。
「どうやら戦いはまだ終わっていないようだね。さぁ続きを始めよう」
「往生際の悪い。勝負は既に……」
だが、メタトロンは発しようとした言葉を途中で切る。
内から漏れ出でる力に、アルバトールに満ちる意思の力にメタトロンは口をつぐみ、そして承諾の意思を返してしまったのだ。
「行くぞ! 僕たちの勝負はこれからだ!」
そのアルバトールの叫びと共に、メタトロンとの勝負は再び幕を開けた。