第89話 王都騒乱
アルバトールとバアル=ゼブルが対峙する少し前。
王都の外で脱出する人間たちを、地中、あるいは姿を消して待ち構えていた魔族は、いきなり飛んできた多くの馬車を原因とする混乱に陥っていた。
[あらあら、どうしちまったんだいこいつら。馬車の中を見るなり、積んであった荷物の奪い合いになっちまったよ]
奇声をあげながら馬車に群がっていく下級魔物を見て、ペイモンはうんざりとした表情を隣のベリアルに向ける。
[興味深いね。同族の体の一部ならともかく、下級魔物にとって意味の無いマジックアイテムはおろか、その価値を理解しているとも思えない貴金属類にまで群がっているよペイモン]
ベリアルが発した言葉にペイモンが馬車の方を見れば、確かに光り輝く宝石にまで彼らは次々に手(手の働きをするものも含め)を浅ましく伸ばしていく。
まるで卑しい人間たちのように。
[さて、どうするのさベリアル。アタシらが統率を任された下級魔物たちはこのザマだし、そもそもアタシらの待ち人はまだ王都の中にいるみたいだよ。もうこいつらほっといて、アタシたちだけでも王都の中に入って、標的の捜索でもするかい?]
[ああ、それも考えなくは無かったんだけどね]
ベリアルはその整った顔にわざとらしく憂いの影を帯びさせ、ペイモンに答える。
[残念だけど、我々が受けた要請は王都を脱出しようとする人間たちを包囲殲滅してくれ、と言うものだ。もしもこの騒ぎが人間たちによる我々の陽動だとしたら、今僕たちがこの場を離れることは、みすみす人間たちを取り逃す結果に繋がりかねないよ]
悲劇の主人公よろしく、仰々しく身振り手振りを加えて説明するベリアルに対し、ペイモンは冷ややかな視線で応じる。
[色々と取り繕ってはいるけど、要はジョーカーの役に立ちたくないってことなんだろ? 面倒な性格してるねアンタは]
その指摘を聞いたベリアルが胡乱な表情になり、だらんと体から力を抜いたと見えた瞬間、彼は即座にぬるりとペイモンに近づき、耳に口を近づけ、ねっとりとした声をペイモンの頭の中に滲み込ませて行く。
[だってしょうがないのさ……セーレとフェネクスの一件を君も聞いただろう……? ジョーカーの要請を無視して勝手に行動すれば、処罰されるのは我々の方だ……ここは静観して指示を待つのが一番の得策だ……よ……?]
[やめなベリアル]
その言いようにペイモンは嫌悪感をあらわにし、あからさまに顔をしかめてベリアルから遠ざかった。
[まったく、アンタのその喋り方はいつ聞いても寒気がするね。それにジョーカーに新たな指示を仰ぐこともせずに指示待ちかい?]
ペイモンは苦笑をしながらベリアルから視線を外し、馬車に群がった下級魔物たちの様子を見る。
既に彼らは馬車の荷物を巡って同士討ちを始めており、その有様を見たペイモンは汚物を見る目そのものになって地面に唾を吐き、下級魔物の数体を見せしめを兼ねて消滅させるが、それは新たな混乱を招いただけに終わった。
よほど価値のある物がそこに有る為に消されたのだと睨んだのか、他の馬車に群がっていた魔物たちまでが、消された魔物がいた馬車の所に群がってきたのだ。
[こりゃ処置なしだね。しばらく放置して、疲れた頃に一喝した方が良さそうだ]
[そうそう、それが一番だよ]
嬉しそうに答えるベリアルを見て、ペイモンはふと頭に浮かんだ疑問を口にする。
[……アンタ、セーレとフェネクスが消されたのがそんなに気に入らなかったのかい?]
ペイモンのその問いには答えず、ベリアルは鋭い牙をむき出しにしてニタリと笑いながら、魔物たちの同士討ちを楽しそうに見つめるのだった。
その頃、王都テイレシアの上空では。
二つの光る玉が、無形の力の奔流を辺りに撒き散らしながら高速で移動し、お互いがお互いへと雷や火を放ちながら交錯し、反発しあう磁石のように離れていた。
光が戦場としている空は、まるで感情を持っているかのように色を変え、浮かぶ雲が一瞬にして散ったかと思えば雷雲として産まれかわり、今度は熱風に飲み込まれて再び消えていく。
遠目に見たそれは美しいものだった。
あくまでも遠目に見た限りでは。
[あん? どうしたよアルバトール。ひょっとして、お前息が切れてきてねえか? やれやれ、天使の癖にだらしねえなぁオイ]
「追放で済ませてくれると言った君たちが、まさかこんな卑怯な追い討ちをしてくるとは思ってなくてね。昨日の夜に開いた酒宴の酒が残って本調子じゃないみたいだ」
そのアルバトールの言い訳をバアル=ゼブルは鼻で笑い、返答代わりに広範囲に渡ってヤグルシを発動させる。
アルバトールは四方八方から迫る稲光を高速で交わし、槍の形をした巨大な炎を発動させて反撃するが、彼が放ったそのすべてをバアル=ゼブルは紙一重で見切りながら、マイムールとともに目の前の敵へ躍りかかっていった。
[バカ言ってんじゃねえよ。追い討ちは無いと思ってる奴らが、こんな見事な逃走劇を繰り広げられるかよ]
顔に嬉しそうな笑みを浮かべたまま、バアル=ゼブルはマイムールの力任せの一撃をアルバトールに食らわせ、再び遠くへ吹き飛ばす。
[今度はこっちの番だな。ヤグルシを喰らいな]
そしてマイムールの一撃で勢いよく吹き飛んだアルバトールに集中していく十数本の稲光を見て、バアル=ゼブルは満足そうに頷いた。
しかし彼のその満ち足りた時間は、無骨な男の声で一瞬にして終わりを告げる。
[おい、バアル=ゼブル]
[なんだよモート。いい所なのに邪魔すんじゃねえ]
[ヤグルシはやめろ。少年に当たらずに下に落ちた雷が原因で、民の被害がどんどん広がっている。俺も出来る限り防いではいるが、流石に視線が届かない場所までは無理だ]
機嫌よく天使と刃を交えていたバアル=ゼブルは、上機嫌のままに下から響いてきたモートの声に耳を傾けたが、その内容に呆れて彼は首を振った。
[お前も飛べばいいだけの話だろ。これだから地底に引き篭もっていた奴は応用力に乏しいっつーかなんつーかよ]
[俺はお前と違って、それほど飛行術が得意ではないのでな]
そう言いつつモートも飛行術を発動させ、その巨躯を音もなく上空へと移動させる。
一方、アルバトールはヤグルシの直撃は何とか防いだものの、その体力は一方的に削られるのみであり、劣勢そのものと言った状態だった。
(以前に戦った時より僕の力は圧倒的に上がっている……なのにこの前より戦況が悪いなんてね)
「アルストリアで僕と戦った時は手を抜いていたのかい? 以前に戦った時はまだ付け入る隙があったのに、今日の君はまるで隙が無い」
体のあちこちにヤグルシによる火傷を負ったアルバトールは、焦げた髪の毛先を剣で切り払いながら、バアル=ゼブルに軽口をきいた。
[そりゃこの前は色々と働いた後だったからな。高位魔族を加えた百体ほどの魔族を空間転移させるとか、無茶やらせたドアホウがいてな……何笑ってんだコノヤロウ]
横から響いてきた重厚な含み笑いにバアル=ゼブルが振り向くと、そこには腕を組んだモートが意味ありげな笑いを浮かべている。
[今度までに痩せておけよモート]
[無茶を言うな。魂を痩せさせて得るのは存在の希薄さだけだ]
[ケッ、今度テメエを謁見の間から引きずり出してでも空間転移の術を叩き込んでやるから覚悟しとけよ……っと、あぶねえあぶねえ]
旧神たちが無駄口を叩いている間に、その背後に回りこんでいたアルバトールの不意の一撃を、バアル=ゼブルは余裕を持ってマイムールで防ぐとその姿を消す。
いや、そう勘違いしてしまうほどに高速で移動し、一気にその場から離れて間合いを取ったバアル=ゼブルは、そこから不可視である巨大な風の刃を次々とアルバトールに撃ちこみ、続けて彼自身もマイムールを構えて再び切りかかっていく。
[待てバアル=ゼブル! それだと俺も巻き込ま……うおおお!?]
バアル=ゼブルが放った術に巻き込まれそうになったモートが叫び声を上げ、慌てて大きく飛び退った。
その時だった。
それが狙いだったかのように、タイミングを見計らっていたようにバアル=ゼブルがアルバトールに話しかけたのは。
(そのまま落ち着いて聞けアルバトール。このまま俺が間合いを取ってマイムールを掲げるから、お前はそれに合わせて聖天術を撃て。撃ったら全力で広場に向かうんだ。後は俺が何とかする)
いきなりのバアル=ゼブルの提案、しかもその内容に、アルバトールは内心でこの上ないほどに驚く。
しかしその動揺を顔に表すことが出来ないほど、鋭く打ち込まれてくるマイムールによって苦悶の表情を浮かべることしかできなかった彼は、そのままバアル=ゼブルの攻撃を防ぎながら話を聞いた。
(サンダルフォンの件、忘れるなよ? こうなってしまった以上、お前らと連絡を取り合うことは絶望的だが、絶対に何とかする。だからサンダルフォンの情報と……)
バアル=ゼブルはそこで一瞬口をつぐむ。
何かを思い出したのか、苦悶の表情をほんのわずかな間だけ浮かべた後、思い切ったように再び口を開いた。
(リュファスとロザリーを助けてやれよ。それじゃいくぜ!)
その言葉と同時に放たれる、マイムールの強烈な一撃。
それを盾で防いだアルバトールが気付いた時には、バアル=ゼブルは数百メートルほど遠ざかっており、先ほど彼らの元から離れたモートの近くまで移動していた。
そしてマイムールを高々と掲げ、叫びを上げる。
[これが最後だ。この技をその瞳に焼き付けて死ぬんだな!]
バアル=ゼブルがマイムールを天に向けて掲げると、その切っ先から雷光を帯びた、天を貫くほどの巨大な竜巻が姿を現して唸りを上げ。
そしてアルバトールはそれに対抗するように天使の輪を形成し、羽根を広げた。
(信用していいか判らないが……! 今の僕に出来るのは彼を信じることだけだ!)
「クラウ・ソラス!!」
天使の切り札である聖天術、クラウ・ソラスの光がアルバトールの右手に生まれ、バアル=ゼブルたちに向かって集束していく。
術の発動と同時に背を向け、広場に向かおうとしたアルバトールが見たものは、しまったという表情を作ったバアル=ゼブルと、顔色を青くしたモートだった。
(無事でいてくれ! リュファス! ロザリー!)
素早く地上に降り立ち、建物の陰で主への感謝の祈りを捧げたアルバトールは再び飛行術を発動させ、広場へと高速で向かっていった。
[やれやれ、二人揃って暗黒魔術の障壁を発動させちまうたぁ、ドジったもんだぜ]
アルバトールが姿を消した後、残されたバアル=ゼブルとモートは顔を見合わせてお互いに苦笑いを浮かべていた。
[すまんな、お前が障壁を張るより少年が聖天術を発動させる方が早いと思ったので、ついやってしまった。しかし思ったよりお前の障壁の発動が早かったな。奴が聖天術を撃つのを見抜いていたのか?]
バアル=ゼブルはモートを振り返ること無く、広場の方角を見つめながら答える。
[追い詰められた奴に出来ることつったら、聖天術による一発逆転だろうからな。聖天術を防いだ後、奴が祈りを捧げている最中に一撃を食らわす予定だったんだが、お前も障壁を発動させちまったせいで、予想以上に視界が遮られて対応が遅れちまったぜ]
俺の獲物だとまで言い放った、天使アルバトールを逃す原因となったモートに対し、まるで怒った様子も見せずに答えるバアル=ゼブル。
そんな彼をモートは不思議がる様子もなく、浮かべた表情は満足そうなものだった。
[もっと強くなった奴と再会することを楽しみにしているようだな]
[あー……その表現は正直気持ちわりぃが、そう言うことにしといてやるよ。とりあえず今回はアナトに後を任せるか]
街の一角をがれきの山と化すほどの、先ほどまでの死闘が嘘のように穏やかな表情で話す二人。
そんな彼らを恐れる様子もなく近づいていったのは、一人の老人と一人の黒髪の若者だった。
[いや、これには深い事情があるんだ爺さん]
「じゃからその深い事情を聞く為に詰所に行くんじゃろうが。元とは言え、神にしては往生際が悪いぞ」
彼の目の前にいる、眉間にこの上なく深い縦じわを作り上げた老人を見ながら、バアル=ゼブルは先ほどの戦いの記憶を掘り起こしていく。
[だから違う違う、この周辺の建物を壊したのは俺だけじゃなくて……]
「何が違うんじゃ、日頃から間違いばかりしでかしおって。大体我々がここに来る途中、強力な火の魔術が使われるところを無数に見とるんじゃから、お前とモートが争っていたことは明白じゃ。観念せい」
[……思い出してみたら俺しか壊してないな]
「では決定じゃな。八雲、ワシはそいつらを連れて詰所に戻る。お前は広場に行って、先ほどのジョーカーの叫びの真偽を確かめてきてくれ。まったく城だけでなく街まで壊すようになりおって……」
[待てフェルナン、俺は関係ない……]
「事情は詰所で聞く」
モートの抗議を無視したフェルナンは周辺の被害を聞く隊員数名を残し、代わりに旧神二名を加え、聖テイレシア自警団の詰所に戻っていったのだった。