第86話 監視の目
[お前さんがこれほど形式立てた呼び出し方をするとは珍しいな。用が出来た時に、気が向いた時に、俺の前に現れて一方的に言い付けることが殆どだったくせによ]
日が暮れるまで外をうろついていたバアル=ゼブルは、城に戻るなり上位魔神の中でも抜けた力を持つ内の一体、アガレスからジョーカーが呼んでいるとの伝言を受け、謁見の間で待っていたその人物と顔を合わせていた。
[この前、フォルセールとの領境で起きた騒ぎは覚えているな?]
[ああ、いつもの馬鹿騒ぎだろ。天魔大戦って人間どもは呼んでるらしいが、俺たちにとっちゃ日常でしかねえのにな。で、やっぱミカエルのドアホウか?]
[判らん。その瞬間の現場を目撃した者がいない]
首を振るジョーカーを見て、バアル=ゼブルは呆れた口調でぼやく。
[やれやれ、こっちは既に手札を晒してるってのに、いつまでも晒してこない相手ってのは嫌だねぇ。殺しあいにルールなんてもんは存在しないが、マナーくらいは守って欲しいもんだぜ]
[マナーを要求する殺しあいも初めて聞くがな]
含み笑いをした後、ジョーカーはバアル=ゼブルにある推測を密やかに告げた。
[広場にいる旅芸人は天使の一味だ]
それを聞いたバアル=ゼブルは、しばらく目を丸くした後に細かく頷き始め、最後にジョーカーに重々しく返事をした。
[フッ……やはりお前もその結論に至ったか。俺も怪しいと睨んで周囲で張ってたんだが、奴らなかなか尻尾を出さなくてな]
[本当か?]
[バカヤロウ本当だよ何言ってんだよバカヤロウ]
[今日、お前が広場で芸を見て浮かれている姿が何件も報告された上に、昨日は八雲まで巻き込んだ騒動をアナトと起こしていたと聞いて不安になったのでな]
ジョーカーが冷たい口調で苦情を入れると、何かを誤魔化したいようにわめいていたバアル=ゼブルが急に冷静な態度へと切り替わる。
[ああ、そっちは誤解だ]
[そうか]
[俺が浮気をしたなどとアナトが喚き散らすから、きっちりと誤解をといただけだ。多少周囲に被害は出たかも知れんが]
そしてバアル=ゼブルの口から出た説明に、ジョーカーはなるべく冷静さを保ちつつ詳細を聞いた。
[騒動の原因となったのが誤解で、騒動が起きたのは誤解じゃなくて事実なわけだな?]
[まぁ、人によってはそうとも言うかもしれねえ……な]
[つまり誤魔化そうとしたわけだな?]
[それほどでもない]
ジョーカーはしばらく体をわなわなと震わせると、側に置いてあったエールを一気にあおって息を吐く。
[実はさっき言った旅芸人たちが天使の一味だというのは、あくまで推測の段階であって確証には至っていない。そこでお前は改めて明日から広場に詰めて奴らの様子を探ってくれ。領境の騒ぎの直後に旅芸人が来るなど、タイミングが良すぎる]
口の周りについた泡によって少々威厳が欠けるジョーカーの頼みを、何のことやら判らないといった風でバアル=ゼブルは了承の意を返したのだった。
夜は明けて次の日。
言い付け通り、バアル=ゼブルは早朝の内から広場へと向かう。
(やれやれ、昨日はマジでびびったぜ。ジョーカーの野郎、まさか俺にカマかけてきやがるとはな。あの調子じゃあ実際にアルバトールが旅芸人に扮して王都に潜入してると感付いてる訳じゃなさそうだが)
そこで一昨日の広場で経験した、アナトの身体の芯まで凍り付かせる恐怖を思い出してしまったバアル=ゼブルは、昨日のジョーカーとの会話はどうでも良いとばかりに頭の中から放り出して身震いをし、思わず周囲を見渡した。
早朝だからだろうか。
彼が歩いている通りにはまだ通行人が殆ど居らず、それどころか野良犬、野良猫の姿すら見かけない。
王都テイレシアが魔族に占領される前の華やかなりし頃には、住民の豊かさを反映するようにペットの姿も街のそこかしこで見うけられ、転じて野良犬、野良猫の姿もあったというのに。
[野良犬、野良猫を駆逐するような野良が街に居付いちまったようだな……そういや昨日、孤児院とか何とか話してた奴がいたっけか]
人の姿は見えないのに視線を感じる。
どこか亡者の町を感じさせる貧民街を通り抜け、やがて彼は広場へと到着した。
[いよう、リュファスとロザリーだっけか。アルド兄ちゃんはいるかい?]
二人と顔を合わせて間もないはずの彼は、広場で簡単な舞台の設営をしていたリュファスとロザリーに陽気に声をかけた後、指差された天幕の中に入っていく。
彼の身の上を左右する事件が起きたのは、まさにその瞬間だった。
「きゃああああああああ!?」
[ああ、わりぃわりぃ、間違えちまったかウェヘヘヘ]
リュファスが指差した天幕から、絹を引き裂くような女性の叫び声が発せられるのを聞いたロザリーが、リュファスの目の前で手の平をヒラヒラとさせる。
「リュファス寝ぼけてないです?」
「んん……起きてるぞ……」
ロザリーは溜息をつくとリュファスに頭突きをし、ぐったりとなった彼の首を掴んでエレーヌが着替えているはずの天幕へ歩いていった。
[で、こうなった訳か]
[俺に落ち度は無いはずなんだが、なぜかこうなった]
「こうなるのが当たり前だ。天幕を間違えただけならともかく、中に居る人物に故意に襲い掛かった時点で犯罪だ」
「と言う訳じゃ。この神気取りのバカに人間社会における一般常識について教育しておけジョーカー、八雲よ」
こうしてバアル=ゼブルの張り込み初日は、殆ど詰所に詰め込まれたまま完了した。
張り込み二日目。
[どうしてこうなった]
「貴方が昨日マジメに張り込みしてたらこうはならなかったんじゃないでしょうか」
半眼で見つめてくるアルバトールと話すバアル=ゼブルの横には、上機嫌となったアナトが寄り添っていた。
「申し訳ありません。私に隙があったばかりに噂に名高いアナト様までお呼び立てすることになってしまって……」
そしてアルバトールの後ろにはフードで顔を隠したエレーヌが、バアル=ゼブルとアナトから姿を隠すようにしがみついており、肩から上だけを出した彼女は恐る恐ると言ったようにアナトに謝罪をした。
[何、気にしなくても良いぞ娘よ。人が集まれば良くないことも起きやすい故に、私と兄上が警備に来るのは当然だ]
浮ついた表情と、浮かれた態度で返答するアナト。
それを見たアルバトールは、警備をするのは人間じゃなくて兄の身辺では、などと思いつつ、先ほどから自分の背中にすがりつく振りをしながら、その実アナトを睨みつけているエレーヌの握力に辟易する。
「それでは我々はこれにて、ごゆるりとお楽しみください」
アルバトールの言葉を聞くと同時にその場を離れ、芸を見てはしゃぐアナトと、観念したように隣で一緒に楽しみ始めるバアル=ゼブルを見送ったアルバトールが、占いの天幕へエレーヌを送り届けて広場の警護へと戻ろうとした瞬間。
「へ?」
天幕に潜む暗闇に彼は引きずり込まれる。
「……どうしたのだアルド」
「息ができるって……素晴らしいですね団長……」
しばらく後、天幕からふらふらと出てきたアルバトールを見てベルナールが声をかけるが、彼は乱れた衣服を直しながらロクな返答もできずに広場へ歩いていった。
張り込み三日目。
とうとうバアル=ゼブルは、一つの重要事項を思い出す。
(あ、やべえこいつらとの連絡方法を全然考えてなかったわ)
[おいアルド、お前らいつまでここに居られるんだ?]
「えーと、確か王都の観光をしてから出ると言ってましたので、四日後でしょうか」
[そうか、ところでお前たちに公演を頼む時はどうやるんだ?]
「直接交渉すればいいのでは。もしくは手紙で?」
[どこに出すんだよ!]
アルバトールは少々あせっているバアル=ゼブルに苦笑しつつ周囲の気配を探る。
「そうですね、私はしがない用心棒。文字の読み書きはできませんので、ちょっと団長に書いてもらってきましょう」
こうして意外とあっさり連絡方法の問題は決着を見たのだった。
その日の夜、バアル=ゼブルは暗号の製作で四苦八苦することとなるのだが、それが語られることは無い。
張り込み四日目。
討伐隊が芸を繰り広げる広場の片隅で、不思議な光景が繰り広げられるようになる。
[……お前らの所では、魔物も芸をするのか?]
バアル=ゼブルが指差した先では、力が殆ど感じられない下級魔物たちが広場の片隅でぎこちない芸を人々に披露しており、その意外な光景を見た彼はきょとんとした表情となっていた。
「いえ、それがジョーカー様からのお願いでして。魔族と人間の相互理解を深めたいとかなんとか」
眼の奥に警戒感の光を宿したベルナールの答えに、いよいよ首を傾げてバアル=ゼブルはその集団に近づく。
見た目が人間やエルフに近く、劣情を誘う外見のもの。
または愛玩動物のような愛嬌のある外見のものなど、彼が見てきた魔物とは一風変わった気配をその魔物たちは持っており、近づいてきた彼の力と姿に怯えつつも懸命に芸に打ち込んでいた。
(なるほど、こいつが元人間の魔物って奴か)
側に居るベルナールに気付かれぬように、彼は魔物たちが精神支配をかけられていないことを確かめると、ジョーカーの思惑を見定めるべく考えをめぐらす。
(やれやれ、どうせこれも種蒔きの一環なんだろうが、どうも好かねえな)
バアル=ゼブルは心の中で悪態をつくが、集団の端にいた毛玉のようにふわふわとした魔物を抱きかかえ、笑顔を彼に向けるアナトを見て、彼は頭を掻きながらまあこれも悪くねえか、と呟いた。
五日目。
その日は朝から城内が騒がしかったが、バアル=ゼブルは自分には関係ないとばかりに城下へ出かけていく。
彼が留守にしている間にも城内の動揺は収まらなかったが、遂に昼には何かの決定が下されたのか、急に静かとなって何人かの人影が王城から外へと出かけていく。
それは討伐隊への王都追放令だった。
[随分と急だな。アイツら何かしたのか?]
バアル=ゼブルは劇を楽しんでいる最中、いきなり広場に来て水を差したジョーカーに向かって事の詳細を問いただす。
[下級魔物たちが奴らの芸をある程度覚えたのでな、用済みと言う訳だ。情報は統制していたし、芸人の口封じをする必要は無いだろうから安心しろ]
[安心しろって、何だよそりゃ]
[毎日アナトと楽しくやっていたようだからな。これでも結構気を使ったのだぞ]
[余計なお世話だバカヤロウ]
何か心がざわつくのを感じながら、バアル=ゼブルはジョーカーに毒づいた。
[しかし用済みだからハイさようならって訳にもいかねえだろ。表向きの理由はどうするつもりだ?]
[それはこれから奴らに伝える]
こちらに駆け寄ってくる恰幅のいい中年と、金色の髪を持つ青年を迎えるやいなや、ジョーカーは有無を言わさぬ口調で一枚の紙を取り出し、彼らに処分を伝えた。
[フォルセール騎士団団長ベルナール、天使アルバトールの両者、及びそれに協力した一座の者たちを騒乱罪の疑いによって追放する。名を呼ばれた者たちは明日中に王都を出ること。以上だ]
その内容に、ジョーカーを除く全員が絶句した。
その日の夕方、驚くべき事実が明るみになった城の中は、部屋に閉じこもった一人を除いてちょっとした騒ぎとなっていた。
[しかし、お前さんどうやってアイツらがフォルセールの一味だと知ったんだ?]
[あいつらの辿った痕跡をしらみつぶしに探して調査し、後はハッタリだ。言うだけならタダだからな。お陰で随分と時間がかかったが、その成果はあったようだ]
[そのお陰でこっちは大迷惑だったぞ]
[すまんなモート、礼は弾もう]
広場でアルバトールたちに追放命令を下した後、ジョーカーとバアル=ゼブルは城に戻ってモートと合流していた。
謁見の間にある人影はいつもの通り五人。
しかしその内の二人は、いつもの顔ぶれとは違うものだった。
アナトは旅芸人の一座が王都から追放されてその芸が見られなくなること、またそれがジョーカーの仕業と知って、二重に不機嫌となって部屋に閉じこもっており。
またヤム=ナハルの方は、娘であるセファールが自警団の仕事が忙しく、今まで公演を見に行けなかったと言うことで、旅芸人が追放される前に見ておこうと共に広場に行っていた。
[しかし久しぶりだな二人とも。アバドンの野郎は見つかったのか?]
よって謁見の間には、その姿を見せぬ二人の代わりにペイモン、ベリアルの二体の最上位魔神が姿を現していた。
再会の挨拶を投げかけてきたバアル=ゼブルに二人はお手上げと言った仕草を見せ、それから興味深そうな顔で質問に答える。
[常にふら付き歩くお前がそんな質問をするとは思わなかったよ。とりあえずテイレシア内には居ないみたいだね]
女性の顔を持ちながら、その体つきは逞しい男性の物であるペイモンがうんざりとした顔になって答えると、天使と見まごうばかりの端整な顔を持つベリアルの方は笑顔となり、バアル=ゼブルに少しは改心したのかと聞いてくる。
[おいおい、俺はいつでも真面目に働いてるつもりなんだがな]
[真面目な奴は、そもそもそんなことを言わないものさ。さてジョーカー、我々を召還した理由は何だい?]
ジョーカーはベリアルの問いに即答しなかった。
しかしその姿は何かを考えている様子も、何かを迷っている様子でもなく、ただぼんやりとしているようにしか見えないものだった。
[……む、すまんな。まだ少し纏まっていなかったようだ]
[ああ、それじゃしょうがないね。じゃあ纏まったらアタシたちを呼んでくれるかい?]
最上位魔神の二人はなかなか答えが返って来なかったことに気を悪くする様子もなく、それどころか何もしていないはずのジョーカーが、何かに忙殺されているのだとばかりに接した後、その場を去ろうとする。
しかしジョーカーは、彼らが謁見の間から出ていく前に呼び止め一つの要請をした。
[ベリアル、ペイモン。奴らが王都を出て行った直後に包囲殲滅する。お前たちは魔物たちを連れて城外で待機しておいてくれ]
「……あん? 追放するんじゃなかったのか?」
その内容に少なからず動揺したバアル=ゼブルは、ジョーカーに何の為に彼らに追放処分を下したのかの疑問をぶつけた。
[今の奴らは敵地に乗り込んだ緊張感で満ちている。正体を知られた上で追放処分で済んだとなれば油断する。それだけだ]
[なるほどな、そんじゃ俺の役目は?]
ジョーカーは目に鋭い光を浮かべて答えた。
[モートと共に王都を去ろうとしている奴らの後背を突き、城外に追い出すことだ。せいぜい派手にやって奴らを慌てさせてくれ]
[わーったよ。やれやれ、短い付き合いだったな。そこまで悪い奴らじゃなかったんだがなぁ(特にエルフのねーちゃんとか)]
[悪い奴じゃないから向こう側にいるんだろう。悪い奴らならとっくにこちら側に来ているさ。諦めるんだねバアル=ゼブル]
ペイモンの指摘に舌を出し、バアル=ゼブルは謁見の間を出て行く。
そして明くる日、お互いにとっての長い一日が始まった。