第77話 好きつ梳かれつ
翌朝、枕元に人の気配を感じたアルバトールが瞼を開けると、目の前には邪悪な笑みがあった。
「随分とよくお休みでしたわね、天使アルバトール」
「お早うございますエルザ司祭。何の御用でしょう」
エルザの奇行に普段より慣れてしまっているアルバトールは、特に慌てることなく間近に迫った瞳を見つめ返して起床の挨拶をする。
「実は昨日、エルザ司祭と話し合ったのだが」
そこに思わぬ方向から声がかけられ、肝を冷やした彼が顔を横に向けると、天幕の入り口の向こうには木にもたれかかったベルナールが厳しい顔で腕を組んでいた。
身の回りの物事や人物に対して常に達観した視線を向け、昨日のように怒りを露わにした場合でもその視線の先にのみ集中することはなく、周囲の状況へも注意を向ける彼にしては、珍しいくらいにアルバトールに見入っている。
そのただならぬ様子に、何が起こったのかとアルバトールは寝起きの頭で思考を巡らしたのだが、その理由は最悪の形で彼の脳内に荒々しく踏み入ってくることとなる。
「実は君とエレーヌが昨晩、見回りの途中でふしだらな行為をしていたと、とある女性から報告が入ってな」
それを聞いたアルバトールの目はたちまちの内に濁り、彼がぎこちない動きで首を横に振ると、その先には予想通りの顔があった。
「……とある女性の名前を隠す必要がまるで無いような」
「とある淑女としては、破廉恥な行為を目にしたことが周囲に露見すると、純潔性が損なわれてしまうかもしれませんもの。大体あの二人を差し置いて、先にエレーヌ様と口付けを交わすとはどういうことですの?」
「……言ってることは確かに間違ってないんですけど、言ってる人の素行が……あ、いやその、団長! なんだか状況がおかしくありませんか!?」
アルバトールは半目になってエルザを見つめた後、急に慌てて脇に居るベルナールに事の仔細を聞くが、それはエルザの周到さが印象に残るものでしかなかった。
「わざわざ巡回の順番を代わってもらったとか、罠に嵌める気満々じゃないですか」
「それだけ男女の仲と言うものは重要なのですわ。下手につつくと和も不和も容易くもたらす、恐ろしい行為です」
「藪をつつく手間を告解に充てた方がよほど聖職者に相応しいと思います」
「それで素直に白状するような性根の持ち主なら、事あるごとに私を何度も詰所に連行するものですか」
「明らかに自業自得ですな」
ベルナールの冷めた一言で会話はしめくくられ、エルザの説明を聞いたアルバトールは溜め息をつき、昨晩のことをベルナールに白状する。
彼が詳細に記憶しているのはそこまでである。
なぜならアルバトールが昨日の一幕の舞台裏を聞いた――と言うより正気に戻って理解できたのは――
「あ、エレーヌ殿。申し訳ありませんすべて喋って……すっすすす、すいませんっ!?」
ベルナールが連れてきたエレーヌに、何でよりによって"あの"二人に話したのだと怒られたこと。
ベルナールとエルザが、発情期が終わる条件を出立前にエステルに聞いていたこと。
エレーヌを元に戻す為にエルザが巡回に出る順番を代わったこと、こっそりと二人の様子を見張っていたことなどなど。
彼が四方八方から、代わる代わるヒステリックな言葉のシャワーを浴びせられる地獄の責め苦が終わった後のことになるからであった。
「もう! もう! もう!! はっきり言わなかった私も悪いが……悪いですが!」
「すいません」
「そもそもアデライード、アリアの二人に私たちが関係したと知られても問題が無いことは、少し考えれば判るでしょう! 対して団長や、特に司祭様に昨晩の事が発覚すれば公私に渡って重大な障害が発生し、その解決に尋常ではない手間暇がかかることも!」
「申し訳ありません」
内心泣き出したい思いを堪えつつ、アルバトールはエレーヌに謝罪をし、関係って何の関係ですかと言いたい気持ちをぐっと抑える。
しかし怒りを収めてもらおうと先ほどから彼が謝罪している女性は、なぜか周囲の目には上機嫌に見え、更に何かを吹っ切ったような晴れやかな表情をしていた。
(発情期が終わったから……だけではないような?)
アルバトールは、昨晩に感じた言い様の無い不安を思い出し、その身を震わせる。
「何かいいことでもあったのですか? エレーヌ殿」
「んふふん」
そして意味が通らない呟きだけを彼の耳に残すと、エレーヌは浮付いた足取りで馬車へ乗り込んでいった。
後に残されたアルバトールの耳の産毛のあたりには、彼女が発した囁きがいつまでも残り、彼は得体の知れない不安が恐怖へと変わる契機となったそのむず痒い感触を、耳を掻いて消そうとしたのだった。
「あらあら、あれくらいですっかりご機嫌になってしまうとは。数百年生きているエルフがまるで子供のようですわ」
「女心と秋の空、とは良く言ったものですな」
ベルナールは呟くと、隣で微笑んでいる女性へ視線を向ける。
「司祭様も何やら安心した様子に見えますが? まぁ女性は恋をすることで、いつでも乙女に戻れると言うことでしょうな」
「……別に安心などしておりませんわ。まぁ乙女という表現には同意いたしますが」
エルザはベルナールの言葉に頷くと、馬車に乗り込むエレーヌと先ほど交わした会話を思い出し、若干呆れた様子の笑みを浮かべる。
(どうやらアルバトールは、アデライード姫やアリアより先に貴女と口付けを交わしたようですわね)
そう告げた時のエレーヌの顔は、まさに恋する乙女であった。
(それにしても面倒だからと言って、修行の時に神気を鼻からではなく口から注いだのは失敗でしたわね……いえ、別にエレーヌ様に言わなければそれで済むのですが)
アルバトールが初めて天使の羽根を出して気絶した時、時間が惜しいと思ったエルザは狭い鼻を避けて口から神気を吹き込んだのだが、どうやらあれがアルバトールにとっての最初の口付けだったと知って、切り札としておくべきだったかと後悔をしていた。
(ま、反省したしこれで問題無しですわね)
口付けによって、エレーヌがアデライードとアリアに対して精神的に優位な立場に立ってしまった、という新たな問題を自分で発生させてしまったことに気付かず、エルザはエレーヌの乗り込んだ馬車へと向かった。
しばらく後、彼らは領境につく。
「では、適度にストレス解消の破壊活動……ではなかった、陽動を行った後に退却をお願いしますぞ、エルザ司祭」
そして周囲とエルザの顔色を警戒しながら、最初の難関である越境をするべく準備を進め始める。
「なるべく努力いたしますわ、ベルナール様」
「あまり強力な魔物に手出しをすると、そのままなし崩しに双方の出陣を招きかねないので、その場合は待機でお願いします」
「なるべく努力いたしますわ、ベルナール様」
だが張り付いた笑顔で、オルゴールのように同じ音程で同じ返事を繰り返すエルザを見て、しばしアルバトールは考え込んだ後に心配そうな表情をベルナールへ向けた。
「……団長。被害を防ごうとするよりも、被害の原因を遠ざける方向で対処方法を考えた方が得策かと思われますが」
「遠ざける方も考えてはいるが、出る被害を少なくする方も重要だぞアルバトールよ。自分たちが放った火に巻き込まれて死ぬのは御免だからな」
「なるべく努力いたしますわ、ベルナール様」
「……」
やはりエルザではなくラファエラに陽動を頼むべきだったか。
フォルセールを包む結界を、エルザとラファエラで交代で発生させる案が決定されてから、熟練してもらうことを目的に今はラファエラが結界を張っている。
出発前、ベルナールにエルザの助力を取りやめるように進言し、ラファエラを強硬に推挙すべきだったと後悔しながら、アルバトールはエルザが去った後にレナやロザリーたちと協力し、全員を飛行術で運ぶ準備を進めた。
「だんちょー! もうそろそろ時間だよー!」
リュファスが魔物が巡回する時間が近いことを告げ、その声に従って彼らは手筈通りに行動を開始した。
程なくして遠くで爆音と煙が上がり、それと同時に飛行術は完成して。
馬車諸共に彼らは領境を吹っ飛ばされて行った。
「何だこの爆風は!? 状況はどうなっているアルバトール!」
「いつも通りです団長!」
「ならば良し!」
アルバトールはエルザが向かっていった方向で、上位魔神に相当するほどの気配が数体同時に消えたのを確認し、ベルナールに報告する。
おそらく強力な魔物に手を出すなと言われたエルザが、証拠隠滅まですればいいと"いつも通り"に短慮し、まとめて消滅させてしまったのだろう。
彼らが進んできた後背に出現した、煮えたぎる地獄の釜のように溶解した巨大な穴を見て、消え去った森とそこに居たであろう数々の生命のことを考えたアルバトールは溜め息をつき、背後に幻影を作って他の者の目から隠した。
≪高くつきますよ、エルザ司祭≫
≪きちんと魔族以外を転移させてから滅しましたから問題ありませんわ。天使アルバトール、良い旅を≫
≪良い休暇を≫
敵を探索する魔術、紐のような気配が遠くで発生し、エルザが逃走した方向へ数多く流れていく。
それが自分たちの方へも流れてくるのを感じたアルバトールは、上空に意識を飛ばして安全な方角を探し出し、馬車の御者たちへ向かうべき進路の指示を出していく。
数十分後、彼らは無事に領境を越えることに成功していた。
それからは不気味なほどに魔物の気配は感じられず、それでも彼らは人に紛れやすい大き目の町を選びながら王都へ向かい、二日ほど後に王都テイレシアへ到着する。
「何と言うことだ……白壁壮麗、アルメトラ大陸中の者たちが生涯に一度は見てみたい建物とまで謳われたテイレシア城が……」
だが王都に入った彼らは、聖テイレシア王国の象徴であるテイレシア城が元の面影を留めないほど禍々しく変わり果てた姿を目にし、烈火の如き激しい憤りを覚える。
あるものは拳を握り、あるものは歯を食いしばり、怒りの表し方は人それぞれであったが、その胸の中に宿る感情は一つであった。
「あのような姿に形を変えてしまうとは、どんな邪悪な目的があるのだ魔族どもめ」
遠目に見れば、まるで黒い巨大な蜘蛛が城を覆い隠したように見え、節くれだち、曲がりくねり、所々には目、あるいは口のような穴を開けている。
見る人々の不安を掻き立てる外観になってしまった城を睨みつけた後、彼らは荷物や馬車を置きに、各々分散してそれぞれの宿へと向かっていった。
その頃王都テイレシア自警団の詰所では。
「今の方が汚れが目立たなくていいと思ったとはどういう言い訳じゃ!」
既に御近所の間では馴染み深い物となってしまったフェルナンの怒鳴り声が響き渡っており、その隣の部屋では休憩時間である八雲が、同じく休憩中のセファールの長い白髪を櫛で梳いていた。
「それにしても本当に長い髪だな。その割りに手入れが行き届いて指触りも良く、枝毛も無い……のに纏まらないのはどういうわけか不思議だ」
その八雲の独り言を聞いたセファールは、猫のように目の虹彩が大きいくるくるとした黄色い瞳を八雲へ向ける。
「こら動くな……やれやれ、また梳きなおしだ」
「申し訳ありません、ちょっとフェルナン様の怒鳴り声が気になったもので。本当に私たち抜きでジョーカー様やバアル=ゼブル様と話し合っても大丈夫なのでしょうか」
「あれは話し合いと言うより団長が一方的に叱りつけているだけだと思うが。我々が気にするだけ無駄だろう……だから動くなと」
「ごめんなさい。何だかこうしていると、私たちが街中で見かける人間の夫婦のように思えてつい嬉しくなって」
セファールは舌を出して笑うと、顔をまた前へ向けた。
彼女がいつも耳の辺りでリボンで留めてお下げにしている髪はすべてとかれ、背中へと移動して八雲がそれを持っている。
八雲の手の内で甲斐甲斐しく動く櫛は、黒塗りの所々に金の装飾が為されてよほど高価な物とも思われたが、そのような高価な、しかも女性が使う櫛をなぜ傭兵である彼が所持しているかは不明であった。
「よし、と。後はこの簪を使って……」
八雲はセファールの髪をまとめて持ち上げて巻き上げ、そこに一本の簪を挿す。
「これで完成だな」
セファールは鏡を見ながら色々と動いて八雲に整えてもらった髪型を見ると、じっと鏡の中を覗きこむように見つめ、また頬を緩めてしまう。
「気に入ってもらえたようで何よりだ。そうだな、良ければこの櫛をお前にやろう」
「よいのですか? 見たところ、かなり高価な物に……」
「嫌か?」
「いえ、使わせていただきます!」
八雲から受け取り、手の中に納まった櫛を見つめると即座にセファールは後ろを向き、胸に櫛をそっと抱きしめてにやけ出す。
(……鏡で丸見えなのだが)
八雲は鏡に映ったセファールの顔と、長く艶やかな髪を見て、昔を思い出す。
(今はテイレシア自警団の八雲、か……守るべき場所、守るべき人。今度は守ろうとする努力が実るといいのだが)
彼は腰の剣に手を伸ばし、その柄を握り締めて目の前で嬉しそうにステップを踏むセファールを見つめ、そして隣から再び響いてきた怒声に苦笑すると、八雲が召喚魔術で作り出した簪――神刺し――をつけたセファールに目を戻し。
「団長、そのくらいにしておいた方が良いのではないか? また卒倒しても知らんぞ」
休憩時間の終わりを告げる鐘を未練がましく聞いた後、部屋の扉を開けたのだった。