第72話 新たな位階
彼は異変には慣れていた。
しかし異形には慣れていなかった。
だから目の前に置かれた料理に、素材の原型が認められないこと。
及び未知である合成品の味に関しては気にしていなかった。
(どうせ聖別によって味は変わるのだ)
だが生きているタコのように千変万化にその形と色を変えていく、目で楽しむといった以前の段階にあるその料理をどのように評価するべきか、彼には判らなかったのだ。
「ベルトラム、なかなかこう……今日のディナーは……そう、かなり前衛的な芸術品っぽく見えるんだけど、良かったら何の料理なのか教えてくれないかな」
「この料理はアデライード様手ずからお作りになられた、聖別済みの鹿肉の煮込みでございます」
一礼をして答えるベルトラムの告げた内容に、アルバトールは自分の耳を疑った。
「へ、へー……聖別も済ませてあるんだ……流石アデライード姫。食べる者の体質も考えて調理されるとは、何という細やかな心遣い」
「御意」
「念のために聞くけど、これ生きてないよね?」
ナイフでつついた箇所が紅色に変色していく姿を見たアルバトールは、嫌そうな顔をして手を引っ込める。
「むしろ調理場でク……いえ、何でもございませぬ」
「何かがあったようにしか受け取れないんだけど」
「それではアルバ様、デザートの製作を手伝うようにアデライード様に言われておりますので、少々失礼致します」
「あ、ちょっと! 食事の後は教会に行くからせめて意識が保てるようなものを……」
二十分ほど後。
デザートを乗せた皿を携えたベルトラムが広間に戻ると、そこには犠牲となったアルバトールがいた。
「あらあら、随分と艶やかな顔色をされておいでですわね。私も随分と長く人と交わった生を送ってきましたが、まるでスライムのような瑞々しさを持つ肌になった方は初めて見ましたわ」
「今日は特別な日と言うことで、特別な料理をアデライード姫に作っていただきまして……食した後はなにやら人としてのみならず、天使としても一段階上に昇天した気が致しました」
「あらあら、そのうち私もご相伴に与りたいものですわ」
「是非に」
昏い笑みを浮かべたところを見られないように頭を下げ、アルバトールはエルザに晩餐会への招待を取り付けた後に今晩の用件を聞く。
「大体の見当はついていると思いますが、今晩お呼びだてした用件は貴方の位階についてです」
「なるほど」
「それに加えて昼に私が少し見た感じでは、いくら貴方が数多の強敵に勝利を収めたといっても、それだけでは説明がつかぬほどの経験と力が貴方に宿っておりましたので、それについての詳細も伺いたいのですが」
いきなり頬に伸ばされたエルザの指の感触にドキリとするアルバトール。
その動揺を誤魔化すかのように、彼の後ろから野太い声が発せられる。
「それについては私が説明してやろう。しかしお前が我が主と同じ城に住んでいるとは思わなかったぞミカエル」
「エルザと呼びなさいバヤール。貴女が森の中に長く隠遁している間に、こちらは色々とあったのです」
顔見知りと思える挨拶をした後、バヤールは手短にアルバトールとジョーカーの戦闘の説明をする。
最初は穏やかなものだったエルザの表情は、炎の森の術を使ったあたりで眉を寄せたものとなり、メタトロンが顕現した時点で、一気に厳しい物へと変化を遂げる。
「二人ともここで待っていてください。ベルトラムとラファエラの力が必要……いえ、もしかしたらガブリエルを呼び戻すことも必要かもしれません」
エルザはそう言い残すと、アルバトールに質問をさせる時間も与えずに足早に部屋を出ていく。
後に残されたアルバトールは不安げにバヤールを見るが、彼女は岩のような表情を変えず、ただそこに立っているだけであった。
しばらく経った後、エルザはラファエラを伴って再び部屋の中に戻ってくる。
その表情を厳しいままに。
「とりあえずの処置です。先ほどベルトラムへ念話を送ってこちらに来るように告げましたので、到着したら彼に結界を張ってもらい、その後に貴方が今回の旅で培った経験に基づいた位階に任じ、新しい器を以って存在を安定させます」
「はい」
「しかる後に貴方の奥底に宿るメタトロンの状態を三人で探らせていただきますわね」
慎重に過ぎる。
その一言に尽きるエルザの物言いにアルバトールは唾を呑み、少し迷った後に彼はメタトロンについてエルザに尋ねた。
「メタトロンは元々今より遥か昔に主の言葉を受け取り、人々を導く役を担った人間の一人でした。そして彼はその功績と類稀なる高潔な魂により、神気を自在に操ることの出来る強大な天使への転生を命ぜられ、生まれ変わったのです」
「元は人間だったのですか」
「しかし高潔すぎる魂を持ったまま天使へ転じたゆえに、彼は元々仲間であった人間にもその高潔さを求めました。その末に彼は人間に失望し、堕落しきった一部の人間を串刺しとして見せしめとした後に、嘆きのあまりその身を何処へかと隠しました」
「神気を自在に操る……それは既に天使ではなく、神なのでは」
アルバトールの呻くような声にエルザは頷き、横に立つラファエラが帽子を取りながら答えた。
「その強大さゆえに、彼は主と同一視されることも度々ありました。失踪したのはその畏れ多い評価から逃げるためとも言われております。アルバトール様」
場は静まり返る。
その中で燭台に刺された蝋燭の炎のみが空気を揺らし、かろうじて時が進んでいることを教えるようにその光量を変えていく。
「このような刻限に何用でございますか、司祭様」
ベルトラムが来たのは、蝋燭がその長さを半分ほどに縮めた後のことであった。
「あらあら、随分と時間がかかりましたわね、ベルトラム。いえ、昔の記憶と力を取り戻した今となっては、地のウリエルと呼んだ方がいいかもしれ……あ、あら?」
ベルトラムの本性、本体とも言えるウリエル。
その力と記憶を取り戻した、いわば久々の再会を懐かしむエルザを無視し、ベルトラムはバヤールへ現在の状況を熱心に根掘り葉掘り聞こうとする。
「ベルトラム?」
「何でしょう、司祭様」
そのベルトラムの奇行に対してエルザは眉をしかめ、怪訝な表情を浮かべた。
「いえ……あら? 貴方、ピサールの毒槍はどちらへ?」
「こちらに」
言うと同時にベルトラムの髪の一本が抜け落ち、一瞬にしてそれは緋色の光を放つ一本の槍と化して彼の手の中に顕現する。
「ちょっと槍をこちらに……あらあら……全くあの悪戯者たちは……」
すぐにエルザの額にちょっぴり浮いた青筋を見て、全員が後ずさった。
「済みましたわ。何やら手が加えられていた跡がありましたので、力の流れを元に戻させていただきました。ベルトラム、しっかり槍を握って……そうそう、それでは」
「それでは?」
眉根を寄せたベルトラムに、エルザはニコリと笑いかける。
「てぃっ!」
ベルトラムの両手を槍に握らせて、防御が出来ない姿勢になったのを見計らうと、エルザは掛け声と共にベルトラムの脳天に手刀を落とし、彼を気絶させる。
「ふぅ、これで目を覚ました時には妙な行動も取らないようになっているでしょう」
「……司祭様?」
「何ですかラファエラ」
あまりの成り行きに唖然として動けないアルバトールを余所に、ラファエラが何かを堪えかねた様子でエルザに詰め寄る。
「ベルトラムを気絶させてどうするのですかッ! アルバトール様の新しい位階への任命はどうなされるおつもりですか!?」
はたと手を打ったエルザはとりあえずアルバトールも気絶させ、魂の眠りをラファエラと二人がかりで強制的にかけた後に城へ使いを出し、二人を教会へ泊まらせることを了承させてその日の夜は明けた。
翌朝。
「お早いお目覚めですわね、天使アルバトール。教会の粗末なベッドでお休みさせてしまい、申し訳ありませんわ」
「アルバ様、今朝の朝食はここの農場でとれたばかりの新鮮な卵を使ったスクランブルエッグと、ロメインレタスを使ったサラダとソーセージ、パンでございます」
「ここに来た頃はあんなに小さかったクレイもすくすくと育っております。これもアルバトール様に見つけていただいたお陰です」
「……おはようございます」
妙に気を使った言葉遣いをする三人の大天使たちに次々と言葉をかけられ、何故か軽い頭痛を覚えながらアルバトールは目を覚ましていた。
「……そろそろ計画的に物事を進められては如何でしょうエルザ司祭」
朝食のパンをかじりながら、半目でアルバトールは苦情を申し立てる。
「目に見える事象だけを見れば無計画に見えるかもしれませんが、実はその裏で綿密な計算に裏付けされた周到な計画が進んでいるのですわ」
エルザが薄っぺらいレースのような威厳をその顔にかぶせて答えると、アルバトールは頭を抱えて激しくかきむしり、それを見たラファエラがエルザを咎めるように睨む。
「丁度いいですわ。天使アルバトール、今日は日曜ですし久しぶりにミサに参加して行きなさい」
「無計画に私を気絶させたら次の日がミサで自分の手が離せなかったので私の位階任命は後回しと言うことですね判ります」
「てぃっ」
次にアルバトールが目を覚ましたのは、日が中天を回った頃であった。
「頭痛が……吐き気も……」
「あらあら、これは早く位階の任命をしなければ手遅れになるかもしれませんわね」
メタトロンが本当に自分の中にいるのであれば、この自称天使を束ねる立場の自称ミカエルに天罰を下してくれないだろうかと思いつつ、アルバトールは聖霊の霊気を針の如く細く鍛え上げ、自分の体の奥深くに刺し込んで治癒を行う。
(随分と法術による治癒も慣れてきた気がするな……)
楽になってきた体を軽く動かしてほぐし、様子を見てからアルバトールはエルザの言葉に耳を傾ける。
「位階の情報はアーカイブ術によって既に送り込んでおりますので、後は貴方の意志で新しい天使の位階、座天使を受け入れるだけです」
エルザに提示された位階の名を聞き、アルバトールは驚く。
座天使は父、子、聖霊の三つに区分される天軍九隊のうち、最上位である父の位階に属する天使である。
つまり彼は子の位階を全て通り越し、聖霊の位階に属する大天使から、いきなり父の位階に属する座天使につくこととなるのだから驚くのも無理は無かった。
「座天使の御座、承知しました」
確かに驚愕する事実を伝えられはしたが、詳細を聞くのは座天使になってからでも遅くない。
そう考えた彼が了承の意を伝えた途端、アルバトールの視界は再び闇に包まれた。
「……体中が痛いな」
部屋の中に差し込んでくる眩しい朝日の光と、小鳥の歌声が爽やかな朝の到来を告げてくる中で、アルバトールは体の芯が軋んでいるような痛みを感じつつ目覚める。
目にかかってくる髪を見た彼は、そろそろ髪を切る時期かな、いや、ベルナール団長のように髪を伸ばすのもいいかもしれない。
そんなことを思いながら上体を起こし、傍らの気配に目をやった。
「お早うございますアルバ様。新しいお召し物をお持ちしました」
「ありがとうベルトラム。いつの間に僕を城へ?」
「アルバ様が座天使の任を受け入れた次の日でございます」
そこまで聞くとアルバトールは視線を落とし、寝台の脇にある台の上に置かれた服を見て違和感を感じる。
「次の日、か……と言うことは僕は何日間か寝ていたのかい? それとこの服は新しいようだけど、誰かからの贈り物?」
「二日ほどお眠りになられておりました。服の方は司祭様からの座天使就任のお祝いでございます。とりあえずこれを着ておいて下さい、とのことでした」
「とりあえず? そう言えば……妙に大きいような……」
違和感は服だけではない。
アルバトールが目を覚ましてから、ベルトラムはずっと顔を伏せたままである。
そのいつもの仕草にいつものベルトラムとは違う違和感を覚えつつ、アルバトールは新しい服の袖に腕を通し、ズボンを履く。
「……あれ? 何でピッタリなんだ?」
その感想に、ベルトラムは黙って鏡を差し出す。
「ヒゲ」
「……ヒゲでございますな」
「誰この人」
「鏡が歪んでいるのでなければ、アルバ様御本人かと」
いつの間にか顔を上げたベルトラムの頭頂部を見れるようになった自分に気付き、アルバトールは恐慌状態に陥る。
慌てる彼の顔は、今まで生えたことの無いヒゲが大量に生えて年相応に精悍なものとなっており、その身長は頭一つ分ほど成長していたのだった。
「お早うございますアルバトール様。ウチの司祭様はドワーフたちの所へ視察に……」
「目の前の貴女様以外に、フォルセール教会の司祭が居るとは聞いたことがありませんが? 帽子とメガネだけで変装できるとお思いですか! 今日は僕の体の変化を説明してくれるまで帰りませんからね!」
顔中に切り傷を作り、額には青あざが出来、腕に何の汚れか判らない模様をつけたアルバトールが教会に来たのは昼前であった。
彼の姿を見たエルザは必死に歯を食いしばり、何かを堪えるようにしていたが、やがて波を乗り越えることに成功したのか、恐る恐る説明を始めていく。
「ええと……貴方が小さい頃に、私が天使の角笛を用いる為の下地の術をかけたと言うのは覚えていらっしゃいますわね?」
「まぁ……」
「その概要は、貴方の体から生命、意思、融合、存在の四元素の一部をそれぞれ吸い取り、生命活動を緩やかな速度に落として安定させ、吸い取った生命の四元素の代わりに若干の神気を注入し、あらかじめ貴方の体に神気を馴染ませておくというものです」
「生命の四元素を……吸い取る?」
「貴方を父の位階に属する座天使に任ずるには、今の肉体を新しい器へと転じておく必要がありましたので、その準備としてすべての生命の四元素を貴方に戻しましたから、貴方がいきなり成長したのはその反動かと……どうしたのです? 慌てた顔をして」
下地の術の概要を聞いたアルバトールは、吸血鬼転生の術との酷似性に気付いて愕然とし、ジョーカーがノエルに施した吸血鬼への転生方法の説明をエルザにする。
「あらあら、随分と興味深い話ですわね。何にせよ、貴方が目を覚ましたのであればもう一つの問題の解決に着手しなければなりませんわね」
「もう一つの問題?」
「二日もお目覚めにならなかったのは予定外でしたが、好都合でもありましたわ。ガブリエルの帰りを待つ間、色々とこちらで整えるべき準備もありましたからね」
エルザは机の引き出しから数々の宝石を取り出し、それに目を落とした後にアルバトールに告げた。
「天使メタトロンを一時的に眠らせます」
予想はある程度していたとは言え、そのエルザの宣言は少なからずの動揺をアルバトールに生むこととなったのだった。