世界征服をやめたい魔王が、結婚相談所へやって来ました
王都結婚相談所《青い鳥》には、どんな方でもご相談いただけます。
初婚、再婚、年の差、身分差、種族差。
秘密厳守。成婚後の生活相談も承ります。
ただし、世界を滅ぼしかねない方は、事前にその旨を申告してください。
これは後日、主任相談員セレナ・ウェルナーが利用規約へ書き足した一文である。
その日、相談所の扉が開いた瞬間、待合室にいた客は全員逃げた。
窓から逃げようとした子爵令息がカーテンに絡まり、椅子の下に隠れた伯爵令嬢が椅子ごと運び出され、受付係のマルタは悲鳴を上げる代わりに気絶した。
扉の向こうに立っていたのは、一目で人間ではないと分かる男だった。
頭には二本の黒い角。長い黒髪。金色の瞳。仕立てのよい黒衣の上には、夜そのものを織ったような外套。
何より、その頭上に浮かぶ王冠から、床板が軋むほどの魔力が放たれている。
セレナは逃げ遅れた。
正確には、受付台の金庫を閉め、顧客名簿を鍵付きの引き出しへ入れ、気絶したマルタを足で机の下へ押し込んでいたため、逃げる時間を失った。
男は受付台の前まで来た。
「ここは、婚姻を望む者へ相手を紹介する場所で間違いないか」
「はい。王都結婚相談所《青い鳥》でございます」
「では、私に婚約者を紹介してほしい」
セレナは受付台の下にある警報紐へ手を伸ばした。
魔王が片手を上げる。
「待て。今日は世界を滅ぼしに来たのではない」
「今日は」
「言葉の綾だ」
「ご予約はされていますか?」
金色の目が、わずかに見開かれた。
「魔王に予約が必要なのか」
「ほかのお客様にもお待ちいただいておりますので」
セレナが受付票を差し出すと、魔王は空になった待合室を振り返った。
「待っている者は一人もいないようだが」
「皆様、急用を思い出されたようです」
窓の外を、先ほどの子爵令息が全力で走り抜けていった。
「そうか」
魔王は納得し、番号札を取った。
「四十二番か」
「お呼びしますので、お掛けになってお待ちください」
魔王が長椅子へ座る。
重圧で長椅子が沈んだ。
セレナは番号表示を確認した。現在の受付番号は四十一番。四十一番の伯爵令嬢は椅子ごと運び出されたので、待ち時間はない。
「四十二番のお客様」
「私だ」
「面談室へどうぞ」
魔王は立ち上がった。
「早かったな。この相談所は仕事が速い」
「恐縮です」
褒められている気はしなかった。
◇
魔王の名はヴァルハルト。
八百七十二歳。男性。初婚。
職業欄には「魔王」と書いた。
年収欄で手が止まった。
「魔族領全土の税収でよいか」
「個人で自由に使える範囲をお願いいたします」
「では、北方金山三つと竜の国からの朝貢品、それに人間界から奪った」
「犯罪収益は除外してください」
「分かった。では北方金山三つだ」
セレナは年収欄へ「十分」と書いた。
「休日の過ごし方は?」
「国境線の確認。陳情書の処理。処刑命令の却下。庭の薬草の世話」
「休日とは」
「政務が半日で終わる日のことだろう」
「違います」
「そうなのか」
魔王ヴァルハルトは、王都へ攻め入れば一夜で王城を落とせる存在である。
しかし婚活面談票を前にすると、叱られた大型犬のようにおとなしかった。
「結婚相手へ希望される条件をお聞きします。まず容姿は?」
「健康であればよい」
「年齢は?」
「私より年下」
「ほぼすべての女性が対象になりますね」
「そうなる」
「種族は?」
「問わない」
「性格は?」
「私を恐れず、嘘をつかず、必要なら私に反対できる者」
セレナのペンが止まった。
「従順な方ではなく?」
「従順では困る」
「なぜです?」
「世界征服を許可されてしまう」
面談室の外で、何かが倒れる音がした。
おそらく意識を取り戻して盗み聞きしていたマルタが、もう一度気絶したのだろう。
「恐れ入りますが、最初からご説明いただけますか」
ヴァルハルトは王冠へ触れた。
「これは初代魔王から継承された王権具だ。魔族領を拡大し、人間界への侵攻を続けるよう、歴代魔王へ命じる」
「外せないのですか?」
「入浴時にもついてくる」
「寝るときも?」
「枕へ角と王冠の分の穴を空けている」
「大変ですね」
「分かってくれるか」
魔王の顔に、この日初めて人間らしい疲労が浮かんだ。
「侵攻を長く止めると、王冠が私の理性を奪う。最近は朝起きるたびに『人間の王都を焼け』と命じられる」
「こちらの王都を?」
「ああ」
「朝から迷惑ですね」
「私もそう思う」
「では、なぜ結婚を?」
「魔王が正式な伴侶を得た場合、王権は二人で共有される。大規模な命令には伴侶の承認が必要となる」
セレナは理解した。
「つまり、陛下が世界征服を命じるたび、奥様に却下してほしいと」
「そうだ」
「ずいぶん変わった結婚目的ですね」
「代理に探させたところ、三十六人の生贄が送られてきた」
「それは紹介ではありません」
「私もそう思う。全員、帰した」
「帰れました?」
「転移門で各実家へ送った。ただし三人ほど、実家へ戻りたくないと言うので城で雇った」
「職種は?」
「一人は会計官、一人は料理人、一人は近衛兵だ」
三人とも生贄より大幅な待遇改善である。
「事情は分かりました。ただし、誰でもよいというお考えでしたら、結婚はおすすめできません」
「時間がない」
「時間がなくてもです。相手は王冠を止めるための道具ではありません」
魔王の王冠が不穏に赤く光った。
《人間による侮辱を確認。王都への威嚇攻撃を提案》
低い声が面談室へ響いた。
セレナは王冠を見上げる。
「却下します」
《提案を棄却》
赤い光が消えた。
二人はしばらく王冠を見つめた。
「今、あなたの命令を聞かなかったか?」
「偶然でしょう」
「王冠は私の命令さえ時々無視する」
「日頃の信頼関係に問題があるのでは?」
「王冠との信頼関係を改善した方がよいのか」
「結婚相手を探す前に、そちらも検討事項へ入れておきます」
セレナは面談票へ書き足した。
希望条件。
一、魔王を恐れない。
二、嘘をつかない。
三、世界征服へ反対できる。
四、王冠の支配へ抵抗できる魔力を持つ。
五、魔族領で長く生きられる。
六、王冠と魔王の仲裁ができる。
最後の条件を満たす女性がいるかは、かなり怪しかった。
◇
最初の候補者は、女騎士アデリナだった。
王国最強の剣士の一人で、魔王討伐隊の副隊長。魔王を恐れないどころか、彼を倒す日のために毎朝剣を振っている。
紹介状を読んだアデリナは即答した。
「面白い。会おう」
面談当日、彼女は愛剣を机へ置いた。
「結婚前に一つ確認したい」
「何だ」
「私が貴殿を倒した場合、魔王位は私のものになるのか?」
「正式な決闘であれば継承可能だ」
「では、結婚するより倒した方が早い」
アデリナが剣の柄へ手を置いた。
ヴァルハルトも姿勢を正す。
「場所を変えるか」
「表へ出ろ」
「お待ちください」
セレナは二人の間へ面談票を立てた。
「本日は決闘の仲介ではなく、お見合いです」
アデリナが不満そうに手を離す。
「では、質問を変えよう。結婚後も毎日決闘はできるか?」
「政務に支障がない範囲なら」
「週五日」
「多い」
「なら週四日」
「人間界への侵攻を止めるという目的を忘れていませんか?」
セレナが確認すると、アデリナは胸を張った。
「私は和平を望んでいない。魔王にはもっと本気で攻めてきてほしい。最近の魔王軍は国境で隊列を組み、夕方になると帰る。遠足ではないか」
「兵士にも夕食の時間がある」
「戦場で食べろ」
「温かいものを食べさせたい」
ヴァルハルトが初めて少し引いていた。
面談後、アデリナは肩を落とした。
「残念だ。顔は好みだった」
「私も、あなたの剣筋には興味がある」
「では今度、結婚抜きで戦おう」
「承知した」
交際は不成立だったが、決闘の約束だけは成立した。
セレナは面談記録へ書いた。
不成立理由。余暇の過ごし方が合わない。
◇
二人目は、聖女エレシア。
慈悲深く、長命の祝福を受け、魔族との和平を説いている。王冠の魔力へも対抗できるため、条件上は最有力だった。
エレシアはヴァルハルトの手を取り、優しく微笑んだ。
「あなたの心にある闇も、私がすべて受け入れます」
「闇はあるが、受け入れるより除去方法を調べてほしい」
「まあ。強がらなくてもよいのですよ」
「強がってはいない。王冠の呪いは首の後ろから根を張っている。切除できるなら頼みたい」
聖女の慈愛に満ちた笑顔が少し引きつった。
「結婚後は魔族領を離れ、教会で静かに暮らしましょう。魔王という重荷を捨て、ただの一人の男性として」
「それはできない」
「なぜです? あなた自身が苦しんでいるのに」
「私が王冠を捨てれば、次の魔王へ移るだけだ。領民と、次に選ばれる者を置いて逃げることになる」
ヴァルハルトの返答に迷いはなかった。
「私は魔王位に固執しているのではない。責任を途中で捨てたくない」
エレシアはしばらく考えた後、静かに手を離した。
「申し訳ありません。私はあなたを救うことばかり考え、あなたが何を守っているかを見ていませんでした」
「私も、あなたへ救いを求めるつもりで面談へ来た。互いに似たようなものだ」
二人は穏やかに頭を下げ合った。
面談後、エレシアはセレナへ言った。
「魔王陛下に必要なのは、救って差し上げる方ではありませんね」
「はい」
「隣で一緒に働き、間違えたら遠慮なく書類を突き返すような方です」
セレナの脳裏に、一人の姿が浮かんだ。
すぐに追い払った。
自分は相談員であり、候補者ではない。
◇
三人目は、魔族の名門令嬢ラヴィニア。
千二百歳。長命。魔力も高く、魔族領の政治にも詳しい。
彼女は面談室へ入るなり、床へ膝をついた。
「陛下のお望みを、すべて肯定いたします」
ヴァルハルトの眉がわずかに動いた。
「立ってくれ。面談では対等だ」
「陛下と対等など、畏れ多いことでございます」
セレナは面談票を確認した。
「ラヴィニア様。もし陛下が人間界への全面侵攻を命じた場合、どうなさいますか?」
「もちろん全軍をもってお応えします」
「王都を焼くとおっしゃっても?」
「より美しく燃える術式をご提案いたします」
頭上の王冠が明るく輝いた。
《当該候補者を推奨》
「却下だ」
《再検討を要求》
「却下する」
《相性評価九十八。極めて良好》
「どこがだ」
《命令受諾率百パーセント》
「それが困ると言っている」
魔王と王冠が口論を始めた。
ラヴィニアは困惑している。
「陛下。妃とは、魔王様へ従う者ではございませんか?」
「私が間違ったとき、止める者だ」
「陛下は間違えません」
「今朝、左右の靴を逆に履いた」
「それでも陛下が履けば、そちらが正しい左右となります」
「ならない」
セレナは静かに面談終了の判を押した。
不成立理由。希望する夫婦関係が一致しない。
ラヴィニアは落ち込んだが、帰り際、受付係のマルタと意気投合した。
マルタも上司へ従順に仕えることを美徳としている。ただしセレナが間違えれば普通に指摘する。
「その程度ならできます」とラヴィニアは言った。
後日、彼女は魔王城の秘書官へ応募することになった。
婚約者は決まらなかったが、人材紹介だけは成功した。
◇
ヴァルハルトは面談のたびに手土産を持ってきた。
一度目は、炎を吐く花。
相談所のカーテンを燃やした。
二度目は、触ると叫ぶ宝石。
受付の防犯用品になった。
三度目は、魔族領で採れた巨大な果物。
切るために騎士団を呼んだ。
「次からは普通の焼き菓子にしてください」
セレナが頼むと、四度目にヴァルハルトは黒い塊を持ってきた。
「何でしょう」
「焼き菓子だ」
「炭ではなく?」
「三日練習した」
セレナは覚悟を決めて一つ口に入れた。
見た目に反して、香ばしく、蜂蜜の甘さも上品だった。
「おいしいです」
「本当か」
「相談員は、成婚に不利益な嘘を申しません」
ヴァルハルトの口元が、ほんの少し緩んだ。
王冠が青く光る。
《心拍数の上昇を確認》
「報告するな」
《体温上昇も確認》
「黙れ」
セレナは笑ってしまった。
「陛下にも、そのようなお顔ができるのですね」
「どのような顔だ」
「婚活中の普通の男性の顔です」
王冠が再び青く光った。
《心拍数、さらに上昇》
「王冠を袋へ入れてもよいか」
「入浴時にも外れないのでしょう?」
「試す価値はある」
その日から、魔王は相談所へ来るたびに焼き菓子を持参した。
少しずつ見た目も改善した。
一番喜んだのは、毎回試食係に指名されるマルタだった。
◇
三人目の面談から二日後、ヴァルハルトは退会届を持ってきた。
「婚約者探しを終了する」
「理由を伺います」
「該当者はいない」
「まだ三名としかお会いしていません」
「時間切れだ」
セレナは退会届を机へ置いた。
「どういう意味ですか?」
ヴァルハルトは王冠を見上げた。
そこには今までなかった赤い亀裂が走っている。
「あと七日で、王冠が私の理性を完全に奪う」
面談室が静まり返った。
「初回面談で、なぜおっしゃらなかったのです?」
「期限を伝えれば、候補者へ結婚を強要することになる」
「だからといって、重要事項を隠してよい理由にはなりません」
「候補がいなければ、王冠ごと私を討伐させる」
セレナは退会届を二つに破った。
魔王が目を見開く。
「勝手に相談を終了しないでください」
「しかし」
「あなたは嘘をつかない方をご希望でしたね」
「ああ」
「ご自分は、相手の判断に必要な情報を隠したのですか?」
「嘘はついていない」
「言っていないだけ、は結婚相談で最も揉める言い訳の一つです」
「そうなのか」
「そうです。借金、持病、同居家族、世界征服の期限。すべて初回面談で申告してください」
「世界征服は一般的な申告項目なのか」
「本日から追加します」
ヴァルハルトはしばらく黙った後、深く頭を下げた。
「すまなかった」
魔王が、人間の相談員へ頭を下げる。
窓の外で監視していた騎士たちが一斉にどよめいた。
「今後は、あなたの判断に必要なことを隠さない」
「私ではなく、将来の婚約者へお約束ください」
「ああ」
なぜか、少しだけ残念そうな顔をした。
「退会は受理しません。条件を見直します」
「だが、候補者が」
「見つけるのが私の仕事です」
セレナは条件表を最初から開いた。
◇
「主任なら、全部満たしていますけどね」
閉店後、条件表をのぞいたマルタが言った。
「何を言っているの」
「魔王陛下を恐れない。嘘をつかない。世界征服へ反対できる。魔族と人間を公平に扱える。政務も手伝えそう。陛下を叱れる」
「私は相談員です」
「職業で結婚資格は消えません」
「魔族領では暮らせないわ」
「当相談所の創設者は、異種族間の婚姻契約を仲介した《仲人》ですよね。正式な契約を結べば、寿命と環境適性が相手に近づく祝福を受けられるはずです」
「王冠へ抵抗する魔力がない」
「初日に『却下します』の一言で止めましたよね」
「偶然よ」
「昨日も止めました」
昨日、ヴァルハルトが焼き菓子を焦がし、王冠が腹いせに隣国への侵攻を提案した。
セレナが却下すると、やはり王冠は素直に引っ込んだ。
「王冠は、主任を伴侶候補として認識しているんじゃないですか?」
「そんなはずは」
「では確認しましょう」
マルタが条件表の余白へ書く。
《庭の薬草を勝手に抜かない》
「主任、薬草と雑草の区別は?」
「つくわ」
「完全一致です」
セレナは条件表を奪い返した。
「条件が合うことと、結婚したいことは別です」
「では、陛下とは結婚したくないのですか?」
すぐには答えられなかった。
番号札を取って順番を待った魔王。
候補者を尊重し、不成立になっても恨まなかった魔王。
王位を捨てて逃げず、領民と次代の魔王を守ろうとする男。
普通の焼き菓子を求められ、三日練習して炭のような菓子を作った人。
自分の過ちを認め、人間の相談員へ頭を下げた王。
セレナは条件表を閉じた。
「分からないわ」
「なら、面談が必要ですね」
マルタは主任相談員と同じ口調で言った。
◇
翌日、セレナはヴァルハルトへ告げた。
「新しい候補者が一名見つかりました」
「その者は私との結婚を望んでいるのか」
即座に返された質問に、セレナは言葉を詰まらせた。
「条件は満たしています」
「条件ではなく、意思を聞いている」
「それは」
「望んでいない相手を候補にはできない。あなたが最初に私へ教えたことだ」
魔王は立ち上がった。
「その者には、期限のことも含めてすべて伝えてくれ。そのうえで断られたなら、私は受け入れる」
「お待ちください」
「何だ」
セレナは相談員として使ってきた言葉を、一つずつ捨てた。
相性。条件。成婚率。生活設計。
どれも大切だが、今聞かれている答えではない。
「その候補者は、あなたともう少し話したいと思っています」
ヴァルハルトは黙って待った。
「仕事ではない場所で、一度食事へ誘ってほしいとも」
金色の目がわずかに見開かれる。
「候補者は、あなたなのか」
「はい」
王冠が青く点滅した。
《心拍数の急上昇を確認》
「黙れ」
《候補者側にも上昇を確認》
「王冠」
今度はセレナが低い声を出した。
《沈黙します》
王冠が消灯した。
ヴァルハルトはゆっくり立ち上がる。
「セレナ・ウェルナー。今夜、私と食事をしてほしい」
「承知しました」
「仕事ではなく」
「はい」
「費用は私が」
「初回は割り勘を推奨しています」
「金山を半分に割ればよいか」
「通貨でお願いします」
◇
正式な交際申し込みには、別の相談員による面談が必要だった。
利益相反を避けるためである。
担当にはマルタが名乗りを上げた。
「では、ヴァルハルト様。セレナ様のどのようなところに魅力を感じましたか?」
「私を恐れず、必要なことを明確に言う。候補者を駒として扱わない。私の領民へも配慮する。菓子を食べたとき、うまいと言って笑った」
「最後だけ急に個人的ですね」
「個人的な面談だろう」
「おっしゃるとおりです」
マルタは満足げに記録した。
「セレナ様。ヴァルハルト様の容姿について、どう思われますか?」
「威圧感はありますが、整っていると思います」
「もっと簡潔に」
「好みです」
ヴァルハルトの角が、先端から赤くなった。
王冠が青く光りかける。
「報告したら窓から投げる」
《沈黙を維持》
「結婚後、世界征服を希望されますか?」
「希望しない」
「王冠に命じられた場合は?」
ヴァルハルトはセレナを見る。
「彼女に止めてもらう」
「セレナ様、止められますか?」
「必ず却下します」
「では、交際成立です」
マルタが大きな判を押した。
窓の外で監視していた騎士団から、なぜか拍手が起きた。
◇
交際開始から三日目。
二人は婚姻契約を結ぶため、魔王城の最深部へ向かった。
あと一日で王冠の侵食が完成する。
赤い亀裂は王冠全体へ広がり、時折、ヴァルハルトの目にも同じ色が浮かんでいた。
契約室の中央には、歴代魔王の誓約が刻まれた黒い石板がある。
セレナとヴァルハルトが手を重ねると、王冠が声を上げた。
《婚姻候補を審査》
《人間。短命種。戦闘能力、低》
「余計なお世話です」
《魔王への服従意思、なし》
「あっては困る」
《妃として不適格》
赤い光が二人の手を弾いた。
ヴァルハルトの顔から血の気が引く。
「王冠。彼女は私が選んだ」
《歴代規定により却下。妃は魔王へ絶対服従する者と定義》
セレナは黒い石板を見上げた。
刻まれた古代文字の下に、何世代もの追記が重なっている。
「原文を確認させてください」
《部外者の閲覧を禁止》
「婚姻契約の当事者です」
《婚姻は不成立》
「不成立の理由へ異議を申し立てています」
《異議を却下》
「却下理由を提示してください」
《却下理由の提示要求を却下》
「相談所に来る面倒なお客様と同じですね」
セレナは鞄から拡大鏡と契約確認用の青い粉を取り出した。
「何をするつもりだ」
「契約書の確認です。結婚相談員を契約文の前へ連れてきて、ただで帰れると思わないでください」
青い粉を石板へ吹きかける。
後世に追加された文字だけが浮かび上がった。
《妃は魔王へ絶対服従する》
《魔王の命令へ異議を唱えてはならない》
《魔王の領土拡大へ協力する》
その下に隠れた初代の文章は、まったく違っていた。
《伴侶は魔王と王権を分かち、互いの過ちを正す》
《両者の合意なき大命は、効力を持たない》
セレナは後付けの条項を指した。
「こちらは原契約と矛盾しています」
《歴代魔王により承認済み》
「歴代の妃候補は承認しましたか?」
《回答を拒否》
「していませんね」
《回答を拒否》
「婚姻は一方が他方へ服従する契約ではありません。共同生活と共同統治について、双方が合意する契約です」
《伝統への侮辱を確認》
「不当条項を伝統と呼ばないでください」
王冠から赤い魔力が噴き上がった。
《人間界への全面侵攻を提案》
「却下します」
《提案を棄却》
赤い魔力が一瞬で消えた。
王冠が沈黙する。
ヴァルハルトはセレナの手を取った。
「私も、後付けされた条項を承認しない」
《魔王には妃を従わせる権利が》
「望まない。私へ反対できない伴侶なら必要ない」
《王権が制限される》
「だから結婚するのだ」
《世界征服が不可能になる》
「それが目的だ」
王冠の赤い亀裂が明滅した。
《理解不能》
「相談を継続しますか?」
セレナが尋ねる。
《相談?》
「あなたの希望は世界征服。陛下の希望は領民を守り、侵攻を止めること。希望が一致していません。今後は共同統治者の承認が必要です」
《拒否》
「では、王冠の装着契約そのものを解除します」
《待機》
返答が急に速くなった。
《条件変更を検討》
「五秒でお願いします」
《短すぎる》
「四」
《抗議》
「三」
《新条件を承認。伴侶を共同統治者として登録》
「最初からそうしてください」
黒い石板から後付けの文字が剥がれ落ちた。
新しい契約文が刻まれる。
《魔王ヴァルハルトとセレナ・ウェルナーは王権を共有し、互いの合意によって統治する》
王冠の亀裂が消えた。
同時に、ヴァルハルトの身体から重苦しい魔力が抜けていく。
彼はしばらく呆然とし、それから頭上の王冠を見上げた。
「王都を焼けという声が消えた」
「よかったですね」
《代替案として、王都への観光旅行を提案》
「それなら検討します」
《共同統治者の承認を要求》
セレナは少し考えた。
「相談所への事前予約を条件に承認します」
《条件付きで可決》
どうやら王冠も、少しは話の分かる相手になったらしい。
◇
一月後。
ヴァルハルトは再び《青い鳥》を訪れた。
待合室の客は、もう逃げなかった。
受付には「魔王来店時も番号順にご案内します」と張り紙がある。
ヴァルハルトは番号札を取り、長椅子へ座った。
「五十三番のお客様」
「私だ」
面談室へ入ると、セレナが書類を開いた。
「本日のご相談は?」
「婚約者との面談を希望する」
「すでに成婚退会されています」
「結婚後の相談も受け付けると案内に書いてある」
「新婚生活のお悩みですか?」
「いつ食事へ誘えば迷惑にならないか相談したい」
セレナは額を押さえた。
「それは私へ直接お尋ねください」
「では、今夜、食事へ来てほしい」
「承知しました」
ヴァルハルトがほっとした顔をする。
その瞬間、王冠が赤く光った。
《人間王国への侵攻を提案》
「却下します」
《提案を棄却》
「まだ言うのか」
《定期提案は王冠の義務》
「毎朝である必要はありません」
《頻度変更を提案。週一回》
「月一回」
《交渉の結果、月二回》
「却下の手間が増えるだけです」
《では月一回》
ヴァルハルトは満足そうにうなずいた。
「やはり、あなたが最適だった」
「条件だけで選んだように言わないでください」
「条件を外しても、あなたがいい」
面談室の外が静まり返った。
書類を運んでいたマルタが、扉の隙間で固まっている。
ヴァルハルトは、自分が何を言ったのか分かっていない顔をしていた。
セレナだけが赤くなる。
「それは、相談員がいない場所でもう一度お願いします」
「分かった。今夜の食事で言う」
《候補文を百二十八件提示可能》
「王冠は黙っていてください」
《沈黙します》
世界征服を止めるより、魔王に恋愛を教える方が、どうやら難しい仕事になりそうだった。
長編も投稿しています。
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