冒険者ギルドの食堂を追い出された元おさんどん令嬢ですが、欠けた鍋ひとつで竜人将軍の胃袋と王都の覇権を握ってしまったようです ~欠けた鍋にて~
「お前の作る飯はまずい。今日限りで食堂から出ていけ」
そう言い放ったのは、私を三年間タダ働きさせてきたギルドマスター——ドルグだった。
おかしい。
さっきまで彼は、私のシチューを三杯おかわりしていたはずだが。
空になった木皿が三枚、彼の足元に重ねられている。鍋底まで綺麗にこそげ取って、「もう一杯あるか」と聞いてきたのは、ついさっきのことだ。
それを「まずい」と。
「……今、なんと?」
「聞こえなかったか? お前の飯はまずいと言ったんだ。明日から『鑑定持ちの聖女様』が厨房に入る。孤児上がりの下働きは用済みだ」
——ああ、そうか。
私は冷めた頭で理解した。新しく来る聖女様に厨房を譲りたいだけ。孤児上がりの下働きなんて、肩書きのある聖女様の前では邪魔なだけ。だったら、追放の口実は何でもいいわけだ。たとえそれが、自分で三杯おかわりした料理であっても。
「おかしいですね。そのまずい飯を、たった今、三杯おかわりなさったのはどなたでしたっけ」
「なっ……」
「足元の木皿、三枚。鍋底までこそげ取って『もう一杯あるか』と。私、しっかり覚えておりますが」
ドルグの脂ぎった顔が、見る間に赤くなる。
「スズナ姉ちゃんの飯がまずいわけないだろ、馬鹿じゃないの! ドルグのおっさん、さっき自分で三杯——」
割って入ったのは、見習いのミントゥだった。十二歳の小さな体で、そばかすだらけの顔を真っ赤にしている。
「黙れ、孤児が!」
ドルグの怒鳴り声が、がらんとした食堂に響く。
「ミントゥ、いいの。落ち着いて」
「でも姉ちゃん! こんなの——」
「いいの。……ここで何を言っても無駄だって、この三年でよく分かったから」
私はミントゥの肩にそっと手を置いた。
この三年間、私は学んだ。給金は雀の涙。私が考案した出汁の取り方も、魔物肉の下処理も、すべて「ギルドマスターの新メニュー」として吸い上げられてきた。功績はいつだって、この脂ぎった男のものだった。
喚いても、泣いても、何も変わらない。
だったら——
「ふん、ようやく身の程を理解したか。ならさっさと荷物をまとめて——」
「わかりました」
ドルグが一瞬、拍子抜けした顔をする。
「……あ? なんだ、すがりつかんのか?」
「すがる? 誰に、何を、ですか。給金は雀の涙。私が考案した出汁も、下処理も、全部あなたの手柄になった。そんな場所に、未練なんてあるとお思いで?」
「き、生意気な口を……っ」
「ただ、ひとつだけ持っていきます」
私は厨房の隅に立てかけてあった、縁の欠けた古い片手鍋を手に取った。
前世の——日本の下町で営んでいた定食屋『向日葵亭』の、母の鍋。
そう、私には前世の記憶がある。現代日本の定食屋の一人娘。店を継ぐ直前に事故で死に、気づけばこの剣と魔法の世界で孤児上がりの下働きをしていた。唯一手元に残ったのが、死の間際まで握っていたこの鍋だった。
「それは……ギルドの備品では?」
「縁の欠けたガラクタですよ。新しい聖女様には不要でしょう?」
「ふ、ふん。そんなみすぼらしい鍋、好きにしろ」
「ええ。そうさせていただきます。——では。三年間、お世話になりました」
「姉ちゃん……っ」
背を向けて歩き出す。喚かない。泣かない。淡々と。
それが、私にできる最後の意地だった。
(喚かない。泣かない。淡々と。それが、私にできる最後の意地だった。……それにしても、この鍋の縁。さっきから、妙に温かい気がするのは——気のせい、よね?)
——ただ、ひとつ気づかなかったことがある。
布の隙間から覗いた、欠けた鍋の縁。そこに、見覚えのない古代文字が、薄く、淡く、光っていたことを。
* * *
ギルドの裏口を出ると、王都の喧騒が遠くに聞こえた。
秋の風が冷たい。手持ちの金は、銅貨が数枚。住む場所もない。あるのは、この欠けた鍋ひとつ。
普通なら、絶望する場面だ。
でも、私の胸にあったのは——奇妙なほどの清々しさだった。
「スズナ姉ちゃん!」
追ってきたミントゥが、息を切らして私の前に立つ。
「あたしも行く。あんなギルド、こっちから願い下げだ!」
「ミントゥ、あなたは——」
「姉ちゃんがいなきゃ、あたしどうせ食いっぱぐれるもん。それに……」
少女は俯いて、ぼそりと言った。
「姉ちゃんの飯が、世界で一番うまいって、あたしは知ってるから」
——ああ、まずい。
泣きそうになる。三年間、誰にも理解されなかった私の料理を、この子だけはずっと「うまい」と言ってくれていた。
私は鍋を抱える手に力を込めた。
「ミントゥ。私ね、もう決めたの」
「なにを?」
「もう、誰かのために我慢して作るのはやめる」
空を見上げる。前世でも、私はずっと誰かのために作ってきた。店のために、客のために、父のために。自分の食べたい味なんて、後回しで。
「私は、私の食べたい味を作る。誰に評価されなくてもいい。おいしいって、心から思える味を」
そう口にした瞬間だった。
胸に抱いた鍋が、ふわりと温かくなった。
「……え?」
布をめくると、欠けた縁の古代文字が、はっきりと光を放っていた。淡い、金色の光。
「姉ちゃん、その鍋……光ってる?」
「気のせい、じゃない、よね」
何が起きているのか、わからない。でも不思議と、怖くはなかった。
まるで、母の鍋が「それでいい」と背中を押してくれているような——そんな気がした。
「ミントゥ。屋台を出そう。場末でいい、小さくていい」
私は欠けた縁をそっと撫でた。これは私の癖だ。不安なとき、いつもこうして鍋の縁に触れる。
「この鍋ひとつで、始めよう」
光は、まるで返事をするように、もう一度ふわりと瞬いた。
* * *
王都の場末、人通りの少ない裏路地の片隅。
借り物の屋台と、欠けた鍋ひとつ。それが私の新しい城だった。
この世界の料理は、ひどく大味だ。
食材に魔力をぶち込んで、火を通すだけ。出汁という概念がない。下処理もしない。発酵調味料? そんなもの、誰も知らない。
だから——逆に言えば、私の知識は無敵だった。
安い魔物肉を丁寧に下処理し、骨と香味野菜でじっくり出汁を取る。前世で覚えた味噌に似た発酵調味料は、この世界の豆で自作した。こんがり焼いた串。ふっくら炊いた米。湯気の立つ、出汁の効いた一杯のスープ。
「いい匂い……」
通りすがりの人々が、足を止め始める。
そして、その日の最初の客が来た。
身の丈は、人間離れしている。褐色の肌に硬質な竜鱗。頭には角。腰には大剣。一瞥しただけで、周囲の空気が凍りつくような威圧感。
竜人だ。それも、ただ者ではない。
「……スープを」
短く、低い声。無口な男のようだ。
「はい、ただいま」
私は欠けた鍋から、湯気の立つスープを木椀に注いだ。
竜人の男は、椀を受け取り、無造作に口をつけ——
固まった。
「お客さん?」
返事はない。
彼は椀を見つめたまま、微動だにしない。やがて、その大きな肩が、かすかに震え始めた。
「これは……」
絞り出すような声。
「これは……母の、味だ」
——え?
私は思わず固まった。だって、これはただの魔物肉のスープだ。誰かの母の味なんて、再現したつもりはない。
なのに。
冷酷無比と恐れられているのだろう屈強な竜人の頬を、大粒の涙が、ぼろぼろと伝い落ちていた。
「故郷を、焼かれて……もう二度と、食えないと思っていた。母の作った、この味を……」
人目もはばからず、彼は泣いていた。スープの椀を両手で包み込むように持って、子供のように。
路地を行く人々が、ぎょっとして立ち止まる。あの恐ろしげな竜人が、屋台の前で号泣しているのだから。
そして、私はようやく理解し始めていた。
あの夜、光った古代文字。
この鍋は——『食べた者の、最も恋しい思い出の味』を再現してしまうのだ。
「……おいしい、ですか?」
私が尋ねると、彼は涙を拭いもせず、深く頷いた。
「ああ。世界で、一番」
ぶっきらぼうな、けれど真っすぐな言葉。
胸の奥が、じんと温かくなる。
誰かのために我慢して作るのをやめた途端、私の料理は、こんなにも誰かの心に届いている。
「俺は、ガルド」
竜人は名乗った。
「明日も、来ていいか」
——こうして私の屋台に、最強で最も涙もろい常連が、ひとり加わったのだった。
* * *
ガルドは、本当に毎日来た。
それも、開店前から並んで。
問題は——彼が並んでいるだけで、他の客が逃げていくことだった。
「あ、あの、おさきにどうぞ……」
「い、いえ、滅相もない、あなた様が先で……」
屋台の前で、客同士が譲り合いの地獄を繰り広げている。原因は明白。列の先頭に、腕を組んで仁王立ちする竜人将軍がいるからだ。
そう、彼はただの竜人ではなかった。冷酷無比と恐れられる、王国軍の将軍だったのだ。
本人にその気はまったくない。むしろ大人しく順番を待っているつもりらしい。だが、その威圧感たるや。
「ガルドさん」
「なんだ」
「もう少し、こう……気配を消してもらえます?」
「気配……?」
彼は真剣に首をかしげた。角がぐらりと動く。後ろに並んだ若い冒険者が、ひっと小さく悲鳴をあげて三歩下がった。
「将軍さんがいると、お客さん怖がっちゃうんだよ!」
ミントゥが容赦なくツッコむ。十二歳の少女に詰め寄られて、屈強な竜人将軍がたじろぐ。この光景、何度見ても飽きない。
「……俺は、ただスープが食いたいだけだ」
「だったら隅っこでおとなしくしてて!」
「わかった」
素直にしゅんとして、屋台の隅に移動するガルド。その背中の哀愁たるや。冷酷無比な竜人将軍は、どこへ行ったのか。
それでも、彼が通い詰めるおかげもあって——屋台の評判は、瞬く間に広がっていった。
「あの屋台のスープを飲むと、忘れられない味がするらしい」
「亡くした人の手料理の味がしたって、泣いてる客がいたぞ」
冒険者が来た。傷ついた兵士が来た。貴族のお忍びらしき者まで来た。
みんな、一口食べて、目を見開く。そして、誰かを思い出す。
母を。父を。亡くした恋人を。遠い故郷を。
そんな中、金髪碧眼の端正な青年が、お忍びらしき軽装で、しばしば並ぶようになった。
「いやあ、ここの串は絶品だね。この甘辛いタレ、初めての味なのに、なぜか懐かしい」
人懐っこい笑顔で、彼はいつも上機嫌だった。ただの食通の常連、と私は思っていた。
私の鍋は、いつしか『食の聖女』と噂されるようになっていた。
「ねえ姉ちゃん」
閉店後、串を片付けながらミントゥが言った。
「ギルドの方、知ってる? 新しい聖女様の料理、ぜんっぜん人気ないんだって」
「へえ」
「鑑定して『この肉は栄養価が高いです』とか読み上げるだけで、味は普通の大味料理らしいよ。客がどんどん減ってるって」
私は欠けた鍋の縁を撫でた。
鑑定で、味は測れない。数値を読み上げても、誰の思い出にも届かない。
——心を込めて作る、ということを知らなければ。
「ま、関係ないけどね」
私は微笑んだ。
だが、関係はあった。すぐに、向こうから乗り込んでくる形で。
* * *
それは、屋台が一番賑わう昼下がりのことだった。
「ここかぁ! 評判の屋台ってのは!」
聞き覚えのある、脂ぎった声。
振り返らなくてもわかる。ドルグだ。隣には、白い聖女装束を纏った若い娘——噂の鑑定聖女、リーリャ。
「あ……あんた、あのときの下働きじゃないか!」
ドルグの顔が、驚きと、それから醜い怒りに歪んだ。
「ふん、どうせ汚い手口で客を騙してるんだろう。なあ、リーリャ様」
「ええ。鑑定もできない素人が、おかしな噂を流して」リーリャが鼻で笑う。「食の聖女ですって? 笑わせるわ。本物の聖女は、わたくしですのに」
列に並んでいた客たちが、ざわつく。
そしてドルグは、私の手元の鍋に目をつけた。
「その鍋は元々ギルドの備品だ、返してもらおう!」
「……は?」
「お前が盗み出したんだろうが! ギルドの財産を勝手に持ち出した、立派な窃盗だ!」
白々しい。三年前、彼自身が「縁の欠けたガラクタ」「みすぼらしい鍋」と言って、好きにしろと吐き捨てたものを。
「ドルグのおっさん、それ嘘だ!」
ミントゥが叫ぶ。「あんた、その鍋のこと『ガラクタ』って言ってたじゃないか! あたし、聞いてたんだから!」
「子供が口を挟むな!」
ドルグはずかずかと屋台に踏み込み、私の手から鍋を奪い取ろうとした。
その、瞬間。
「——そこまでだ」
地を這うような低い声。
人垣が、割れた。
現れたのは、ガルド。腕を組み、竜の角を光らせ、ドルグを冷たく見下ろしている。冷酷無比の将軍の顔で。
「ひっ……りゅ、竜人……?」
ドルグの手が止まる。
「その鍋から、手を離せ」
ガルドの隣に、もうひとり。金髪碧眼の、端正な青年。お忍びでよく並んでいた常連客——だが、その立ち姿は、もはや「ただの食通」のものではなかった。
「やれやれ。せっかくお忍びで楽しんでいたのに」
青年は、わざとらしく芝居がかった仕草で、胸元の紋章を見せた。
王家の、紋章。
「王太子、レオハルト・フォン・アーデンベルク。この騒ぎ、私が預かろう」
群衆が、どよめいた。
ドルグとリーリャの顔から、血の気が引いていく。
「お、王太子……殿下……?」
「さて、ギルドマスター殿」
レオハルトは、にこやかに——だが目だけは笑わずに、言った。
「その『備品』とやら、本当に君のものか、ここではっきりさせようじゃないか」
* * *
「いいことを教えてやろう」
ガルドが、静かに口を開いた。普段は無口な男が、私を守るときだけは饒舌になる。
「この鍋の祝福は、所有者の『誰かを想って作る心』にしか反応しない」
彼は、欠けた鍋を指さした。
「鑑定で価値を測ることしかできぬ者には——ただの、欠けた鍋だ」
リーリャの眉が、ぴくりと動いた。
「証明してみせよう」レオハルトが、優雅に手を広げる。「リーリャ嬢。君は鑑定の聖女だろう? その鍋を握って、祝福を起動させてみたまえ。できるのなら、その鍋は誰が握っても光る——つまり、ギルドのものだと認めよう」
「……簡単なことですわ」
リーリャは勝ち誇った顔で、私の手から鍋をひったくった。
「ご覧なさい。本物の聖女が握れば——」
沈黙。
鍋は、うんともすんとも言わない。
古代文字は、暗いまま。光のひとつも、灯らない。
「……あら?」
リーリャが鍋を振る。叩く。撫でる。鑑定スキルを発動させ、「この鍋は……鉄製で、経年劣化が……」と数値を読み上げる。
何も、起きない。
「お、おかしいですわ! こんなガラクタ、壊れているのよ!」
「いや」
レオハルトが、ぴしゃりと言った。
「壊れているのは、鍋ではない」
群衆が、固唾を呑んで見守る中、彼は私に向き直った。
「スズナ嬢。君が握ってみせてくれ」
私は、リーリャの手から鍋を受け取った。
欠けた縁を、いつもの癖で、そっと撫でる。
——おいしいって、心から思える味を。誰かの、恋しい思い出に届く味を。
その想いが胸に満ちた瞬間。
ふわり、と。
古代文字が、金色に、淡く、確かに光った。
「「——!」」
群衆から、どよめきと歓声があがる。
ドルグが、リーリャが、言葉を失って立ち尽くす。
「鑑定数値は、味を作らない」
私は、光る鍋を抱きしめて、静かに言った。
「あなた方が捨てたのは、欠けた鍋じゃない」
二人を、まっすぐに見つめる。怒鳴らず。喚かず。ただ、淡々と。
「心を込めて作る、ってことだったんですよ」
リーリャの顔が、白々しく固まった。鑑定しかできない聖女の、ぐうの音も出ない沈黙だった。
ドルグは——
「ま、待て、あれは、その、味は本物だと、わしも、三杯おかわりを……」
「あら」私は微笑んだ。「『まずいから出ていけ』と言ったのは、どちらでしたっけ?」
青ざめる顔。自分で吐いた矛盾が、今、彼の喉元に突き刺さっていた。
* * *
ことの顛末は、あっという間だった。
レオハルト王太子は、群衆の前で高らかに宣言した。
「スズナ嬢の料理は、王都の人々の心を癒やし、失われた食文化を蘇らせた。よって、彼女を『宮廷料理顧問』に任命し、新たな店舗を下賜する」
歓声が、路地を埋め尽くした。
そして、ドルグとリーリャには——容赦のない現実が待っていた。
ドルグのギルド食堂は、すでに立ち行かなくなっていた。鑑定聖女ひとりに頼って、まともな料理人を全員クビにしたからだ。客は離れ、評判は地に落ち、王太子の前であの醜態を晒したことで、信用は完全に失墜。
「わ、わしは、悪くない、悪いのはこの聖女が——」
「ちょっと! わたくしのせいにしないでくださる!? あなたが追放しろと——」
二人は、群衆の見守る中で醜く罵り合い、そして逃げるように去っていった。
鑑定聖女リーリャは、その日のうちに王都中の噂になった。
『鍋を握っても光らせられなかった、鑑定しかできない聖女』として。
「ざまぁみろ!」
ミントゥが、思いっきり叫んで、それから——
「うっ……うぇぇぇん……よかったぁ、姉ちゃん……よかったよぉ……」
感動のあまり、真っ先に号泣した。場の空気が、ふっと和む。
「もう、ミントゥったら」
私はその小さな頭を撫でた。前世で持てなかった『家族』の温もりが、ここにある。
「……俺も、泣いていいか」
ガルドが、真顔で言った。
「あなたはダメ。さっき威圧で客が三人逃げたから」
「むう」
しゅんとする竜人将軍。レオハルトが、楽しそうに笑った。
「いやはや、痛快痛快。さて、スズナ嬢」
彼は声を潜めて、いたずらっぽく囁いた。
「新しい店、楽しみにしているよ。私の『思い出の味』も、まだ食べさせてもらっていないからね」
* * *
新店舗の開店初日。
王都の大通りに面した、真新しい店構え。看板には『向日葵亭』——前世の母の店と、同じ名前を掲げた。
開店前から、長い行列ができていた。そして、その最前列にはやはり、腕を組んで仁王立ちする竜人将軍がいた。
「……ガルドさん。また並んでる人が逃げてますよ」
「む。……すまん」
しゅんとしながらも、彼は動かなかった。むしろ、何か言いたげに、もじもじと角を揺らしている。
「あの……何か?」
ガルドは、ぶっきらぼうに、握りしめていたものを差し出した。
竜の鱗だった。それも、虹色に輝く、見るからに貴重なもの。
「これは……?」
「欠けた縁を、直せる。竜の鱗は、どんな器物の傷も繕う」
彼は、視線をそらしながら、低い声で続けた。
「欠けたままじゃ、いつか割れる。……俺が、ずっと隣で守る。鍋も、お前も」
——え。
顔が、かあっと熱くなる。これは、つまり。
「ガルドさん、それって……」
「言わせるな。一度しか言わん」
強面の竜人将軍が、耳の先まで真っ赤になって、ぷいとそっぽを向いた。普段あれだけ涙もろいくせに、こういうときだけ意地っ張りなのだ。
「あーっ! ガルド将軍、いま姉ちゃんに告白した! したよね!」
ミントゥが目ざとく叫び、すかさず号泣の準備に入る。
私は、欠けた鍋の縁を、そっと撫でた。
「……ありがとうございます。でも」
虹色の鱗を、ガルドの大きな手に、そっと押し返す。
「この欠けは、前世の母とのお守りなんです。だから、直さない。欠けたままで、いいんです」
ガルドの肩が、しょんぼりと落ちる。
だから私は、彼を見上げて、笑った。
「でも——隣にいてくれるなら、嬉しい。鍋も、私も。ずっと、お願いしますね」
一瞬の沈黙。
そして、冷酷無比と恐れられた竜人将軍は——案の定、ぼろぼろと、大粒の涙をこぼし始めた。
「うっ……ぐ……感無量だ……」
「だから泣かないで! 縁起のいい開店初日に!」
「あたしも泣くーっ!」
「だからミントゥも! ……もう、なんなのこの店」
呆れながらも、私の胸は、温かいもので満ちていた。
そのとき。
欠けた鍋の古代文字が、ふと、淡く瞬いた。
まるで、次の誰かを待つように。まだ再現していない、誰かの恋しい思い出の味を——そっと、示すように。
「……いらっしゃいませ」
私は鍋を手に取り、火を入れる。
誰かのために我慢する料理は、もうやめた。
けれど、心から「おいしい」と思える味で、誰かの恋しい思い出に寄り添うことは——きっと、私の一番の幸せだ。
湯気が、立ちのぼる。
今日も、向日葵亭は、開店です。
<了>
——————
※追放ざまぁ&飯テロ&ほのぼの恋愛の短編完結でした。強面将軍が二回泣きました。お腹が空く描写、注意。欠けた鍋はまだ、次の『思い出の味』を探しているようです。




