悪役令嬢の取り巻きに転生した私.推しの破滅フラグを恋愛フラグにすり替えます
目を覚ました瞬間に耳へ飛び込んできたのは、上品な声に包まれた露骨な悪意だった。
「セシリア様、次の休み時間にあの平民の裾を踏んで転ばせて、恥をかかせましょう」
金箔の飾りが光を跳ね返す廊下で、笑い声だけがやけに澄んで響き、それがかえって内容の下卑た輪郭を際立たせるのを聞きながら、私は自分の指先が細く白いこと、制服の生地が異様に上等であること、そして胸の奥にだけは現実の重みが沈殿していることを、一つずつ確かめるように理解していった。
ここは乙女ゲーム『リリィと王冠の誓い』の学園で、いま私の正面に立つ銀髪の令嬢は悪役令嬢セシリア・フォン・アルデント、その隣で忠誠を競うように悪意を提案している少女たちは彼女の取り巻きで、そして私はその中の一人――ルチアナ・ベルモント伯爵令嬢として、あり得ないほど鮮明な記憶と一緒に転がり込んでしまったのだと。
推しはセシリアだった。
他人の善意や噂や物語の都合に押し潰されるほど真面目で、誇り高いのに言葉が不器用で、本当は誰よりも秩序を愛しているくせに悪役の仮面を被せられ、最後には卒業パーティで断罪される。
婚約破棄、追放、取り巻きの連座。
私はその結末を知っているからこそ、いまこの廊下の金箔が棺の内装に見え、笑い声が弔いの拍手に聞こえ、それでも目の前の推しがまだ何も失っていない姿で立っている事実だけが、かろうじて私の心臓を働かせていた。
だから私は、取り巻きとしては明らかに不穏な沈黙を置いたのち、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「それはやめましょう」
空気が止まったのがわかった。
提案した令嬢カミラが、理解できないという顔で眉を上げ、周りの少女たちが私の言葉の真意を測りかねて視線だけを尖らせる中、セシリアだけは小首を傾げ、氷のような瞳の奥で何かを静かに計算しているように見えた。
「どうして、ルチアナ」
セシリアの声は冷たくも甘くもなく、ただ正確で、だからこそ私はこの人が本来は感情より秩序で動く人間なのだと改めて思い出した。
私は笑顔を作った。取り巻きの笑顔は、媚びではなく道具だ。場を壊さず、敵意も見せず、それでいて言葉だけは通すための薄い仮面だ。
「もし平民の彼女が転べば、彼女は泣きます。泣いた彼女を慰める人が現れて、あなたを責める人が増えます。結果として残るのは、あなたが得をする話ではなく、あなたの品位が傷つく話です」
カミラが口を挟もうとしたが、私は一息で続けた。
「相手に恥をかかせるより、相手が自分の足で立っていられる状況を作ったほうが、貴族としてはずっと強い。あなたが動くなら、勝ち筋がある場面で動きましょう。……悪い印象を積み上げるのではなく、別の印象に塗り替えるんです」
最後の一文だけ、私はセシリアに向けて少しだけ声を落とした。ここで言い過ぎれば、彼女は私を怪しむ。怪しまれても困るが、それ以上にこの人は、自分の矜持が揺さぶられる言葉には頑固なくらい正直に反応する。
セシリアは数拍黙り、それからほんの僅かに口角を動かした。
「あなた、急に口が回るようになったわね」
「命がかかると人は雄弁になるそうです」
「……なるほど。あなたの言い方は気に入らないけれど、筋は通っているわ」
セシリアは取り巻きたちへ視線を投げ、その場で結論を下した。
「今日はやめる。くだらないことに手を出して、余計な口実を与えるのは愚かよ」
取り巻きたちが渋々引き下がり、廊下に残ったのは、私の背中を冷や汗が伝う感覚と、推しが推しのままここに立っているという小さな救いだった。
◆
乙女ゲームの世界は、偶然の顔をした必然で動いている。
角を曲がれば衝突が起き、扉を開ければ手紙が落ち、庭園に出れば風が髪を揺らし、一つの出来事が次の出来事を呼び寄せるように連鎖して、最後に必ず「物語として見栄えのいい結末」へ収束していく。現実の人間がどれほど慎重でも、舞台装置が結末を望むなら、舞台装置はそれを実現するための小道具をいくらでも用意する。
だから私は、小道具の配置を見た瞬間に、胃の奥が冷えるのを感じた。
休み時間の廊下の端に、掃除用の水桶が置かれている。
理由は知らない。必要なのは理由ではなく、この桶が数分後に誰かを濡らし、誰かを泣かせ、誰かを怒らせ、誰かに罪を着せるために存在しているという、舞台の意図そのものだ。
そして案の定、曲がり角の先から金髪の青年が現れた。
王太子レオンハルト殿下。セシリアの婚約者で、本来なら最終的に彼女を断罪する側に立つ人。姿勢も表情も整い過ぎていて、整っていることがそのまま責任の重さを示しているように見えた。
私は一歩前へ出て、桶の位置と殿下の歩幅と、その先にいるアリシアの進路を同時に視界へ収めた。ヒロインのアリシアは、栗色の髪を揺らしながらノートを抱え、周囲の視線に慣れないまま真っ直ぐ歩いている。
このまま殿下が桶に足を取られ、水がアリシアにかかれば、その瞬間に空気は一つの方向へ固まる。誰もが「誰かの悪意」を欲しがり、一番都合のいい悪意としてセシリアの名が持ち出される。
私は声を上げるより先に、セシリアの袖を軽く引いた。
「セシリア様、足元を」
セシリアは何が起きるかわからないまま、しかし私の声の硬さで何かを察したのだろう、すっと視線を落とし、同時に殿下の足元へも目を向けた。桶が僅かに動き、殿下の靴が縁に触れ、桶が傾く。
水が宙へ舞った。
その瞬間、セシリアが動いたのは計算ではなく反射だった。彼女はアリシアの前へ身体を滑り込ませ、肩と髪で水を受け止め、深紅の制服の色をさらに暗く沈ませた。
廊下に落ちる水音が、やけに大きく聞こえた。
殿下が息を呑み、アリシアが言葉を失い、取り巻きたちが固まる。その沈黙を最初に破ったのは私だった。沈黙は味方にも敵にもなるが、いま必要なのは「解釈が固まる前の言葉」だ。
「殿下、お怪我はありませんか。桶が出たままでした」
殿下は一拍遅れて自分の足元を見下ろし、それからセシリアへ視線を向けた。
「……私の不注意だ。すまない、セシリア」
殿下の謝罪が落ちた瞬間、空気の向きが決まった。悪意の矛先がセシリアへ向く可能性は、いま確かに減った。
私はアリシアへ近づき、彼女のドレスが濡れていないことを確かめてから、持っていたハンカチを差し出した。
「大丈夫、濡れていない。……セシリア様が庇ってくださったの」
アリシアは目を大きくし、信じられないものを見るようにセシリアを見た。
「セシリア様が……私を……?」
セシリアは濡れた髪を指先で払おうとして、途中で止めた。照れとも苛立ちともつかない表情で、しかし逃げない。ここで「好意」を言葉にしてしまえば、逆に彼女の矜持が傷つく。だから私は彼女の代わりに、状況だけを整えた。
私は自分の上着を脱いでセシリアの肩へ掛け、彼女が拒むより早く言った。
「冷えます。着替えに行きましょう」
「あなたはどうするの」
「私は平気です。……少なくとも今日だけは」
セシリアは何か言い返したそうに口を開きかけ、結局それを飲み込み、小さく頷いた。殿下が「私も付き添おう」と申し出て、セシリアは一瞬だけ迷い、それでも「……そうして」と短く答えた。
そのやり取りを、窓辺から静かに眺めている影があることに、私は気づいてしまった。
黒髪、灰色の瞳、制服ではない上質な装い、王家の人間特有の、場に溶け込むのではなく場を支配する気配。
王弟ユリウス殿下だった。
彼がここにいる理由を私は知らない。知っているのは、彼が「偶然」では済まない種類の人間だということ、そしてこういう人間は往々にして、面白いものを見つけた時に手放さないということだけだった。
ユリウス殿下は私を見て、ほんの僅かに笑った。
「今のは、咄嗟に出た動きかな」
私は礼儀正しく頭を下げ、笑顔だけを残した。
「殿下、ご無事で何よりです」
「質問の答えになっていない」
「私はいつも、質問に見えるものへは安全な答えを返すよう躾けられておりますので」
殿下の笑みが深くなった。愉快そうなのに、愉快では終わらない目をしている。
「名は」
「ルチアナ・ベルモントです」
「覚えた」
その一言が、なぜか背骨の奥にまで冷たく落ちた。
◆
それからの私は、自分が恋愛劇の登場人物ではなく、ひたすら火種を拾って歩く人間になったような気分で日々を過ごした。誤解が育つ前に折り、噂が形になる前に別の形へ流し、小さな善行が消える前に誰かの目へ入るように整える。
セシリアを善人に仕立て上げるつもりはない。彼女はもともと善良で、ただそれが語られないように作られた世界のほうが歪んでいる。私がしたいのは、歪みのせいで彼女が損をする状況を減らすこと、そして私自身が連座で潰されないことだった。
図書室でアリシアが貸出期限に焦っているのを見つけた時も、私はすぐに動いた。彼女が焦れば焦るほど、周囲の善意は手を貸そうとし、その手が絡まって「誰が彼女を追い詰めたのか」という物語が勝手に生成されるからだ。
「その本、私が返しておくわ」
「えっ、でも……」
「大丈夫。返却は手続きが大事で、手続きが大事なことは私が得意なの」
得意というより、得意にならざるを得ない。私は返却を済ませ、図書委員の印と日付が入った控えを受け取り、それをアリシアへ渡した。
「これで安心。控えは持っておいて。何か言われたら見せればいい」
アリシアは控えを見つめ、小さく息を吐き、それから私へ向かって頭を下げた。
「ありがとうございます……ルチアナ様」
その場へセシリアが現れたのは偶然ではなく、世界の必然だろう。彼女は静かな空気を壊さない足取りで近づき、私とアリシアの間にある紙片を見て、眉をひそめた。
「何をしているの」
「必要なことを」
私が答えると、セシリアはアリシアを見た。ほんの僅かに迷う表情が走り、そして彼女はいつもの硬い口調で言った。
「期限は守りなさい。本は、あなたのためだけのものではないわ」
厳しい。だが正しい。アリシアは一瞬きょとんとし、次に真面目な顔で頷いた。
「はい。気を付けます。……ご忠告、ありがとうございます」
セシリアの瞳が僅かに丸くなったのを、私は見逃さなかった。感謝されることに慣れていない人の表情だ。彼女は返事を探すように唇を動かし、結局それを飲み込み、ふいと視線を逸らした。
その瞬間、本棚の陰から乾いた拍手が聞こえた。
振り向くまでもない。ユリウス殿下がいる。理由は知らないが、彼はいつも私の「場の整え方」を見ている。
「面白い」
殿下は短く言って、私の手元の控えをちらりと見た。
「紙を味方につけるのが上手いね」
「紙は裏切りません。人は裏切りますけれど」
「君はどちらかな」
「少なくとも今日は紙の側です」
殿下の笑みが、少しだけ深くなる。私は礼をして、セシリアの袖を引き、図書室から出た。殿下の視線が背中に刺さる感覚が消えないまま、私はセシリアへだけ聞こえる声で言った。
「今の言い方、とても良かったです」
「何が」
「厳しいけれど、正しい。……正しい人は、最後には強いです」
セシリアは小さく鼻を鳴らし、しかし否定しなかった。
◆
問題は、アリシアの友人たちだった。
彼女たちはアリシアを守るために団結し、守るためという名目で誰かを敵に据えたがる。敵がいるほうが、自分たちの正義が輝くからだ。悪意なら交渉できるが、善意はときに交渉を拒む。善意は「私は正しい」という鎧を纏ってしまう。
廊下で呼び止めてきたのは、その中心にいるマルグリットだった。微笑みは柔らかく、声も丁寧で、それなのに言葉の内側には、こちらを試す冷たい針が隠れている。
「ルチアナ様、最近セシリア様がアリシア様へ近づいているようですが……本当に、危険はないのですか」
危険という言葉の裏には、彼女が聞き集めた噂がある。そして噂は、たいてい「誰かの善意」で増殖する。
「危険かどうかは、具体の話をしましょう」
私はそう言って、図書室の控えや、演習での指導記録や、食堂での目撃者の名前を、必要な分だけ挙げた。人は抽象の正義で燃え上がるが、具体の手続きの前では少しだけ冷える。冷えれば、考え直す余地が生まれる。
マルグリットはそれでも引かず、最後に言った。
「では舞踏会の準備を、アリシア様へ押し付けるようなことは」
罠だ。押し付けなくても、押し付けた物語を作られる可能性がある。私は一拍置いて、微笑んだ。
「押し付けません。むしろ、殿下に関わっていただくのが一番安全です」
「殿下……?」
「王太子殿下が正式に準備を支援すれば、それは学園としての行事になります。誰かが『いじめだ』と言い出しても、学園の正式な枠組みの中で処理できますし、あなた方も安心でしょう」
正義の取り巻きたちは、王太子とアリシアの距離が縮まること自体は望んでいる。だからこの提案は、彼女たちの正義を否定せずに、矛先だけを別方向へずらすことができる。
マルグリットは硬い笑みを作って頷いた。
「……素敵な案ですわね」
納得はしていない。だが、今はそれでいい。納得よりも「今日の火種が消えること」が大事な日がある。
◆
卒業が近づくにつれて、私は別の気配を嗅ぎ取るようになった。
学園内の噂の流れが不自然に整い過ぎている。誰かが、偶然の形を借りて意図的に空気を作っている。善意の取り巻きたちが燃え上がるための薪が、都合よく乾いて積まれていく。
私は証拠を集めたが、敵が外にいるなら学園の手続きだけでは届かない。届かないものに手を伸ばすとき、私は必ず自分の指が切れる。
そんな折、夕方の校舎裏でユリウス殿下に呼び止められた。彼はいつも通り静かに現れ、こちらが振り向くより先に、私の抱えていた紙束へ視線を落とした。
「忙しそうだね」
「殿下のほうが忙しいはずです」
「忙しい。しかし君が動くと、学園が静かになる。静かになる場所は視察しがいがある」
視察という言葉が、冗談のようで冗談ではない重さを持って落ちた。王弟がわざわざ学園を見て回る理由は、たぶん噂ではなく政治だ。
「君は、セシリアを守りたいのだろう」
殿下は淡々と言った。私は否定しなかった。否定するほど愚かではないし、肯定するほど無防備でもない。
「守ると言うより、不利益を減らしたいだけです」
「君の不利益も含めて」
「当然です。私は自分の命が好きです」
殿下は小さく笑い、それから唐突に言った。
「簡単な方法がある。君が私の庇護下に入ればいい」
胸の奥がひやりとした。庇護という言葉は甘いが、甘い言葉ほど噛むと苦い。
「殿下、それは庇護ではなく拘束に聞こえます」
「拘束が嫌いか」
「嫌いではありませんが、自分の意思で選びたいです」
殿下の瞳が細くなる。怒りではない。試す目だ。
「君は賢い。だから面白い」
「面白いは褒め言葉として受け取りにくいんですが」
「褒めている。……君が望む形で、君を守ることもできる」
そう言って殿下は一歩引いた。押し込むのではなく、逃げ道を残して包囲するような距離の取り方が、この人の危うさをむしろ強調する。
「卒業パーティで何か起きる」
殿下は断言した。
「君が一人で抱え切れなくなる瞬間がある。そのときは介入する。覚えておきなさい」
私は反論を飲み込み、礼をしてその場を離れた。ありがたいのに、背筋が冷える。救いの手が、いつでも救いであるとは限らない。
◆
卒業パーティ当日、王都の大広間は光で満ち、音楽は甘く流れ、香水と花の匂いが混じり合い、笑い声が絹のように空気を滑っていた。祝福の場のはずなのに、私はずっと「ここが舞台である」という感覚から逃げられずにいた。舞台は、拍手の対象を必要とする。祝福の拍手が用意されているなら、断罪の拍手もまた用意される。
セシリアは深紅のドレスを纏い、その色が彼女の誇りの強さを映し、鋭い瞳の奥には確かに緊張が揺れていた。強い人は無敵ではない。無敵ではないからこそ、強さは尊い。
アリシアは淡い白のドレスで、友人たちに囲まれながらも、どこか落ち着かない表情をしていた。彼女もまた、この夜がただの卒業祝いで終わらないことを感じ取っているのだろう。ヒロインは幸せになるために選ばれるのではなく、選ばれた結果として幸せを背負わされる。
舞踏が一段落し、司会の教師が祝辞を述べかけた瞬間だった。
マルグリットが前へ出た。涙を浮かべた目は真剣で、彼女が本気で「正しいこと」をしようとしているのが伝わるからこそ、私は胃の奥が重くなるのを感じた。正義は、慎重さを欠くと凶器になる。
「皆様……お聞きください。セシリア・フォン・アルデント様は」
大広間の空気が冷えた。視線が一点に集まり、セシリアの背筋がさらに伸びる。私は隣で紙束の重みを確かめながら、声を出すタイミングだけを測った。早すぎれば妨害と取られ、遅すぎれば解釈が固まる。
「アリシア様に対し、数々の嫌がらせを……」
「具体をお聞きしてもよろしいでしょうか」
私は丁寧に言った。大声ではなく、しかし広間の隅まで届くように、語尾を落とさず。
マルグリットが私を見た。彼女は私が「セシリア側」であることを知っている。だからこそ、彼女は手紙を取り出した。
「こちらです。匿名で届きました。セシリア様がアリシア様へ嫌がらせをしてきた証拠だと……」
匿名の手紙。やはり。私は静かに息を吐いた。外にいる誰かが火種を投げ込んでいる。
「その手紙に、具体的な日時と場所が書かれていますか」
「……あります」
「では照合できます」
私は紙束を開いた。日付、出来事、目撃者、教師の署名。私はこの数ヶ月、恋愛劇の観客ではなく監査報告書の作成者として生きてきたのだと、その紙束の厚みが何より雄弁に語っていた。
「水桶の件は殿下の不注意で、セシリア様がアリシアさんを庇いました。図書室の件は返却控えがあり、セシリア様は期限遵守の忠告をしただけ。演習の件は指導記録があり、食堂の件は複数の目撃証言があります」
私は一枚ずつ示した。貴族社会は涙より印章を信じる。印章がある限り、正義の取り巻きたちの正義もまた、少しだけ足場を失う。
広間がざわめき、空気が揺れた。マルグリットは唇を噛み、最後に言った。
「けれど侮辱は……セシリア様はアリシア様を平民と呼びました。あれは、見下しです」
そこは逃げられない。私はセシリアを見た。彼女自身が言葉を選ばなければ、誰かが彼女の言葉を「物語の悪意」に加工する。
セシリアは一呼吸置き、広間を見回し、そして真っ直ぐアリシアを見て言った。
「私は確かに、あなたを平民と呼んだ。それは事実よ。けれど私は、あなたを貶めるためにそう言ったのではない」
言葉は硬い。硬いが、逃げない。セシリアは続けた。
「努力していることは知っている。同じ場所に立つために必要な覚悟も。だからこそ、軽々しく扱われるようなことがあれば許せなかった。私は不器用で、優しく言えない。けれど……あなたを壊したいと思ったことはない」
広間の空気が少しだけ温まった。
アリシアが一歩前へ出た。彼女の目に涙が浮かんでいる。けれどその涙は、怯えではなく、理解に近いものに見えた。
「セシリア様。私も、あなたが怖かったです。でも最近、あなたがただ私を嫌っているわけじゃないとわかりました。……厳しい言葉も、私に向けられたものだったんですね」
アリシアは深く頭を下げた。ヒロインが悪役令嬢へ頭を下げる。その瞬間、舞台装置がきしむ音がした気がした。台本にない場面は、台本を脆くする。
マルグリットが青ざめた。
「アリシア様……」
「マルグリット、ありがとう。守ろうとしてくれて。でも私の気持ちは、私が決めます」
アリシアの声は震えていたが、その芯は強かった。正しさを背負わされた人は、最後には自分で決断するしかない。
王太子レオンハルト殿下が前へ出た。本来ならここで婚約破棄の宣言が落ちるはずなのに、殿下の表情は「裁く者」のそれではなく、むしろ「場を収める者」のそれに変わっていた。
「本日この場で、誰かを断罪する必要はない」
殿下ははっきり言った。
「セシリアが悪意でアリシアを貶めたという証拠は見当たらない。以上だ」
私は心の中で、長く息を吐いた。終わった。少なくとも、最悪は避けられた。
そう思った瞬間、大広間の扉が開き、冷たい風が滑り込んだ。
ユリウス殿下が、堂々と歩いてくる。
「見事な騒ぎだ」
殿下は短く言い、そして淡々と続けた。
「ただし補足がある。匿名の手紙を書いた者、噂を流した者、この場を煽った者がいる。……王家として、放置できない」
護衛が一人の男を連れてきた。教会関係の外部講師として学園に出入りしていた男だ。彼の顔色は悪く、視線は泳ぎ、しかし口元には「自分は正義の側だ」という薄い自負が残っているように見えた。
「この男は、学園内で噂を流し、対立を煽り、今日マルグリットたちへ手紙を届けた。善意は利用しやすい。……だから私は、手紙の出どころを調べた」
マルグリットが震えた。彼女は自分が悪いと思っているわけではない。ただ、自分の正義が誰かの道具だった事実が、彼女の足場を崩したのだ。
男は護衛に連れ去られ、広間が大きくざわめいた。
私は小声で殿下へ言った。
「殿下、あとは私たちで片が付いていました」
「君が一人で抱え込むと、どこかで倒れる」
「倒れていません」
「顔色は倒れかけていた」
余計なお世話だと言い返したいのに、言い返すとこの人は喜ぶので、私は黙ることにした。
ユリウス殿下は広間へ向けて言った。
「ルチアナ・ベルモント伯爵令嬢。君の働きは見事だった。君を不当に責め立てる者がいれば、王家への敵対とみなす」
どよめきが起きる。私は胃の奥が嫌な予感で固まった。褒賞は、たいてい面倒を連れてくる。
そして案の定、殿下は追撃を放った。
「私は、彼女を私の側に迎えたい。……正式な求婚の手続きを進める」
広間が爆発したようにざわついた。セシリアが目を見開き、王太子が咳き込み、アリシアが口元を押さえ、マルグリットは今度こそ失神しそうな顔になった。
私は固まったまま、それでも最低限の礼儀だけで声を絞り出した。
「殿下、それは……いまこの場で宣言する必要がありますか」
「必要だ。君を守るという意志は、曖昧にすると利用される」
「私の人生が利用されています」
「それはまだ利用ではない。……これからだ」
最悪だ。さらりと最悪を言う。私は深く息を吸い、広間へ向けて声を張った。
「皆様、誤解なきよう。私は殿下の婚約者ではありません。殿下が『そうしたい』と言っているだけです。私の返事は、これからです」
言い切った瞬間、少しだけ空気が落ち着いた。貴族社会は「手続き」の言葉に弱い。手続きと言えば、すぐに延期と保留が成立する。
セシリアが私の袖を引いた。
「ルチアナ……あなた、いつの間に」
「私も知りたいです。できれば昨日の時点で知っておきたかった」
セシリアは一瞬だけ硬い顔をして、それから小さく笑った。
「あなた、本当に……場を動かすのね」
「動かしたのは場で、私は滑っているだけです」
ユリウス殿下が手を差し出した。音楽が再開し、舞踏の輪が広間を満たし始める。私は逃げるか、受け流すか、交渉するかを一瞬で計算し、逃げた場合の追跡性能の高さだけは確信できたので、諦めて手を取った。ただし握手のように固く、こちらの意思が折れていないことが伝わる握り方で。
「殿下、私には条件があります」
「言いなさい」
「セシリア様に害をなす者を二度と近づけないこと。私の自由時間を確保すること。……それと、胃薬」
殿下はほんの僅かに目を瞬かせ、次に愉快そうに笑った。
「いい。すべて叶えよう」
「胃薬は私が飲みます。殿下は飲まないでください」
「君が飲むなら、私も飲む」
「いりません。仕事をしてください」
殿下は楽しそうに笑い、私はため息をつき、それでも踊った。踊りながら私は、少し離れた場所でセシリアが立っているのを見た。深紅のドレスは揺れ、彼女の表情はいつもの強さを取り戻し、そしてその視線の先には王太子がいる。二人の間には、以前より柔らかい空気が確かに流れていた。
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。ここへ来た理由は、これだ。推しが推しのまま、壊されずに立っていること。その未来を、ほんの少しでも確かにすること。
ユリウス殿下が低い声で言った。
「君は、誰かを救うために動くとき、自分が救われることを忘れる」
「忘れていません。ただ優先順位が違うだけです」
「なら聞こう。君の優先順位の次は、誰だ」
私は一瞬だけ言葉に詰まり、それから苦笑した。
「……まずは私の睡眠です。世界平和より優先です」
「難題だ」
「難題でも解決してください。王家の仕事です」
殿下が笑い、私も笑った。笑うしかない。舞台装置はいつだって結末を欲しがる。なら私は、結末が勝手に私たちを壊さないように、今日も手続きと紙と、少しの図太さで抗うだけだ。
断罪の拍手は、祝福の拍手にすり替わった。
ただし私は、自分の人生まで舞台の中心に引きずり出されたことを、まだ完全には受け入れられていない。
世界って、どうしてこうも、余計な盛り上げ方が上手いのだろう。




