違和感
有薗凛①
午後12時30分、給食後の昼休憩に6年2組前の廊下で、親友の中川智香と立ち話をするのが毎日の習慣となっている。廊下では他の生徒が行き交っているからだ。その喧騒の中であれば、内密な話もしやすいのである。とは言っても、その喧騒の9割は男子が走り回るせいなのだが。
終業式を明日に迎えた夏休み前最後の昼休憩、7月20日の今日も周囲の喧騒の中、この2人の空間だけは静寂に包まれていた。
どうすれば子供ができるのか。
この謎は深まるばかりだ。親や親戚に尋ねても、子供が知る必要はない、とはぐらかされてしまう。そんな話をダメもとで同じ子供である智香に聞いてみた。すると
「男の人のアレをさ、私たちのココにこうするのをね」
智香が身振り手振りをする。
「セックスっていうらしくて、それをしないと子供が出来ないんだって」
「せっくす?なにそれ。それになんで裸なの。そんなことするぐらい裸じゃなくたってできるじゃない」
智香の発言に疑問をぶつける。
「そんなの知らない。でもお姉ちゃんのスマホをこっそり見てみたらそんな話をLINEで友達としててさ。そんで検査薬ってやつを使って赤ちゃんができたかどうか見るわけ。検査薬は薬局で買えるらしいよ」
「ふーん」
気のないふりで適当な返事をしたがその裏で様々な考えが彼女の頭を駆け巡った。好きな人同士でなぜそんな変態みたいなことをするのか。
私にも隣の3組に好きな人はいる。一緒にいたいし手もつないでみたい。だけど裸でそんなことをしたいとも思わないし、したくもない。
でも私が生まれてきたのはお父さんとお母さんがいたからで…。
違う。お父さんとお母さんはそんなことをする人じゃない。私が存在している以上「せっくす」については認めなくてはならないが、少なくとも両親が裸でそんなおぞましいことをするはずがなかった。話題を切り替えよう。考えたくもない。
「そんなことよりさ、トモは明日からの夏休みなにするの?」
トモとは中川智香のあだ名である。
「あたし?んーとくになんも考えてないなあ。あ、でも伊織達が急だけど8月の最初の方でディズニーランドいく予定しよーって話してたから凛にも一応伝えといてって言ってたなあ。でも、やっぱり凛は行かないんでしょ?」
「うん…。ごめんね」
夏休みは単身赴任中の年に2、3回しか帰って来れないお父さんが必ず帰ってくる時期。少ないときは年末の1回だけしか帰ってこない、なんて年もあった。今年お盆は帰って来れるとは聞いているが正確な日付までははっきりしない。なのでお盆を含めたその前後の時期に予定を入れる訳にはいかなかった。
「毎年のことだもん。誰も気にしてないよ。でも周りで凛ぐらいだよー。お母さんならまだしも、いまだにお父さんが大好きなんて言ってるの」
「あはは。そうかな?」
「そうだよー。あたしのお父さんなんてクサいしキモいし、このあいだなんて洗濯物一緒にしないでって言ってやったもん」
「えー、ひどーい」
そんな会話をしながら、私はなぜ周りの子たちと違って父親を嫌悪しないのか考えていた。単純に会える頻度が少ないからだろうか。友達の中で父親が単身赴任しているのは私の家だけだ。毎日顔を合わせていると反抗していくものなのか。なにか足りないような気がする。私がお父さんを好きなのは、会える頻度が少ないからだけではないなにかが。もちろん周りのみんなも心の底から父親を嫌いなわけではないとは思うが。
あれのおかげかな―
4年生の時、クラスでいじめられている女の子がいた。特別仲が良かったわけでもなかったが見て見ぬふりをするのはとてもつらかった。でも、庇えば自分がいじめられてしまうかもしれない。そのことを年末に帰ってきたお父さんに相談した。
「こういうのって先生に相談したほうがいいのかな。」
「難しいな。少なくともそんなことをしたところで根本的な解決にはならない。それにどうせまた別の形でいじめられる。」
「じゃあどうすればいいの?」
「いいか、凛。こういう問いに正解はないんだ。」
「どういうこと?」
「つまり自分が一番納得できる形を選択すればいいってことだ。だれだって自分が一番かわいいもんだ。いじめられている子を庇うことで自分に火の粉が降りかかるなら見て見ぬふりをする子がほとんどだと思う。それはそれで間違っちゃいない。そうすることで自分の安全が保障されるんだからね」
「そんな…」
「凛だって自分がいじめられるのが怖いから父さんに相談したんだろう?」
「うん…」
そうだ、結局は自分がいじめられたくないから。そう考えたら悲しくなった。自分はこんなに汚い人間だったのかと思えてならなかったからだ。苦悩を凝縮した液体が涙袋に溜まっていく。そんな私の気持ちを察したかのように、お父さんは声のトーンを下げて続けた。
「でもな、お前にはお父さんがいるだろう。たとえお前がいじめられるようなことがあってもその時は会社から抜け出して助けてやる。だからもしお前がいじめられそうになったときは必ずお父さんにいうこと。それを守れるなら凛のやりたいようにするんだ。わかったな。その子にとって今一番大切なのは親でも先生でもない。自分を支えてくれる友達なんだ」
「……うん」
お父さんの言っていることは4年生の自分には少し難しかった。敢えてこのような言い方をしてくるのだ。けれど言いたいことは何となく伝わった。勇気が持てた。相談する前と後で自分が別人のように思えたのだ。こういった話題に関してだけは、私を子供扱いせず接してくれる父親というものに対し、全力で応えたかったというのが大きいのかもしれない。その一心で動いた結果、女の子をいじめから救うことができた。多少の「火の粉」というのは降りかかったが、お父さんのくれた言葉が私を支えてくれた。
私はこの時から、父親とはこういうものなのだと幼心に確信した。また、自分が生きていく上で大切のものをくれたお父さんに対し、心の底から尊敬の念を抱いた。
これが今でも自分の記憶の中に焼き付いているから、父親というものに嫌悪感を抱くことがないのだろうか。逆に言えばそういう父親を確立できない子たちが、ありきたりな嫌悪感の類を反抗期という形で発現させていくのかもしれない。
でもそんなものは、たとえ分かったところで何も変わらない。私がお父さんを好きなままなのは変わらないし、この気持ちさえあれば十分だった。一つ気になるのは久しぶりに帰ってきたお父さんが、新鮮というか、身近に感じるはずなのに近寄りがたいような、なんとも形容しがたい感覚が昔からあることだ。それは以前、小さいときから好きだった俳優に街中で遭遇したが声をかけづらかったあの感覚と似ているように思えた。それをお父さんに会う度、感じていたのだ。にも拘わらず毎回娘として正常に接することができたのは、お父さんのあの優しい匂いがあったからに他ならない。昔から変わらない、恐らくは物心つく前から嗅いでいたからだろう。なににも例えようがないあの優しい匂いは、近寄りがたい感覚を一気に消し去ってくれた。
昼休憩が終わりに近づき運動場で遊んでいた3組の男子が私たちの前を通り過ぎ、教室へ入っていく。
「凛、どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
なんでもなくなかった。彼がいた。3組の集団の中ならいると思い、目で追いながら探していたのだ。それに、彼と目が合ったような気がして嬉しくなった。
お父さんが帰ってくるのはいつだろう。今年は3組の稲垣くんのことでも相談してみようか。男の人にしか分からないこともあるだろう。期待は膨らんでいった。
有薗凛②
8月10日、午後6時18分、お父さんが帰ってきた。玄関で靴を脱ぐその姿を見ていると、あの有名人に会っているかのような近寄りがたい雰囲気があるのだが、近づくとわかるあの優しい匂いが全てを払拭してくれるおかげで抱きつける。
「おかえりっ」
「ただいま。元気にしてたか」
「うんっ。早くご飯食べよー。話したいことたくさんあるんだからー」
「そうかそうか。それよりお母さん居ないのか?」
「うん。なんか急用ができたかなんかでさっき出てっちゃったよ。会わなかったの?」
「会わなかったな」
「ま、いいじゃん。すぐ戻るって言ってたよ。10時頃とかって。そんなことよりご飯食べよ。話がしたいの」
話したいこととはもちろん隣のクラスの稲垣くんについてだ。これに関しても4年生の時と同様明確な答えなんてないのだろう。ただ肝心なところで勇気が出せない自分の性格を考えるとどうしてもお父さんの意見を仰ぎたかった。お母さんからは「当たって砕けちゃえ」などの安易な返答しかこないからだ。お父さんとは、色々なことを話した。年末以来のお父さんは懐かしくて、暖かくて、何でも話せるような気がした。来年から中学生になること。勉強のこと。友達のこと。そして、稲垣くんのこと。そんなお父さんに違和感を感じたのは稲垣くんの話が終盤に差し掛かる頃だった。
「まあそういうわけで5年生からはクラスが別々になっちゃって、あまり関わりがないんだけどね」
「そうか」
なにか浮かない顔をしている。どうしたんだろう。
「でもね。4年生の時の事件も稲垣君は周りに流されずに私の味方をしてくれたんだよ。表立って庇ってくれたわけじゃないんだけどね。私が泣きそうになった時、なぜか傍にいてくれてさ。そこから何となく気になり始めちゃって。少しヤンチャだけど凄く優しい人なんだって」
浮かない顔をしたままのお父さんが口を開く。
「でも彼が表立って助けてくれなかったのはお前への好意より周りが怖い恐怖の感情が勝っていたからじゃないのか?」
予想外な返答だった。少なくとも今までのお父さんなら私の好きな人を貶すようなことは言わないはずだった。お父さんの顔は険しいままだ。
「で、でもお父さん前にも言ってたじゃん。こういうのに正解はないって。あれが稲垣君の正義の形なんだと私は…思う。それにきっと稲垣くんは私の事が好きで味方をしてくれてた訳じゃないよ。悲しんでいる人をほっとけないだけで、好意とかそういうんじゃないんだよ…」
「…そうか」
お父さんはにっこりと笑った。ただ、その笑顔はいままでのお父さんとは違う、何か異質なものを感じた。食卓の会話はそれから一切なくなった。
食器を片付けて部屋に戻り電気を消し、倒れるように布団へ覆い被さった。
この違和感はなんだろう。だけど、お父さんの言ってることも分かる気がした。私の考えすぎかな。きっと疲れているんだ。早く寝てしまおう。
思考を塞ぐように布団を被る。すると、突然部屋の扉が開いた。布団を押しのけ、扉の方を見ると、廊下から漏れる光とともに逆光によって黒く染まった男が佇んでいた。
有薗凛③
その黒い影の正体が父親だと気づくのにさほど時間がかからなかったのは、影の輪郭による見慣れたシルエットと、この家に父親以外の男がいるはずがないという確信に足る要素があったからだ。
いつもなら「どうしたの?」と声をかけるのだがそれができない。それを許さぬ空気が扉を閉められたのと同時に部屋中に充満していた。
第一、お父さんなら部屋に入るときノックをするはず。
自分が子供だというのは百も承知していたが、もうすぐ中学生なのだ。あの優しいお父さんがそれを怠るはずがなかった。
暗黒となった部屋の中でうっすらと影だけがみえる。影は徐々に近づいてきて手を伸ばし、私の両腕を掴んで布団に押さえつけた。
智香から聞いた低俗な男女の絡み合い。「せっくす」という呼び方だった。聞くだけでおぞまじかった。見たこともない未知の領域であるはずなのに、これからこの男にされるであろう行為は、恐らくそれであるという確信があった。また、このせっくすを私たちがするということは取り返しのつかない、なにか恐ろしいことなのだという予感が頭を離れない。男の手が服の中へと侵入してくる。
「やめて」
何度も声を出しているはずなのにその音が喉から発せられることはなかった。
あまりの衝撃の連続に恐怖と理性が別々に離れていくのがわかった。
怯えている自分を上から見下ろす様な感覚だった。幽体離脱という言葉を当てはめるなら今の自分が最適かもしれない。他人事のように、冷静に今の状況を分析できた。そして理解する。自分が久しぶりに見る父親に感じていた有名人に会っているような感覚の正体。それは「他人」だった。あまりに時間を空けすぎたせいで自分は父親に対して他人を感じていたのだ。今まで反抗期がなかったのは他人という距離感があったから。また同様にこの男も自分に対して他人を感じていたはずだ。でなければ私が稲垣君に対して抱いていたあの、他人だからこそ存在するであろう恋愛感情を娘である自分に抱くはずがないのだから。
あまりに自分が冷静すぎて現実味を欠いていたせいか、これが夢なのかもしれないと思いはじめた。
そうだ。これは夢。目が覚めればいつものお父さんが。いつもの朝が。いつものご飯が。そう願って目を閉じても、この男から放たれている優しい匂いが、痛みが、私に現実を与えていた。
稲垣颯太①
9月4日午後1時ちょうど、給食後の昼休憩が終わり、耳に障る高い音と共に校内放送が流れた。
「1階の理科室で火災が発生しました。先生の指示に従って避難してください」
全校生徒が残暑の厳しい暑さの中、運動場へと集められた。全学年がクラスごとに綺麗に並んでいる様は毎週早朝の学年集会を思わせた。
綺麗に並ぶ必要なんてあるのだろうか。実際はこんなスムーズに動けるもんじゃない。時間がかかるだけの無駄な動きだ。東山小学校毎年恒例の行事だが、夏休みが明けてすぐのこんな暑い時期に避難訓練を実施するのは頭が悪いとしか思えなかった。6回目ともなると思うことは沢山ある。ただ、苛立ちの原因はそれだけではなかった。各クラスの教師達が名簿表を所持していたのだ。計画に支障をきたしたのが分かった途端、集中の糸が切れて我に返ると自分の服が重くなっていることに気づいた。汗でぐっしょり濡れていたのだ。尋常ではない量の汗だった。照りつける灼熱の太陽が精神をジリジリと追い込んでいくる。こんな状態では思考もままならない。もう、諦めてしまおうか。
今朝まで遡る。
「颯太、ご飯よ。そろそろ起きなさい。早くしないと冷めちゃうよ」
キッチンの方から母親の声が聞こえてくる。とても眠い。布団から出たくなかった。瞼の上下が磁石のように離れないのだ。夜更かしした訳ではない。どんなに睡眠を摂っても寝起きから目を覚ますという行為は拷問に等しい。だがそうも言ってはいられない。あと10秒でも粘ろうものなら母親の優しい呼び声が怒号に変わってしまうからだ。
「いま行くよー」
重い布団を押しのけベッドを降りる。鈍い足取りで食卓へ向かい、キッチンに立つ母親と顔を合わせた。
「おはよう」
「やっと起きたね。今日も部活?」
「うん。5時半に終わるからいつも通り45分くらいに家着く感じかな」
「そっか」
ここまでは毎朝お決まりの会話だ。自分の帰宅の時間を知ったところで何がある訳でもない。もはや聞くのが習慣になっているのだろう。
「そういえば学校からのお手紙とか出しなさいよ。毎日貰ってる筈でしょう?お母さん学校で何があるとか全然わかんないよ」
小言が始まった。このままだと話が長くなりそうだ。
「わかったわかった。学校に全部置いてきちゃってるから明日渡すよ。もう行ってくる。ごちそうさん」逃げるように家を出た。扉を開けた時の外の温風が、空調の効いた屋内との温度差のせいで、やけに不快に感じた。
実際、学校にプリントは無かった。ランドセルの奥に詰め込まれてクシャクシャになっていたのだ。クリアファイルに入れろと口を酸っぱくして言われていたものだから、そんな状態で渡したりでもしたら、さらに小言が増えてしまう。毎日のように小言を言われてうんざりしている中で、さらに小言を増やしたくはない。
玄関を出てすぐのところで準備運動をする。それは陸上部の練習も兼ねて登校の時間も走るようにしていたからだ。学校までの距離は1.5km程ある。この程度の距離ならペース配分を考えるまでもない。8時23分に家を出て8時半開始のホームルームに間に合うのは快感以外の何物でもなかった。信号に引っ掛からないルートを最短で進み、29分に学校の門をくぐる。肺が縮んでいくのを感じながら下駄箱で靴を履き替え、全速力で階段を駆け登り、6年3組の教室へ入った。扉の傍で、膝に手をつき肩で息をする。同時にホームルームの鐘が鳴り、後ろで人の気配がした。
「毎回ギリギリなのはよくないね」担任教師の仙崎俊平が言った。
「すんませんザキ先生。でも間に合ってるから許してよ」
「次からは席に着かなきゃアウトだよ」
「りょーかいです」
クラス全体で笑いが起きる。仙崎はパンパンと手を鳴らして笑いを収めてから話を始めた。
「前にも話したけど今日は避難訓練だね。早下校になるから2時に迎えに来てもらうことをちゃんとお母さんかお父さんに伝えたかな」
突然何を言い出すんだと思ったが今日は避難訓練だったのか。すっかり忘れてしまっていた。
『はーい』
仙崎の問いに対して自分以外のクラス全員が揃って返事をした。
一週間前から言われていたのだ。忘れている奴なんていないだろう。仲間を探すように周囲を見渡す。やはりそんなマヌケはいない。それを確認した後、深くため息をついた。仲間がいないのでは名乗り出づらい。避難訓練の実施日と、親が迎えに来る時間は保護者への手紙にも書いてあることだ。手紙を親に渡すことを怠らなければ自分と同じ状況に陥る人間はいないはずだった。逆にいる方がおかしい。先の母の小言が頭の中でこだました。
「おい、颯太」
後ろから声がした。なに、と言いながら振り向くとクラスメイトの荒川甚助が嬉しくてしょうがないといった顔で話し始めた。
「避難訓練まじでいいよな。早下校だし部活無くなるし。帰ってから何しようかなぁ」
自分の深刻な悩みとは裏腹に能天気な甚助が少し煩わしかった。
「部活が無くて嬉しいのか。そんなんだから俺に100mでも勝てないんだよ」
少々棘のある言い方になってしまい失言だったと後悔した。腹を立てられても文句は言えない。
「おーそうかいそうかい。そらぁ悪うござんしたねぇ。そういや今日も給食のミカン、俺にくれよな。颯太嫌いだろ」
「え、あぁいいよ」
機嫌が良いからか甚助は怒らなかった。それが煩わしさを更に増幅させるものになる。
「うちのクラスは欠席者少ないからなぁ。そうなると給食のデザートが余らないんだよな。そういや2組の立川が毎日牛乳を余分に飲めるとかほざいてやがった。なんでも女子が1人、夏休み明けから欠席してるらしくてさ。ちくしょう、なんて羨ましいんだ」
「ははは、そうなんだ」
少し気になったが誰が欠席しているかは訊かなかった。話が長くなりそうだからだ。甚助も俺が質問してくることを見越しているのだろうが、こんなことで時間を潰してる暇はない。とりあえず考えてみよう。
おそらく迎えが来ないからという理由だけで一人帰る訳にはいかないだろう。これは避難訓練だ。迎えに来てもらうという行程までが訓練の一環であり、教師たちにはそれを見届ける義務があるのだ。いや、訓練なら前もって親に下校の時間を伝えるというのもおかしな話だ。それができるなら、予め災害が訪れるタイミングを分かっていることになるのだから。我ながら感心できる理屈だ。かといって「だから僕はお母さんに伝えませんでした」が通るものでもない。
あのトイレの窓を使うか─
プールの近くにある女子トイレ。そこは校舎の反対側に位置しており、学校の敷地の端に建っていた。トイレを奥に進んだ所にある窓へ登ると、学校を囲っている通常では届かない高い柵に足をかけることができ、敷地の外へ出られるのだ。トイレ掃除をしている時に見つけたのだが、実際に使う場面がなかった。そもそも学校を抜け出す必要なんてなかったし、たとえ成功してもあとでバレてしまう。それに女子トイレだと誰かがいるかもしれない。もし入っている女子に見つかりでもしたら、それだけで周りから変態呼ばわりされそうだ。
だが、避難訓練によって運動場へ全学年が集合し静まり返っている、あの一種独特ともいえる場を乱してはいけないような雰囲気なら、わざわざトイレに行く奴なんていないだろう。女子ならなおさら、そんな目立つ真似をしてまでトイレに行きたいとは思わないはずだ。もしいたとしても低、中学年は校舎側のトイレのほうが近いし、高学年の中でも背の低い前列の方なら、それもまた校舎側のトイレが近い。
つまり全学年の左端に位置する6年3組でありながら背の高い後列に位置する自分は、偶然にも校舎の反対に位置するプール側のトイレへ行くことがなんの不自然もないのである。安易な思いつきではあるが穴も見つからない。トイレにさえ行ってしまえばこっちのものだ。
これしかない。覚悟を決めてこの作戦に穴はないか、脳内であらゆるパターンを試行した。
稲垣颯太②
「先生さようならー」
「はいさようならー。気をつけて帰りなさい」
仙崎が名簿表を挟んだバインダーにペンを向ける。
やはり下校していく生徒に漏れがないようにチェックしているんだ。これだと脱出できたとしても無駄じゃないか。後から発覚して怒られるだけだ。毎年見てきたはずなのになぜ名簿表のことを考えなかったんだろう。
「ははは…」
あまりに自分の計画が杜撰だったので急に可笑しくなった。
だが今更正直に名乗り出ることもできない。朝から今まで報告する時間は十分あったのだ。さらに怒られるはずだ。なぜ今まで黙っていたのか―と。
もう、あのトイレから出てしまおう。
半ばやけくそだった。どうせ怒られるなら少し冒険してみたい。そんな気分だった。仙崎は前列のほうにいた。つまり、こちらから仙崎のいる所へ出向くと校舎側のトイレのほうが近くなってしまうのだ。なので腹痛のふりをして手を挙げ、こちらへ来させた。
「ザキ先生、おなかが痛いのでトイレに行ってもいいですか」
「大丈夫?ひとりで行けるのかな」全く疑う様子はない。これならいける。
「はい、大丈夫です」
立ち上がり腹痛のふりをしながらプール側の女子トイレへ、誰もいないはずなので迷うことなく駆け込んだ。一瞬ミカンの匂いがしたような気がした。甚助の食べていたミカン汁の飛沫が自分の服に飛んできたのだろうか。
そんなことを考えながら奥の個室の前へ行き、取手の凹凸を足場にして扉をよじ登り窓へ飛び移る。体勢を整え、窓枠から柵へ乗り移ろうとしたその時、個室のロックの外れる音が、無音であるはずの女子トイレで響いた。
まずい―
誰もいないと思って油断した。せめて個室にカギがかかっているのかだけでも確かめておくべきだったんだ。この態勢ではすぐに動けない。何を言われても言い訳ができない。猶予のない時間の切れ目に覚悟を決めて個室の主と相対することにした。
不自然なほど緩やかに開いた扉から出てきたのは隣の組の…たしか、アリゾノとか言ったか。なぜこのタイミングでこいつがいるんだ。彼女は扉の前で佇んでいた。女子トイレに男子がいることに多少は動揺したのだろうが、少し目を丸くしただけで何か言うわけでもなかった。アリゾノと無言で目を合わせ静止する。友人達が、まず顔がいい、と言っていたのは分かる気がした。小さな顔にも関わらず大きな瞳に加え、透き通るかのような白い肌はガラスを連想させた。そして長く綺麗な髪。確かに万人受けしそうではある。だが、そんなやつが集会中のあの空気の中、わざわざ手を挙げてまでトイレに来たのか。目立つだろうになぜ気が付かなかったんだろう。仙崎の持ってるバインダーに気を取られトイレに行く生徒を見逃していたせいだろうか。
自分は特段彼女に好意を抱いているわけではなかったが、変な誤解だけは避けたかった。声を上げられたら一巻の終わりだ。そう思い口を開こうとしたとき、アリゾノが言った。
「なにか知らないけど抜け出すの?黙っててあげるから行きなよ」
思いもよらない発言だった。その声は妙に落ち着いている。
「俺が覗こうとしているとは思わなかったの」
「覗こうとしている人が窓から出ていくのかな。それとも稲垣君は本当に覗こうとしてこのトイレに侵入したの?」
慌ててかぶりを振った。言われてみれば確かにそうだ。そんなことよりアリゾノが自分の名前を憶えていることが意外だった。
「違う、違うよ。それもそうだな。ありがとう、恩に着るよ。まあどうせ明日怒られちゃうんだけど」
窓枠から手を放そうとしたときアリゾノが、片手を後ろに回していることに気づいた。
「その左手、何か持ってるの?」
アリゾノは素っ気なく
「別に」
即答だった。この食い入るような返事の瞬間、アリゾノの顔が歪んでいるように見えた。
こいつ雰囲気変わったな。
以前同じクラスだったのは4年生の時だ。たしか、いじめられている女の子を庇っていた。正義感が強い溌剌とした当時の印象とは、あまりにかけ離れていたので別人かもと思い彼女の胸についている名札を見た。そこにはしっかりとプラスチックに黒い無機質な字で「有薗」と刻まれている。二年間でこんなに変わるものなのか。いや、夏休み前に廊下で見かけたときは他の女子…そう、中川だ。あいつと楽しそうに話をしていた。その時の有薗は二年前と変わらないままな印象を受けたのだ。この違和感は何だろう。
その違和感に喚起されるかのように、最近2組で夏休み明けから欠席している女子生徒がいる、と言っていた甚助の言葉を思い出した。そのことを質問しようとしたがすぐに考えを改めた。そんなことをしている暇はない。自分は急いでいるんだ。
でも、それだけじゃない。なにか問うてはいけないような、そんな雰囲気が彼女の中から滲み出ていたというのが大きかった。
稲垣颯太③
避難訓練を抜け出し学校を後にしたのはいいが、急いでいた割に家へ帰っても特に何もすることがなかった。いつもなら陸上の部活動があるから帰宅は本来17時半になるはずだったからだ。なので帰り道、少し寄り道をしたところにある草の手入れがされていない駐車場で時間を潰していた。そこは不規則にススキの葉が生え散らかり半ズボンで入ろうものなら、たちまちふくらはぎや太腿が切れてしまうような場所だった。代わりにその先は大好きな昆虫の世界が広がっているのだ。このために夏場のこんな暑い時期でも毎日長ズボンを穿いているといっても過言ではない。
10分程かけて採集した成果はオンブバッタ1匹(バッタのオスメス2匹)と普通バッタのオス1匹の計3匹だった。オンブバッタとはオスがメスの上に乗っかった状態のことを指している。交尾をする時このような体勢になるらしい。(実際のオンブバッタは交尾中じゃなくてもおんぶ状態だが小学生の颯太にはそこまでの知識はなくおんぶ状態のバッタを一緒くたにそう呼んでいた)
これらを虫かごの代わりにランドセルに常備しているビニル袋へ入れ、駐車場を出ようとしたとき、草むらに隠れ見えづらくはあったが、なにか本のようなものが落ちているのに気づいて足を止めた。横目ながら草むらに隠れていたそれに気づけたのは、緑で彩られた自然のなかで、明らかに不自然な人工物の色を放っていたからに他ならない。
「なんだこれ」
近づいて手に取る。雑誌だった。ただ、この雑誌が通常よく目にするそれとは一線を画すものであることはすぐに分かった。表紙に露出度の高い女が写っていたからだ。ほぼ全裸の様なものだった。その女を囲うように様々な読めない漢字が書き連ねてある。ふざけた格好をしている割に真剣な表情をしているのが印象的だ。これが大人向けの雑誌だと気づくのに時間がかからなかったのはその中に「エロ」という文字を見つけたからだ。
多少の興味と中を見たい気持ちはあったが、こんなところを友達に見られでもしたら、次の日からクラスで変態扱いされてしまう。この場所は友達にも教えてあるのだ。それだけは避けたかった。高ぶる感情を制し、すぐさま本を元の場所に戻して逃げるようにその場を去った。
自宅に到着し、玄関のドアノブに手をかけた。すると計画の成功に安堵してか、今日の行いを冷静に振り返っていた。
あんなに必死になって学校の脱出を試みたものの、いざ成功してしまうとなんて虚しいものなんだ。結局明日には名簿表にチェックが入っていない「稲垣 颯太」の名前に仙崎が気付いてしまうというのに。いや、それなら今日か。消えた生徒の安否を確かめるべく自宅に仙崎が電話をかけてくるのか。もしそうなれば母親から何を言われるだろうか。
結局嘘をついてもいいことなんてないか―
ドアノブに手をかけたのはいいが、回すことができなかった。この手を回せば家中に音が伝わる。そうなれば後戻りができない。
不意に昔のことを思い出していた。それが母親のことを想ってか、そうでないのかは定かではない。
「いい?人間っていうのはね、多かれ少なかれ必ず間違いをするようにできてるの。でもね、その後が大事なの。それはね、その間違いを隠さないこと。隠すってことは嘘をつくってこと。嘘をつくと回りまわって人に迷惑をかけたり傷つけたりすることになるの。わかる?」
「うん。ママのお皿割ってたことだよね。隠しててごめんね。」
「うん。でもね、そんなことはどうでもいいの。ママが一番怒ってるのは颯太が怪我をしたこと。颯太が隠さなければママがしっかり破片を片付けることができて、颯太が足を切ることもなかったんだよ?それはママにとって一番辛いことなんだから。だから今日から嘘はつかないでね。約束だよ?」
「…うん。」
そのあと泣きながら謝り母親に抱き着いた。そしてこれ以降、母親を傷つける嘘だけは一切つかなくなった。
その母親が今日のことを知ったら怒るだろうか。いや、その前に悲しむだろう。まず自分のサプライズな帰宅を喜ぶはずがない。
自分にとって母親に怒られるより、小言を言われるより、悲しんでいる姿を見るほうが何倍も辛かった。
やっぱり引き返そう。学校に戻って今日のことをすべて白状して先生に謝ろう。そう思いドアノブから手を放そうとした時、家の中から聞き慣れない断続的な音が聞こえてきた。
それが単純な音だったなら立ち止まりはしなかっただろう。足を止めたのは、その正体が音ではなく人間の声だと気づいたからだ。そして、もしそうならばただ事ではない、自分の知らない何かが起きていることを確信させるものだったからに他ならない。
誰か判別のつかない聞いたことのない声。高い声だ。こんな声が人間から発せられているとは思えなかった。だがたしかに自分の家から聞こえていた。なにが起きているのか確かめるべくおそるおそる裏庭へ回る。裏庭の窓の鍵はいつも通り開いていたので音を立てずそこから侵入し、二階へ上がる。声は両親の寝室から聞こえてくる。ドアが半開きになっていたのでそこから中を覗いた。
そこではベッドの上で男と女が裸で重なっていた。そして恐らくではあるが音の正体はその女から発せられていた。
初めて見る光景に最初はひどく狼狽した。しばらく経ってから冷静に行為を観察していると、これが昆虫でいう交尾なのだとすぐに理解できた。それは以前親戚の集まりで「どうやって子供ができるのか」という質問した時の大人たちの反応が、子供である自分には到底説明できるものではないのだと、目の前の光景を見て理解したからだ。それに昆虫と同じく子供を産む以上、人間にも交尾という概念が存在していることは容易に想像がついていた。また、男が女に上から覆い被さるその様は、オンブバッタのそれと非常に酷似しているように見えた。だが、こんなことがなぜ自分の家で起きてるのかは全く理解できなかった。脳がその先の思考を許さないのだ。父は仕事で週末にしか帰ってこないし、母も出かけているみたいでいないようだからそのまま観察を続けた。それ以外に選択肢は無い。
女の顔は歪んでいた。何かを必死で耐えているようでもある。男は裸のくせに迫真に迫るような表情をしている。背中に傷があるのが印象的だ。やはり二人とも知らない人間だ。次第に男の動きが速くなる。女もそれに合わせ断続的な声が速くなっていく。やがて二人は何かに達したかのような瞬間を迎え脱力した。それを見届けた後、自分の下半身に妙な変化に気付いた。その変化とともに襲ってくる妙な高揚感が次第に恐怖へと変わっていく。その恐怖に背中を押されるように、慌てて荷物を抱え家を出た。ここに居てはいけない、そんな声が聴こえたような気がしたからだ。
気づけば先の駐車場であの雑誌を抱えていた。家の中で繰り広げられていた行為の真実がこの中にあるような気がしてならなかった。表紙には変わらず露出度の高い女がふざけた格好にそぐわぬ真剣な表情で写っていた。おそるおそるページをめくる。やはり男と女が交尾をしていた。家で見た光景とは違い、様々な体勢で交尾をしているのが印象的だ。女の顔は歪んでいた。表紙の女とは別人だろう。表紙に採用されているのに中にいないのは何故だろう、と不自然に思った。
次第に先と同じ下半身の高揚感が自身を包んだ。もっと見てみたい。その感情が体中を支配した。しばらく観察していると雑誌の中の女と表紙の女の衣装が同じなことに気づいた。
もう一度表紙を見てみる。
衣装は同じだが別人にしか見えない。
2人の女を見比べる。
どちらの女も頬の同じ箇所にホクロがあった。
次第に同一人物として脳内で結びつく。
その瞬間、全てを理解した。
家の中で交尾をしていた歪んだ顔の女。
「うっ」
突然吐き気が込み上げた。
捕まえた3匹のバッタを入れた袋に視線を移す。考えるより先に口を拭ったその手で2匹のバッタを握りつぶした。




