第3話 破れた革鞄の内ポケット
港町の午後は、光がやわらかいくせに、潮の匂いだけは強く残る。
その匂いに混ざって、今日は古い革のにおいがした。
「水無月さん、それ、直せる?」
声をかけてきたのは文芸部の椎名るり。
腕に抱えているのは、角がすり切れ、色褪せた茶色の革鞄だった。
持ち手はほつれ、底の縫い目も裂けている。
「部室に置いてあったんだけど、誰の物か分からなくて。ただ、中に手紙らしきものが入ってるんだよね」
廃教室の作業机に鞄を置くと、革は鈍く光り、継ぎ目から細かい埃がこぼれた。
五月はそっと指を入れて裏地を探る。革の手触り、その乾き具合……確かに長く放置されていた。だが、持つ人の手に馴染んでいた痕が残っている。
「まず、縫い直すから……中のものは後で見る」
針に蝋を引き、太めの糸を通す。革用の菱目打ちを使い、一目ずつ穴を揃える。針先が革を貫くときの低い音が、静かな放課後に溶けていった。
るりは机の端で鞄のふちを撫でながら言った。
「ねえ、水無月さん。あんた、本当はこういう物より、人の方を見て直してるんじゃないの?」
五月は針を止めた。
るりの瞳は、ただの冗談じゃない光を宿している。
「……両方。物を直せば、必ず誰かに届くから。」
それ以上、言葉は続かなかった。
作業が終わり、裂け目は見事に塞がった。外見だけでなく、底板も補強したため、重さにも耐えられるようになっている。
「ありがとう。じゃあ、中を……」
内ポケットから出てきたのは、薄い封筒だった。
裏面には「三十年後の自分へ」と書かれている。消えかけたインクが、確かに時間を刻んでいた。
るりが封を切ろうとすると、強い海風が窓から吹き込み、手紙は机の下へと舞い落ちた。
その一瞬、五月は覗いてしまった——便箋の一行目。
《あの日、港で言えなかったこと——》
その続きを知るのは、きっともう少し先になる。
だが胸の奥で、あの古い腕時計や錆びた鍵と同じ匂いがした。
廃教室の窓から差し込む午後の光が、鞄の革を柔らかく染めていた。