第1話 壊れた針の向こう側
時計の歯車は、大抵の嘘より素直に壊れる。
黒ずんだ針を外そうとピンセットを少しだけひねると、カチリ、と小さく控えめな音が鳴った。
体育館裏の廃教室——窓枠には緑色の苔がこびりつき、午後の光は粉塵を金色に染めている。机の上に広げた工具箱の中で、薄刃のドライバーと鑷子が陽を浴びてひときわ光った。
「直せそう?」
背中越しに声をかけられる。低い声。父だ。修繕店の外回りの仕事の合間に、港の方角からふらりと立ち寄ったらしい。私は応えず、布でガラス面を磨いた。
ひびの入った風防の裏に、細い髪の毛が一本。
そして、こすれて読めない小さな文字。
『── くんへ』
最後の一画は、もう消えてしまっている。
名前の抜けた呼びかけほど、宛先の重みを想像させるものはない。
壊れた形の穴を埋めるのが修繕屋の仕事で、欠けた言葉の続きを探すのも——きっと同じことだ。
「……おや?」
裏蓋を開けると、紙が押し込まれていた。
切手も封もない、黄ばみきったメモ用紙。
鉛筆の筆跡は震えていて、小さな日付と、短い一文だけ。
《会えない日のために》
その瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
午後の光が翳り、外で鳴っているカモメの声もやけに遠い。
父は何も聞かず、私の背後を通り過ぎて校庭の方へ消えていく。置いていかれた私と、この古い腕時計だけが、廃教室に取り残された。
——誰が、誰に残した言葉だったんだろう。
——そして、なぜここにある?
机の端で、サビたゼンマイが転がり落ちた。
短い金属の音が、やけに胸の奥に残る。
午後三時四十分。私は針を元の位置に戻す。
たとえ進まなくても、時間はかつてそこまで来ていた。
復活した針が、古びた約束をそっと指さすように。
その日の放課後、私はまだ知らなかった。
この腕時計をきっかけに、町の人間関係のほころびと、港町の深い影をひとつずつ縫い戻していくことになるなんて。
——午後の修繕店と、少女のほどけた約束。
物語は、ここから静かに針を刻みはじめる。