あの教室では少数派だった解釈を、たまたまだと言ってほしい
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「児のそら寝」というお話には古文の授業で出会いました。
宇治拾遺物語にある仏教説話の1つです。
私は"やさしい世界"として解釈したくて、そうなければ悲しいお話になってしまいます。
ただ、あまり共感されたことがないので、ちょっと見ていってくれませんか?
ある夜に、お寺でぼたもちでも作ろうかという話が上がります。
このお寺には教育を受けるためにお寺に預けられた児がおりました。
その子が寝たふりをするのです。
これは、作るのを手伝いたくなかったのではありませんよ。お寺の子ですから、たまの贅沢にはしゃいではいけないと思っていたようです。
ぼたもちができると、1人の僧が起こそうとしてくれました。
しかし、別の僧が止めます。
「お起こし申し上げるなよ。幼い人はお眠りにになってしまっている。」
と。
仕方がなく児は初めに起こそうとしてくれたときに目が覚めたかのように起きてきます。
これは時差がありますから、周りの僧たち、つまり大人たちは笑ったのでした。
というのが、私が知っている「児のそら寝」です。
この、寝かせてあげようと言った2人目の僧は、児が狸寝入りをしていたことに気がついていたのかどうかの解釈をお聞きしたいです。
授業中に先生が尋ねられたあの教室では、私1人が気がついていなかったという方に手を挙げました。
先生によると、その解釈も珍しい訳ではないとのことです。
私は、
最初の僧はぼたもちを食べさせてあげようと思って起こそうとしてくれた。
2人目の僧は気持ちよく眠らせてあげようと思って1人目の僧を止めた。
どちらも、児を想って行動する優しい"大人たち"だと思ったのです。
そして、児が起きてきて初めて、狸寝入りをしていたことに気がつき、微笑ましいことだと笑ったのだと思いました。
これなら児もえへへっと照れ笑いをして、その後楽しくぼたもちを食べられると思います。
ちなみに、この解釈をした私はバッドエンドが苦手です。ハッピーエンド至上主義とは名乗れないのは、主人公側から見たエンドだけハッピーでも苦手だからです。登場人物が全員幸せになるお話が好きです。
だから、2人の僧には良かれと思っていてほしかったのです。
一方で、2人目の僧は児が狸寝入りをしているのを分かって、ちょっと揶揄うような気持ちで起こさないでおこうと言ったという解釈が、あの教室では多数派でした。
その後の笑いも、狸寝入りを見破られた児の様子を面白おかしいように笑っているもののようです。
程度としては、じゃれ合いというか揶揄い合いというか、そのくらいですよ。児が虐められているわけではありません。
それでも、私は悲しくなってしまうのです。読後に一緒になって笑えないのです。
なぜなら、僧侶たちではなく、児に自己投影をしてしまうからです。
恥ずかしい。気がついていたなら起こしてほしかった。一緒にぼたもちを食べたかった。寂しい。楽しみにしていたのに。折角、良い子ではしゃがずにいたのに。こんな悲しい気持ちになりたくなかった。
こうなっては、「児のそら寝」をハッピーエンドだと言えません。このお話は私が自分のハッピーエンドに対するハードルの高さを自覚したものでもありました。
もし、僧たちの側に立てたなら、健気に狸寝入りをする児を可愛いなあと笑って終われたのだと思います。例え、2人目の僧が知っていて起こすのを止めたのだとしても。
年齢的には僧たちの方が近いはずなんですけどね。もう少し、心も身長のように自動的に目線が上がってほしかったです。
神視点の方もおられましょうが、もし自己投影をなさるなら、それは児の側ですか?僧たちの側ですか?
また、この「児のそら寝」の解釈はハッピーエンドを好まれる方とバッドエンドを好まれる方で変わるのでしょうか?
それとも、あまり関係しないのでしょうか?