23 勇者の剣と『鞘』
(間に、合わない……!!)
走る足が軋む。
限界まで上げた速度をもってしても間に合わない……!
はぁはぁと荒れる呼吸音がうるさい。心臓も早鐘を打っている。
(さっきのように剣を投げる──には、遠すぎる!)
クラッグボアを止める方法を考えるが、どれもこれも間に合わないものばかりだ。
「あまり使いたくないが、そうも言ってられないっ!」
俺は走り続けながら、自分の左親指を口に入れ、ガチッと指先を強く噛んだ。
鋭い痛みが走り、血が溢れ出す。その血を勇者の剣に──吸わせた。
青白く光っていた剣が一瞬にして赤黒い光を放つ。
聖なるものから邪悪なものへと反転したような妖しい光が剣を纏った。
俺は急ぎ足を止めると、その剣を地面に突き刺す。
「──ここへ来いっ!」
呼ぶ──剣の『鞘』を。
すると、グルグル巻きの布が弾け飛んだ。鞘に刻まれている紋章の部分があらわになった。
その紋章からクモのような大足が生えると、ガサガサと動き出し、村の男ごとこちらへ向かってくる。
クラッグボアは、追っていた対象が突然方向転換をしたことで戸惑っているようだった。突進していた勢いを殺しながら、曲がるとこちら目掛けて走ってくる。
鞘のおかげで、なんとかヤツの攻撃を回避できた。
「あわ、あわわわわ」
男は鞘から振り落とされないようにしっかりと握りしめたまま、俺の元へやってきた。
鞘は目的地にたどり着いたと言わんばかりに、クモの大足を紋章の中にしまう。
一体何が……と驚いた顔をしている村の男に説明をしている暇はまだない。
俺は男の腕の中にある鞘を引き抜いた。
一度、剣を鞘に仕舞う。すぐに剣を引き抜くと、赤黒い光は消え、刃は何事もなかったように月の光を反射させていた。
「──ふっ!」
勇者の力を流し、青白く光らせる。鞘をまた男に預けた。
俺は身体を傾け、足先に力を入れ、地面を蹴る。
クラッグボアとの距離はあと数メートル。
このままでは正面衝突する──その瞬間、俺はスライディングした。
剣を自分の胸元に構えたまま、クラッグボアの腹の下に潜り込み、ヤツの腹を裂いていく。
これは、先ほど倒したクラッグボアの腹の柔らかさを知ってたから、できたことだ。
「ブギィイイイイィイイイ!!」
クラッグボアの叫び声が辺りの空気を震わせる。
ヤツの腹が俺の頭上を通り過ぎたあと、クラッグボアのスピードが落ちた。
大きな身体は地面へと崩れ落ちる。横倒れになったヤツに向かって、俺は走った。止めを刺すために。
「これで終わりだっ!!」
搔っ捌いた腹から血が溢れている。
その奥にある心臓を狙って、俺は剣を伸ばした。
──一突き。
剣先が捉える。骨と骨の隙間に差し込まれた刃が、確実にクラッグボアの中核に刺さった。その瞬間、俺は勇者の力を流し込む。
クラッグボアの心臓が破裂し、内側から肉が震える感覚が伝わってきた。それまで、ハッハッと息をしながら上げていたヤツの首がガクッと落ち、地面に沈む。
(やったか……)
魔物を二匹、倒した。終わった。
クラッグボアの身体から剣を引き抜いて、俺はヤツの身体の中に手を突っ込む。
「……っと、あった」
血に濡れた手が握りしめているのは魔石。
もう一匹の魔石も回収すると、俺は男の元に戻った。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
俺が魔石を回収している間に、落ち着いたのだろう。
それまで地面に座り込んでいた彼は立ち上がっていた。
(……ん?)
男の膝から血が出ている。そのことに気づいた俺は彼に向かって手を伸ばそうとする。
「あの、膝から──」
「うわぁああっ!」
彼は身体を大きく跳ねながら、俺の鞘を放り投げ、慌ててこの場を走り去って行った。
途中、何かに躓いたらしい。コケそうになりつつも体勢を整えると、村に向かって走り出す。
「クラッグボアの血が臭かったの……かな?」
戦闘中は魔物の動きに集中するため、耳と目、そして身体の反応に神経を研ぎ澄ませていた。代わりに、嗅覚や味覚といった感覚は意図的に鈍らせていた。
戦いが終わって、ようやく嗅覚が戻ってくる。風に乗って漂ってきたにおいは、錆びついた鉄臭いものだった。
「……あ」
月明かりに照らされた畑全体を見回してみた。クラッグボアが駆け回った跡や俺が攻撃を受け止めたときの靴跡が多数残っている。
少しだけ畑を踏み荒らす形になってしまったことは……容赦してほしい。
剣を一振りする。刃に付着した血を飛ばした。
小さな焚火の始末もしっかりすると、俺は村へと戻って行った。
「お姉さま……! だっ大丈夫なんですか? 怪我は!?」
「大丈夫。この血は全部、魔物のものだから。きっと臭いと思うから、先に血を落とせるだけ落としたいんだけど、どこで洗ったらいいかな?」
食堂に戻ると、ミラさんがドアの前でずっと待っていた。
こんな夜更けに危ないな、と思ったら、オヤジさんも一緒になって起きていた。二人とも俺のことを心配して待っていたらしい。
嬉しいな、と心が温かくなる。
オヤジさんが厨房の鍋で水を少し温めてくれたものを運んできてくれた。
食堂の外に置いてある木製のバケツにお湯を入れてもらい、手に着いた血を落とす。
においを嗅いでみると、まだ少し獣臭さが残っている。
リューエンさんのところにある水が少しだけ恋しくなった。
他に汚れた個所があれば、そこを拭いてから服を着替える。それから、布団の中に潜り込んだ。
「はー……疲れたな。まぁ、ここからまた疲れるんだけど」
目を閉じると、すぐに暗闇が訪れた。
俺は朝が来るまで、『鞘』を使った代償を支払うのだった。




