11 西の魔女
「はぁっ……はぁっ……」
手の甲で頬を拭う。甲に血がついた。
ベアドスの胸には、折れた剣が突き刺さっている。
三度目の正直──俺はヤツの心臓を止めた。
ヒリついた空気が辺りから消え失せ、命を脅かす脅威が去ったことを知らせてくれている。
俺はベアドスに刺さった剣を引き抜いて、穴の開いた胸の中に手を突っ込んだ。心臓を取り出し、さらにその中にある魔石を取り出す。
真っ赤に染まった右手を強く振って、俺はできるだけ血を地面に落とした。
魔石の回収が終わると、まだ木の根元に座り込んでいた男に近づいて、声をかけた。
「大丈夫ですか……?」
「は、はい。ありがとうございます。助かりました」
できれば手を差しだし、立ち上がらせてあげたいところだが、俺の手はベアドスの血で汚れている。
「お怪我はありませんか?」
「だ、大丈夫です」
丸眼鏡をかけた、ゆるい天然パーマの黒髪の男性はそう言うと、ゆっくり立ち上がった。見る限り、大きな怪我はなさそうだ。足を痛めているといった様子もない。
「よかった」と息をつく。
男の無事を確認したところで、俺はその辺にある適当な葉を数枚ちぎって、手の汚れを拭き始めた。
「あ、あのぉ……よかったら、これを使ってください」
そう言って差し出されたのはハンカチ。真っ白なハンカチだった。
俺はパチパチとまばたきをする。男は「どうぞ」ともう一度差し出した。
ありがたい申し出だが、真っ白なハンカチを汚すのはちょっと気が引ける。俺は顔を横に振って断った。
「いえ、大丈夫です」
「でも、葉っぱじゃ、しっかり取れないのでは?」
「ま、まぁ……」
それはそうなんだけど、でもなぁ……。
どこかに川とか水場があればいいけど、耳を澄ませた限り、それもなさそうだ。
「では、少し時間はかかりますが、この先に僕の家があるので、そこで手を洗ってください!」
「──え?」
(この先……?)
俺は首をかしげながら男の顔を見る。
丸眼鏡の向こう側の垂れ目が、ふにゃりと緩んだ。
彼は自分の胸に手を当て、軽く頭を下げる。
「初めまして、勇者アルス。僕の名前はリューエン。〈西の魔女〉って言った方が早いかな?」
「…………えっ?」
***
「ちょっと汚い家ですが、まぁお茶くらいは出せますから」
「は、はぁ……」
リューエンさんが、ギィ……と音を立て、家のドアを開ける。
中に入ると、壁中に殴り書きの紙が所狭しと貼ってあり、棚や机の上にはたくさんの本が積み上がっていた。
床が見える部分だけを進み、案内された部屋へ行く。洗面所のような場所に水瓶と桶が置いてあった。
リューエンさんが桶に水を入れてくれ、「ここで手を洗ってください」と言うと、この場から去って行った。
あの後、俺は〈西の魔女〉と名乗ったリューエンさんのあとをついて行った。
『迷いの森』と呼ばれる森の中を、スイスイと進む彼は本当に〈西の魔女〉なのだろう。
(西の魔女はボンキュッボンの美女じゃなかったのか……というか、なんで俺が勇者だとバレたんだ?)
リューエンさんをジッと見つめる。俺の視線に気づいた彼は、クスッと笑った。
「まぁまぁ、とりあえず家に着いてから、詳しい話をしましょう」
森の緑がだんだん濃くなっていく。二時間ほど歩いただろうか?
木と木の隙間からチラリと赤い屋根が見えた。
リューエンさんが「あの家です」と言いながら指さす。
空すらも枝葉が覆っている森の最奥にその家はあった。そうして、ようやく西の魔女の家へたどり着いた俺は、家の中に入って、今は血で汚れた手を洗っている。
しっかりと血の落ちた手を見る。
くんっとにおいを嗅いでみた。
……血生臭さがない?
不思議に思った俺はもう一度においを嗅いだ。
「あぁ、その水にはちょっとした工夫が施してあるんです」
戻りが遅いと思ったのか、リューエンさんがひょっこりと顔を出す。
においを嗅いでいた俺の姿を見て、疑問を察した彼がそう答えてきた。
目の前に手拭き用のタオルを差し出される。俺はそれを受け取り、濡れた手を拭いた。
「工夫、ですか?」
「ええ。こんな森の奥では水は貴重なものです。惜しみなく使っていては、すぐに枯渇しますから。なので、ちょっとしたものを加えて、この水はどんな汚れも簡単に落とせるようにしているんです」
「……へぇ」
魔女だったら、魔法を使えばいいのでは?
そんな疑問が頭に浮かぶ。その疑問は顔に出てたらしい。
リューエンさんが垂れた目をへにゃりと下げて、ポリポリと頬を掻いた。
「あ、えっと……これ言うとガッカリされるんですが、僕、魔法って、使えないんですよね」
「へっ!?」
(魔女が魔法を使えない!? 一体どういうことだ?)
頭の中に疑問符が乱舞する。
「こっちです」と言って移動し始めた彼のあとを追った。
案内された場所は窓際で、小さなテーブルと椅子が置いてある。
俺はその椅子に座った。リューエンさんは一度そこから離れると、トレイを手にして戻ってきた。
ほんのり花の香りがするハーブティーのようなものがコトリと置かれる。
小さな焼き菓子のようなものが載ったお皿も差し出された。
「あ、ありがとうございます」
「どうぞどうぞ。あ、口に合わなかったら残して大丈夫ですからね」
彼の言葉に甘えてお茶とお菓子をいただく。
ほんの二時間前に命のやり取りをやったばかりだ。お菓子の甘さが染みて、ほぅ……と息が漏れる。
向かいに座っているリューエンさんもお茶を飲んでいる。彼は一口、二口と口をつけたあと、カップを下ろした。
「まずは改めてお礼を言わせてください。勇者アルス。助けていただきありがとうございました」
「あ、い、いえ……! そんな頭を下げないでください! お、俺は自分がやれることをやっただけなので」
深々と頭を下げるリューエンさんを見て、俺は慌てて立ち上がる。
両手をブンブンと振って、気にしないでくれとアピールした。
リューエンさんが顔を上げ、「どうぞ」と言うので、俺はもう一度椅子に座る。
互いにお茶を一口飲む。すると、彼が口を開いた。
「それで、あなたがこの森へやってきたのは、僕に会いに来たから──ということでよろしいですか?」
だから、なぜ俺のことがわかるんだ……?
そう聞きたいけれど、いや、そんなことはどうでもいい。俺がここに来た理由がわかっているのなら、話が早い。
丸眼鏡の奥の瞳が、先ほどまでの彼と違う真剣な光を帯びていた。
俺はその目に向かって、コクリとうなずいたのだった。
読んでいただきありがとうございました。
※投稿順を間違えておりました。この前のお話が抜けておりましたので、こちらを先に読んだ方は前話も読んでいただけますと幸いです。




