一話 飛行症候群
日葵は、脚立を担ぎながら中庭をダッシュしていた。
通りすがる生徒たちは日葵を見て、「なにあれ」という感じで笑っている。幼い顔立ちに、小さい背丈で、「脚立の方がでかいんじゃない」って感じの自分が、ダッシュしてるのが面白いらしい。温かい視線に感謝する余裕もなく、日葵は加速していた。ポケットの中ではスマホが震える。
校舎裏近くの植え込みまできて、「いた!」と小さく叫ぶ。
「川瀬くん!」
でっかい木の上に、黒髪の大柄な少年が引っかかっていた。日葵を見下ろして、手をあげる。ゆらゆらと木々が揺れた。
「よかったあ……!ちょっと待っててね!」
脚立を立て、猛然と登りだす日葵。ならしたもので、さっさとてっぺんまで行くと、川瀬に手をのばした。
「川瀬くん、もう大丈夫だよ。おいで」
「――ああ」
日葵の手をぎゅっと握ると、川瀬は脚立に手をかける。日葵はそれを見届けて、「ちょっと待って!」と急いで脚立を降りる。地面から脚立を支える。
「もういいよ!ゆっくり降りてきてね!」
無言の是を返して、するするおりだす川瀬。安堵して、息をつく日葵。
危ないところだった。今回も助けられてよかった、と汗をぬぐった。
同級生の川瀬渡が、「飛行症候群」なるものにかかっていると知ったのは最近――つまりこの高校に入学して三か月くらい経ってからだ。
のんびり課題を終えて、あくびをしながら日葵は夕焼け背負ってる校門まで歩いていた。そうしたら、風景に違和感を覚えた。立ち止まり注視すると、気づいた。なんか大きな影が、木に引っかかっていたのだ。
さらによく見ればそれは人ではないか。
「うわ!?」
日葵は思わず声を上げて、それから慌てて口をおさえた。こういうのって動揺させるとよくないって聞くし。
慌てた心を落ち着け、その人に向かって「気を確かに持って、待ってて!」と叫んだ。そして、用具入れまでダッシュして、大きな脚立を持ってきた。
その人は混乱しているのかすぐに降りてこないので、日葵は落ち着かせるため、いったん自分が上がることにした。高いところは得意だったため、よどみなく天辺までのぼって、手を伸ばした。
「だいじょうぶだよ、おちついて脚立に手をおいて」
その人の手を取って誘導してあげる。大きな手だった。それが、脚立にのったのを見て、日葵は脚立をおりた。そして、地面から支えて彼が降りてくるのを待つ。
彼は、ゆっくりと、地面に向かって降りてきた。
――危ないところだった。
彼が地面に降り立って、ようやく現実的な恐怖が日葵に襲い掛かってきた。自分が通りがかっていなければ、どうなっていたんだろう。
ともあれ人がひとり助かって、すごく安堵して、それからようやく日葵は冷静になった。そして、その人が、同級生の川瀬渡だと気づいたのだった。
大きくて立派な体格、ちょっと長めの黒髪に、浅黒い肌。精悍な顔立ちは、いつも凛としてる。「侍みたいでかっこいい」「馬に乗って刀振ってほしい」と女子たちから絶大な人気を誇る、あの川瀬くんではないか。
ちなみに、なんでこんなに日葵が詳しいかというと、ひとえに女子の友達が多いからだった。いわく、自分は圧迫感のない容姿をしているらしく、「女友達より気楽な何か」として市民権を得ているのだった。
「あの、川瀬くん。大丈夫?」
「全然大丈夫だ」
一言だけ、返ってきた。その声は、思ったよりしっかりしている。男なら一度は出してみたい低音だ。
「よかった。でも、なんであんなことに……」
日葵は、気になったことはさっくり尋ねるタイプだ。だから今回もそうした。すると、川瀬はすこし深刻な顔で、黙り込んでしまった。聞いてはいけないことだったのだろうか。
日葵が心配げに首をかしげていると、「……だ」と何か言った。
「――ん?何?」
「そういう病なんだ」
ん?
意図をつかめない日葵をおいて、川瀬はつらつら話し始めた。
「飛行症候群と言って、小学校六年くらいのときに発症した。それ以来、俺は時々飛んでしまうんだ」
目を伏せて、言うさまは、当然のことを話すときに人が醸し出すそれだった。
言いたいことはいろいろあったし、いろんな反応ができたと思う。
けれども、日葵は、とりあえず「そうなの?」と答えた。
そんな話は聞いたことがないが、もしそうなら、いや、そうでなくても、否定したらこれ、傷つけちゃうやつだとわかったからだ。それくらい川瀬は真剣だった。
川瀬は、じっと日葵を見た。そして、がしっと手を握ってくる。強い力に、人差し指と小指が、川瀬の手の中でくっつく。
「どうか、このことは内緒にしてほしい」
「えっ」
「これは、本当に家族しか知らない内密の病なんだ。だいたい、誰も信じてくれない。俺のことを頭おかしい奴と思うだろう」
「……川瀬くん」
……それは、確かに。そうかもしれない。
しかし、川瀬の傷ついた顔を見ていると、今まで期待を裏切られたんだろうな、と思った。
だから日葵は、その言葉を信じることにした。
「大丈夫。俺は信じるよ」
にっこり笑って川瀬を見つめた。川瀬は「日葵」と目を見開く。目が夕闇にきらきら輝いているような気がして、日葵は頷いて見せる。
「俺にできることあったら、なんでもするよ」
「え」
「大丈夫。元気出して!」
そうして、日葵は、川瀬の協力者となったのである。