7.温かさと寒さ
交番を出てしばらくすると、先まで入っていた謎の力みもなくなり、なんだか、妙に清々しい気分にさせられる。まるで、重苦しい“なにか”から解放されたときのような、一気に、大空まで飛び去ってしまいそうな、そんな清々しさだ。
「……はあ」
先の交番で吐けなかった分のため息を、いま、吐いてみる。
「……さきに帰ればよかった」
すると不思議なことに溢れ出してきたのは、いままで溜めに溜めていたすべての不満であった。
「……そもそも、誰にも何も言わずに消えて、それで、さも待っているのが普通みたいな顔で、ほんと、腹が立つ」
小さな声で。
「……しかも、『ご協力感謝します』とか、あんなの私を馬鹿にしてるとしか思えない」
独り言のように。
「……あんなのが交番で、お巡りさんをやっている」
ぶつぶつと。
「……定型文しか言えない、機転がきかない、そんなの、そんなのまるで――」
――まるで、ロボットじゃない。
はあ。もう一度だけ、ため息を吐いてみる。道行く他人の、すれ違う他人の視線が痛い。皆が皆、私のことを、まるで不審者でも見つけたかのようにして凝視してくるのだ。気持ちは分からなくないけれど、やはり、気分が悪い。常に見張られているような錯覚さえ起こしてしまう。それとも。
歩いていると次第に、大きな建物が見えてきた。大きな、といってもあくまで普通の一軒家と比べたらの話であって、むしろ、高さだけで言えばそれほど大きいわけではない。よくある、地元のこじんまりとしたスーパーだ。
そう、昼間に一度訪れた、あのスーパー。
鞄を開くタイミングはお会計の時しかないのだし、鍵を失くすタイミングも、場所も、考えられるのはここだけである。最初に交番を訪れたのは、単に親切な人が拾ってはいないかな?という淡い期待に依るものなのだ。
ウィィィン、と音を鳴らして開く自動ドアを通過し、一目散に鍵を探し始める。
昼間歩いた通りに、鮮魚コーナーであったり野菜コーナーであったりを巡って、分かってはいた事だけれど、一つ一つ、床を注視しながら歩くというのは、かなり骨の折れる作業だ。あっちにもないこっちにもないと、まるで、自分が乞食のようにも思えてきて、ほんとうに骨が折れる。
――やがて。
鍵が見つかることはなかった。まだ探していない場所といえば無人レジの辺りだけれど、この感じ、あるようにも思えない。
諦めようか迷っていると、ふと、昼間にあの変なリンゴを買った果物コーナーが、目に入った。一度探してはいるけれど、なにか、見落としているかもしれない。そんな僅かながらの希望を持って、もう一度リンゴが置いてあるコーナーを中心に鍵を探してみる。
さながら、挙動不審の不審者なのだけれど、エーアイ化の進んだ現代において、店員と呼べる人は滅多にいない。なにか特別な犯罪(たとえば万引きみたいな、明確に“法律で罰される”行為のことだ)を犯さない限りは、捕まることも注意されることも、滅多に起こりえないのである。だって、人がいないのだから。
防犯はすべて、店内や街中に設置されている、無数の黒い眼で十分なのだろう。エーアイ、様々だ。
しばらく、同じところをグルグル回ってみたり、腰を上げたり、下げたりして、床はもちろん、売り物のある籠の中であったりをゴソゴソと探ってみた。やはりいくら探しても鍵は見つからない。
昔であれば店員さんに聞いて、一緒に探すのを手伝ってもらえたかもしれない。もしくは、落とし物があるかどうか、確認してきてくれたかもしれない、と、そう思えば思うほど、なんだか、寂しくなる。
ほんの数年前までは、どこもかしこも店員さんとお客さんで賑わっていたというのに、いまは、これだ。全部全部、一人。一人ぼっちでやらないといけない。皆そこにいるのだけれど、たしかに、人は存在しているのだけれど、なぜか。
独りぼっちだ。
人はお金が絡むと碌な結末を迎えない、という意味が少しだけ分かった気がする。つまり、これもあれも、すべては生存戦略なのだ。計算され尽くした末の、最善を実行した景色、というわけである。それで、物の値段も少しは安くなるのだから、さして反発もない。
まったく懐が温かいのだ。
懐が温かくて仕方ない。
でも、同時に、どことなく、寒さを感じるのは気のせいだろうか。