3.鮮烈に迷宮
夜の公園。男女二人、ベンチで密談。まるで少女漫画のような展開。最後に読んだのはいつだったか、ろくに覚えてもいないけれど、はて、なんだか既視感を感じる。それが内なのか外なのかは分からない。ただ、前にも同じようなナニかを感じられて、それが、既視感となり、私を襲っている――そんな気がした。
ふと、隣に座る彼から強い視線を感じる。横目で覗いてみれば、なんというか、口がお魚さんみたいにパクパクと動いていて、たぶん、話しかけるのを迷っているのだけれど、おもしろい。
はっと意気込んで口を開いてみれば、しょぼん、急に萎えてしまって、でも、視線だけは変わらず私の顔を、もしかしたらその奥の景色かもしれない、とはいえ、かなり力強く見つめている。
彼が最初に言っていた『話』とは、つまるところ『先の件について』の話なので、私は、あまり気乗りがしない。なぜとかどうしてとか、あまりにどうでもよい事で、でも、きっと、彼にとってはすごく大事な事なのだろう。それが視線にありありと浮かんでいるのだ。強い炎みたいに、思わず顔を背けたくなるほど、眩しいとさえ感じる。太陽を間近で見たら、たぶん、こんな感じだ。正義に焼かれてしまうかのような、ひどくポジティブなエネルギーに晒されて、私というネガティブなエネルギーは一瞬で灰となって消えてしまう。かなしいような、うれしいような。相反して摩擦を起こす関係性。
だから、
「……あの、あまりジロジロ見ないでください」
と拒絶した。
ついでに、「セクハラですよ、それ」、なんて言って、すこし脅しじゃないけれど、圧力をかけてみる。すると彼はたちまち、「す、すいません!」、と言って、ブンッ、音が出るくらいのスピードで、視線を外してくれた。
「……セクハラは嘘です」
ほんとうに勘違いをしていそうなので、一応、訂正をしておく。彼がどちらに反応を示したのかは分からない。とはいえ、昨今の事例を踏まえてみると、たぶん、後者。世知辛い世の中だと、常々思う。
隣から深呼吸が聞こえて、いよいよ、静寂が遠のいてゆくような、不可思議な感覚に見舞われた。もしかするとその深呼吸は、ただ彼が安心して、ふう、と一息ついただけなのかもしれない。それでも、これ以上の静寂は、耳が痛くなってくる。キーン、キーン、沈黙の声がうるさいのだ。いっそ彼が話しかけてくるより先に、この静寂を破ってしまいたい。
いや、破ろう。そう決心した私は、次の瞬間、大きく息を吸い込み、吸い込んだものを吐き出すかの勢いで、
「「あっ、あのッ!!」」
と言っていた。
――おかしい。
おかしすぎる。なぜか声が二重に聞こえてきた。しかも彼のほうへ視線を向ければ、たぶん、私と同じような口の形で、固まっている彼の姿。すこし閉じかかった口の様子が、まさに、いま私が感じている口の動きと、完全に一致している。なぜだろう、そこはかとなく、気まずい。これならまだ、キーンキーン、という沈黙の声を聞いていたほうが、遥かにマシであった気さえする。いまさら考えても詮無いことなのは百も承知だけれど、それでも、考えずにはいられなかった。
「……あ、お先にいいですよ。俺はさっきも言った通り、あの事に関して話をお聞きしたいだけなんで」
彼は言う。本能的に、『いえいえ、そちらこそお先にどうぞ』、なんて、言ってしまいそうになるけれど、私は、それをすんでのところで飲み込んだ。
ある意味で私個人の本能というより、もっと大きい、日本人の本能と呼べるソレは、たいへん、美しいものであると、私は感じる。美を追求し、譲り、譲られ、他人と美しい良好な関係を維持することは、並大抵ではない、日本人にしかない、独特な文化であって、まさに美徳、とさえ感じるのだ。そう、感じるのだ。だけれど、いまこの状況に関していえば、その限りでないように思えて他ならない。なにせ、これは私にとって好都合なことなのだ。もし、彼に話の主導権を握らせれば、『先の件について』、根掘り葉堀り聞かれるのは当然、自明の理である。いままで散々、私は独善的になりたがっていたし、いまが、独善的になれる最初で最後の好機、かもしれない。
どこか締まらなさを覚えながらも、私は、
「それでは遠慮なく……いくつか聞きたいことがあって、まず初めに、改めてあなたのお名前を伺っても?」
と言った。
加えて、「ちょっとまだ混乱してて、忘れてしまったんです」、と不自然に映らないよう理由を説明しておく。
これは、時間稼ぎのひとつだ。ほんとうに忘れてしまったわけではない。できるだけ『先の件』から話題を遠ざけて、時間を使い、『あっ、もうこんな時間ですね。これ以上話していたら、明日の仕事に支障をきたしてしまうので……ごめんなさい、今日はこれで失礼します』、と言うための嘘。独善的な私にしかできない、独善的な、嘘。
胸の高鳴りが止まらない。耳の奥が圧迫されてゆくかのような、顔が、真っ赤に染まってゆくかのような、へんに、高揚感を覚えている。私が私でなくなってゆくかのような、虫さんの、脱皮するかのような、それは、じっさいに私なのだけれど、私でない、そんな感覚。いったいぜんたい、どうしてしまったのだろう。
まさか、私、嘘がつけない?
そう考えつくと、自然に手が震えてくる。恥ずかしくて、情けなくて、さらに顔が赤く染まった気がして、行き場のない感情を、ぎゅっと、彼に貰ったあのコーヒー缶を握りしめることで、解消する。手は依然として震え続けているけれど、なんとか、誤魔化すしかない。嘘で生じた真は、嘘でしか覆い隠せないのだ。
「――れで、あと他になにか話していないこと、ありましたっけ?」
「……え?」
思いがけない彼の言葉に私は、自分の意思に反して、とても情けないひよこのような声を出してしまう。ピヨ、ピヨと。たぶんそちらの声で鳴いたほうが、いまの、この狂ってしまいそうになるほどの気恥ずかしさより、何万倍もよかったに違いない。
ああ、詮無いこと、詮無いこと。ほんとうに詮無いことだ。私、思えば今日、昨日、一昨日、そのまた昨日であっても、ずうっと、過去の起こってしまった事象ばかりに気を取られ、ろくに、いまを生きられていない気がする。この瞬間もそうだ。私、また恥ずかしいとか情けないとかいって、それで、どうにか現実の思考から逃れようとしている。さながら、流れに逆らおうとするお魚たちみたいに。ひとつ、決定的な違いが、私とお魚の間にはあるのだけれど、それからは、目を背け続けている。
ああ。私の間抜けな反応を前に、なにか言うでもなく固まっている彼の姿を見ると、ほんとうに、死にたい、死にたくなって、なぜか、急に申し訳なく思って、ああ、どんどんネガティブに、負の感情が、抑えられなく、いったいどうしよう。
考えても考えても、答えは見つからない。自然と、コーヒー缶を握る両手に、力が入る。そういえばまだ、一口も飲んでいない。
これは、ミルクだろうか?
ホワイトだろうか?
甘いだろうか?
それとも、もしかして、ブラック、なのだろうか。
――ああ、きっと、ブラックに違いない。そんな気がする。強烈な眠気覚ましで、私も、このネガティブな『――』から目覚めたいものだ。いやむしろ、じっさいに、やってみるべきであろう。
私はそう意気込むと、まず初めに、コーヒー缶のくちを開けて、それから、中身を確認せずにぐびっと、二口三口、一気に喉奥まで流し込んだ。想像通り強烈で、鮮烈で、思わず顔を顰めてしまいそうになるほど苦い液体が、身体の中を駆け巡ってゆく。骨の髄まで染み渡るかのような、どんなに、うるさい目覚まし時計であっても、これには勝らないような、喉を通った筈なのに、まだ、どこに液体があるか分かってしまうかのような、はじけ飛ぶセンセーション。
一瞬、視界が明滅した。黒と白に、ブラックとホワイトに明滅して、なぜか、そこにはオレンジ色の、いや、赤いリンゴ色の景色が見える。まだくっきりと浮かばないその光景は、ひどく、あいまいなもので、分かりにくい。
オレンジ色に見えたら、次は、リンゴ色にも見えるし、ブラックにもホワイトにも、ブルーにさえ、そのうち虹ができてしまうほど多くの色で、溢れかえっている。まさか、これが私の生ける現実、感じたリアリティー、と思ってみれば、やはり、私は私自身、どこにいるのか分からなくなって、生きているのか死んでいるのか、はたまた正気なのか、狂っているのか、見失ってしまう。
分からない。私は、分からない。頭が妙に重く、思考に制限が掛かっているみたいで、誘導、されているかのような、視界が狭まる感覚。私は、読んで字のごとく、ほんとうに、霧の都に住んでいる気がした。霧の中で、進むべき道が分からない。照らされるべき道が、照らされていない。こんな状況、迷うに決まっている。
――私は、迷子だ。