2.怒涛
「この公園で話、聞かせてください」
彼はそう言うと、足早に自動販売機のもとへ向かってゆく。そして、なにか飲み物を買ったのだろう、また、私のいるところまで戻ってきて、二つ抱えている缶の内、一つ、コーヒーらしき物を差し出してくれた。
「……はい」
返事をして、缶を受け取って、ふと、私は、まるで餌付けでもされているかのような、釈然としない、ある意味で不快感ともいえる感覚を、覚えてしまう。
相手は年下の筈の大学生であるというのに、情けない。きっと性根が腐っているのだ。腐敗して、私というモノ全体に、悪影響を及ぼしてしまっている。叩いて治せるものなら、いますぐにでも、叩いてはくれないだろうか。なんて、言ったら絶対に引かれてしまう。そもそも私に、そんなカンジの趣味嗜好は存在しないのであるから、これは、そう、比喩、例えでしかない。決して、決して、彼にであれば大丈夫、とか、考えてはいない、筈。
はあ。思わず、ため息をつきそうになる。私、おかしくなってしまったのかしら。考えてみたけれど、やっぱり、ネガティブないつもの私である、そんな気もして、なんだか、よけいに分からない。本当にネガティブなだけで、でも、先のことからとっても、ポジティブに変われた気もして、私、私自身を、見失っている。芯を持った自分が、どこか遠いところへ、行ってしまったような気がして、見失っている。
私、私が分からない。貼り紙を出したら、誰か見つけてくれるのだろうか。
答えのないそんな問いを、そっと、胸の秘めたるところに仕舞う。そして私は、遠くへ行く彼の背中を見失わないように、遅れながらも、小走りで後を追うことに決めた。
見晴らしのいい閑散とした公園なのだから、見失う、わけないのだけれど、もう、空も暗く、すっかり包み込まれたみたいに、闇が背後を狙っているふうにすら感じる。ので、万が一、とか、もしもの気分にさせられて、どうしても、その、細身の身体から離れられないのだ。逞しさをまったく感じないというのに、不思議。なぜか強さと、優しさと、あと、面倒見の良さであったりとか、賢さであったりとか、感じて、ああもう、おかしくなる。離れられない。ついに狂人へとなってしまったのだろうか。いや、考えるまでもない、きっと、きっとそうだ。以前の私と比較して、あまりにも変わったことが多すぎる。狂ってしまったのだ!
自然に、歩くスピードが速くなって、逸る鼓動がうるさくなって、そのたび、彼の背中を追い越しそうになって、自分を落ち着かせる。まるで、躾のなっていない暴れん坊の犬のように、前へ前へという気持ちが、いまにも、溢れだしそうだった。
早く家に帰りたい。帰って、返って、帰りたい。ジレンマにうなされる人の苦しみが、全部、とは言わないけれど、すこしだけ、分かった気がする。これほどまでに焦がれ焦がされ、身を裂く思いで想い思って、不可思議な感覚に流されるまま、これは、さながら一方通行の一過性。ひどくまどろんだ世界の海を渡って、潮なる方へ、ユラ、ユラと。現実的なリアリスティック。
――まだ、帰りたくない。
歪んだ視界で彼を追い続ける。すると突然、小さいようで大きいその背中が、急停止した。私も、何事かと思うその前に、ぶつかる寸前、背中とごっつんこしてしまいそうなほど近い距離で、急停止。ぶつからなかったことに安堵しながら、改めて、なにが起こっているのか、なにがそこにあるのか、気になり、そっと、彼の背中からぴょこり、顔を出してみる。
「……ベンチ?」
私は言った。
「はい、ベンチです」
簡潔に言葉が返ってくる。
「ベンチ……?」
呟くように、もう一度だけ。私は言った。
ベンチ。公園に行けば必ずと言っていいほど目に入る、あの、ベンチ。茶色くて、すこし木の匂いがして、座っているだけでそこはかとなく、緑を感じられる、あのベンチ。ニから三人用、とてもオーソドックスな形のやつ。
しかし、あり得るだろうか。私の目の前にはいま、ずらり、大量のベンチが並んでいる。それも、二つや三つ、四つや五つといった一桁の易しい数字ではない。十か二十、明らかに公園を突っ切るかの勢いで、綺麗に並べられているのだ。仮に、業者や発注のミスだったとして、それでも、まず、おかしい。おかしすぎる。
私は、人間は不完全なモノと思っているし、そうでなければならない、そうでないと、ロボットやエーアイ、いわゆる、完璧なモノとの違いがなにか分からなくなるって、思ってはいた。けれど、さすがにこれは、極端がすぎる。完全とか不完全とか、そういう次元の話じゃない。もっと根幹、欠落とか欠如とか、ひどく分かりやすい言葉でいうと、狂っている。まさか、これは現実が私に、皮肉を浴びせているのだろうか。『本当はお前なんて狂っちゃいない、狂うってのはこういうことだ』、と。
ああ、そう考えてみると、なぜか妙に納得できる自分もいて、悔しい。馬鹿は風邪をひかないなんていうけれど、まさに私は、自分が馬鹿だったのだと痛感させられる。狂人が、他のナニかを『狂っている』と、形容せしめることはないのだ。ほんとうの気狂いというやつは、無論頭が狂っているのだから、常識も、なにも、ないのである。公園にベンチがあろうとなかろうと、あったとして、それが十や二十、いったいなんだというのか。少なくとも、私には分からない。分かる筈もない。なんといえば、それが真に狂っていると証明できるのであろう。
『公園にベンチがあるのはおかしい』?
『公園にベンチがないのはおかしい』?
『公園にベンチが十も二十もあるのはおかしい』?
いやまさか。どれも違う、違う、違う。もっと、核心的な【狂い】でなければ、証明はできないのだ。普通じゃないから、それで、おかしい、と私は言えない。残酷で、排他的で、それこそ、おかしいのだから。
彼に勧められて、ちょうど目の先にあったひとつのベンチに腰を下ろす。ふわりと包み込まれたような、自然の木の匂いが、とても、瑞々しい。若さを感じるのだ。生き生きと、じっさい、生きて、脈動しているのではとさえ思える、生への渇望か、なにか、果てしない欲望のようなものを感じて。どうにも胡散臭い。
はあ。『面倒な女でごめんなさい。私は、こうやってなにかを疑って生きてゆく、それだけしか能のない、最低最悪な女なのです。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。でも、最近、疑うことに疲れてきて、だって、いくらなんでも、隣人を疑う、世間を疑う、猫も、犬も、鳥だって、宇宙さえ、疑うのだから、数が多すぎる。そのうち、私が生きている世界、現実、そのものを疑う日がくるのだろうか。なんて考えてみれば、私は、もう、私自身、疑わなければならなくなって、生きているのか死んでいるのか、分からない。試そう、とさえ思えてくるけれど、さすがに、違うときのリスクが多きすぎて、馬鹿らしくなってくる。つまるところ、私は、現状に満足しています。仮に、もしも、コレがソレだったとして、それでも、私は、現状に満足しています。どうか、いままでの不敬をお許しください』
――はあ。最近、ため息をつきそうになることが多くて多くて、そのうち、福が逃げてゆくんじゃないかと、ほんとうに心配になってしまう。それで、未来の私を想像してみると、まあ、ひどい。きっと、お国の偉いかたたちのように、憔悴しきった顔で、同じく、『はあ』、なんて、ため息をつくのだ。醜いというか哀れというか、こんな、子どものころ、絶対になりたくないと思っていた大人に、どんどん近づいている気がして、情けない。
考えすぎで、もうちょっとだけ気楽に生きられないものかと、自由を求め、平和を望み、それ自体が考えることだと気付き、どうしようもない虚無感に駆られ、なぜか、悪い方へすすんでしまう。べつに否定とか、したいわけではないのだけれど。むしろ、飽くなき探求心は悪なき探求心で、私は、考えることを、求めることを、肯定している。だから、悩んでいるのだ。どこに正解があるのかを。
いろいろ考えてはみたけれど、やっぱり、人間は誰しも、年を取ればひどく見える。私はそう結論づけて、現実に、意識を戻すことにした。