夜明け前の電車
夜明け前の電車
夜明けは重力が一番弱くなるという話を以前聞いたことがある。
その重力が弱くなった夜明けに人はよく死ぬ、という話も。地球から離れるのにちょうど良いのだろう。
こうして夜明け前に小説なんか書く生活をしているとどんどん現実から離れていく現象が起こるのもそのせいだろう。
現実に戻るのにうってつけの方法としては思い付くのに二つある。一つは現実に生きている人とつまらない会話をすることだ。この方法はまるで酒に酔って気持ち良くなっている時に冷や水を浴びせられるような嫌な感じがするが、最も手軽で身近な「帰り道」である。
もう一つは、悲しくなることである。これは正直言って、おすすめできないね。悲しいってのは一言じゃ済まないからね。中島みゆきの「わかれうた」にあるように黄昏ってのはそんなお人よしじゃない。おすすめできない「帰り道」だが、悲しいことというのは突然に、予期しない方向から来るものだからおすすめするもしないもなく、強制的な「帰り道」です。
現実から離れることの何がいけないって、現実の他に「何か」あるわけじゃないからね。現実から離れて夢の世界へ行けるかっていうと、そんなお人よしにこの世界できてないね。つまりこの石の上にも三年的な現実世界に指一本でつかまっていないと、風に飛ばされるだけ。風に飛ばされて「どこか」へ行けるかっていうとどこにもいけないんだな、まず。
誰かに聞いたわけでもないが、この現実の他に、「何か」とか「どこか」とかあるかって言うと、ないね。断言。
いや、正直わたしは生意気でした。現実とか甘く見てた。
こうやって現実離れしてみるとその怖さとか無意味さとかがよく分かる。捨てられた犬みたいに現実を探してすがって生きるしかないんだな。精神の迷い子です。
こうしてさ、夜明け前の電車に乗っていると死んだ人と大して変わらないんだな。だって現実にいないんだもの。見える幽霊といってもいいね。
考えても仕方のないことだけど、現実ってのは砂漠に落ちた砂粒程度のダイヤモンドに近い。そこから飛び出したら砂があるだけ。地球っていうこの無限ともいえる宇宙で生命が誕生したくらいの奇跡で現実ってもんがあるんだな。
いや、それは失ったものを美化してるだけなのかも知れないけどね。ノスタルジアなのかな? これは。灰色に光るノスタルジアなのか?
わたしが発見したものといえば確かに芸術ってもんはすごい魅力的だけどさ、その作者ってのは大抵、犠牲者なんだな。現実を失ったもぬけの殻なんだ。
表があれば裏がある。それが現実だから、芸術っていうすごい「いい」表があったら、その裏にはすごく「好まれざる」現実ってのがある。その犠牲者が作者。
図書館だの、映画館だの、ブランド時計店だの、何でもいいけど、そのスクリーンの煌めきの裏では全き闇といってもいい影があるんだ。マリリン・モンローでもロレックスでもサリンジャーでも、トルストイでもドフトエフスキーでも何でも。
究極に言えば、愛って表があったキリストのように、裏では十字架にはりつけにされて槍で脇腹刺されてご愁傷様な人たちがいっぱいいんだな。
わたしなんか芸術家目指して毎日頑張ってますけどおー、何ですね、いいこと何もないね。見返りがないっていうか。
こうして夜明け前の電車で旅してて、どこか名所に立ち寄ったり、その土地その土地の名物でも食べたりしてもさ、先人たちもこうだったのかあ、なんて思いを馳せるのが関の山で、日本に戻れなくなったジョン万次郎みたいな、ウラシマタロウ的な哀しさをいつも感じているんだな。
ピカソとかシャガールみたいに喝采を浴びてもさ、本人たちは芸術に生きたことを後悔していたと思うよ。できることなら舞台の役者みたいにさ、今すぐ、衣装着たままでもいいから、階段降りて、客席に収まることができたらなあ、・・なんてね。
みんなといっしょ、ってかけがえのないもんだな。孤独ってもんは傍目から見りゃジェームスティーンみたいにかっこいいかも知れないけどさ、あわれなもんだよ。
好き好んで嫌われ者になるみたいな丸っきり矛盾した道。傍目から見りゃ「いい」のかも知れないけどさ。
たまにはいいこともあるよ。いい作品ができたら気持ち良くなる。そんくらいかな。
現実に生きてたら、人とちょっと手でもつないだら気持ち良くなる程度の快感。それを感じたくて誰もいない夜の砂漠を歩いてんだからさ、どうしようもないよ。
救いがない。
いくらカリフォルニアに住もうが天国みたいなところに住んでいようが、その実、その人が芸術家だったらいつもヴェニチアみたいに冷たい夜に沈んでいくのさ。
誰か、僕が死んだら、その墓のコンクリートが固まる前に赤ん坊の足形でも残してくれないかな。間違っても「ここに眠る」なんて一節は刻まないでくれ。また夜明け前に帰っちまう。