君が運ぶ海の音
わたしの人生は、いつだって遠回りだ。
そっと目を閉じる。
そこには自由な世界が広がっていて、わたしはどこへでも行ける。
でも、目を開くと、そこには狭い世界がただ漠然と存在している。
この世界に、ヒーローはいない……。
今日は久々に海に来た。
お姉ちゃんが飲み物を買いに行っているその間、ひとり取り残されたわたしは、空を飛ぶ鳥を見つめていた。
砂浜にめり込む車椅子の車輪が、わたしの自由を更に奪った。
どこからか歌声が聞えてくる。
ご機嫌なその歌は、聞いたことのない、まるで今作られたかのような歌で、でもメロディーがとても綺麗で心地よかった。
ふと、歌声の主がわたしの前に現れた。
彼は、斬新なデザインのTシャツを着て、短パン姿で、イイ感じの棒を手に持ち、はしゃいでいる。
「わー! 海ってやっぱり気持ちいいなぁ」
砂浜にイイ感じの棒で、彼は何故だか“イデオロギー”と文字を書く。
そして、波が“イデオロギー”をさらって、文字は海にとけていった。
キラキラした無邪気な笑顔が眩しくて、その姿はまるで少年のようだった。
不意に、彼がこちらを見た。
「!」
「こんにちは!」
「こ、こんにちは……」
「いやー、久々に海に来たけど、やっぱりいいねぇ!」
まさか話しかけられると思わず、わたしは明らかに挙動不審だった。
目の前にいる年齢不詳の彼が、突然現れた妖精のようにも思えた。
これは、わたしの幻覚?
彼は海水に手を濡らし、満足げにこちらを見て手招きする。
「こっちこっち! 海水が冷たいよ!」
「でもわたし、歩けないの……」
自分の口から出たその言葉に、やっぱり、がっかりした。
目の前に見える我が家が果てしなく遠くて、そびえ立つ階段がとても長くて……。
せかすように音を鳴らす踏切が、点滅する信号が、とても怖くて……。
ああ、せっかくそんな日常を忘れて、何もない海に来たというのに。
彼はわたしの返答に、少し首を傾けた。
そうだよね。
わたしは結局、海に来ても砂浜から見つめることしかできないんだ。
「はいっ!」
「へっ!?」
彼が近付いて来たかと思えば、背中をこちらに向け、わたしの前にしゃがんでいる。
「……?」
「俺がおんぶして、ひとっ飛びですよ。海なんて!」
「え? いや、え……?」
「君のつま先も濡らさないよ。お任せくださいな」
「え、ちょっと!」
困惑し、状況を理解できないわたしをよそに、彼はわたしをおぶって海へと走り出した。
「そーれー!」
彼は自分の両足をお構いなしに濡らしながら、バシャバシャ音を立て波打ち際を忍者のように駆けて行く。
わたしは振り落とされないように、彼の背中にしがみつき、全身で海風を浴びた。
それは、なんだかイルカの背中にでも乗せてもらったような気分で、名も知らない君の背中はあたたかかった。
「よかった。やっと笑った」
彼は嬉しそうに、わたしに微笑んだ。
どうやら、わたしは笑うことを忘れていたらしい。
「なんだか、海を泳いだ気分」
「そうでしょ?」
わたし達は顔を見合わせて笑った。
「心のささくれ」へつづく!