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遠き雷鳴

作者: 胡姫

「…二人で見上げた空を思い出した」

「はい?」

急な雨に降られ、雨宿りをした納屋の軒先で父の呟いた言葉に、劉禅は思わず聞き返した。

久しぶりに親子水入らずで遠乗りに出かけた帰り道のことである。今日はわずかばかりの暇ができた、と珍しく劉備が誘ってくれた。一国の主として多忙を極める劉備と二人で過ごせる機会はいかに劉禅とて滅多にない。二つ返事で父と轡を並べて四方山話を楽しんでいたのもつかの間、不意に雲行きが怪しくなりぽつぽつと雫が落ちて来たかと思うとすぐに滝のような雨となった。

劉備は先ほど呟いたことは忘れたような顔である。空耳だったのかと劉禅は思った。

時折雷鳴が轟き、あたりを昼のように明るくする。劉禅は首を竦めた。怖い。理屈ではない。自然の力というものは人間の力の限界を突き付け、畏怖の思いを抱かせるものだ。

怯えているのが分かったのだろう、劉備は目元を緩め、劉禅の濡れた黒髪を撫でた。劉禅の髪は父とよく似た髪質で黒曜石のように黒い。父の髪も同じように黒々と濡れていた。

「禅は雷が怖いのか?」

「怖いです」

劉禅は正直に答えた。虚勢を張って怖くないと答えた方が武将の子らしいと思うが、嘘はつきたくない。

「父上は怖くないのですか?」

「どうかな。雷より、それを共に見た相手の方がずっと怖かった」

ふっと劉備は遠い目をした。

それは誰ですか、と劉禅が問おうとしたちょうどその時、すぐ近くで落雷らしい轟音がした。

「わっ」

思わず劉禅は両耳をおさえて蹲った。すぐに子供のような真似をしてしまったと赤面がもう遅かった。笑われてしまうかもしれない。

「すみません、思わず」

父の方を窺った劉禅は、父の様子が常と違うことに気が付いた。いつもなら笑って「いつまでも臆病ではいかんぞ」などと言ってくれるのに、今日はじっと黙っている。やがて劉備はぽつりと言った。

「…私と同じことをするのだな」

劉禅は返事を忘れて父の顔を見上げた。

父の美しい黒目がちの瞳が見たことのない光を湛えていた。その瞳は劉禅ではない誰かを見ていた。さっき言いかけた、雷を一緒に見た相手だろうか。劉備にこんな目をさせる相手を劉禅は知らなかった。知らない父がいるようだった。深い眼差し、切なげな光、まるで想い人を偲ぶような…

聞いていいのか迷ったが思い切って劉禅は口を開いた。

「父上、父上と雷を見た相手というのは…」

「曹操だ」

「えっ!?」

余りに意外な名が出たため劉禅は仰天して素頓狂な声を上げてしまった。

不意に劉備は我に返ったように劉禅を見た。すぐにいつもの慈愛深い微笑が浮かんだ。

「冗談だよ。お前があまりに雷を怖がるから、揶揄ってやろうと思ったのだ」

「なんだ…驚きました」

劉禅は安堵の息をついた。いつもの父に戻っている。

劉備は空を見上げた。天空では、黒雲が二匹の竜の如き渦を巻いて激しく躍動している。まるで生き物のようだ、と劉禅は思った。

いつの間にか雨は小降りになっていた。


「あ、止みました。行きましょう」

やがて大地に鳥の囀りが戻り、木漏れ日が差すようになると、劉禅は馬の手綱を取って父を促した。雨で洗われた大地は清々しい光に満ちている。

元気よく先に立って馬を進める劉禅の後ろ姿を見ながら、劉備はふわり、と笑った。もし劉禅がこの時振り返ったら、また知らない父の姿を見ただろう。呟いた声は小さすぎて劉禅には届かなかった。

「…全部本当のことなんだよ」


            (了)

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