楽園の子
できれば「美味しかったです」と真菜さんに一声を掛けて店を出るのが、マナーというか真菜さんをねぎらう報酬になるらしく、真菜さんの姿をキッチンに探すのだけど、店の混雑を勘案すれば真菜さん当然それどころじゃない。
仕方なくキッチンに向かって「ごちそうさまでしたー美味しかったですー」と叫ぶと、にっこり頷いてくれたのは近くにいた給仕のお姉さんだった。キッチンやフロアには、他にも真菜さんを手伝う人が一〇人ほどいる。マナさんの善意のボランティアを支えるボランティア。そういう善意提供のしかたもあるのか、と思う。
店を出ると、朝から空気を覆っていた霧雨が粒に変わり落ち出していた。
「うわー、本格的に降ってきたかー」と嘆く矢夜也と教会の前で別れて、家路を急ぐ。
「今日の冒険は中止だね」と深月。
傘がない。
『北の山』や『西の海』と呼ばれる場所、そしてあの『迷宮』をもう一度確認したかったけど、どうせ事実なんだろう。雨が降る地下76階。東の森の無限食料。迷宮のモンスター。神の少女の蘇生能力。善意によって機能する街。それだけの謎を事実として確認してしまえば、他の謎を疑って回るのはもう無駄な気がした。
「あ、ちょっとストップ」深月を制して立ち止まる。
斜向かいの家。
表札にはやはり「湯田イスカリオテ」と書かれている。湯田は漢字かよ。
「ここなんだ。湯田さんち」
「あんまり近づかない方がいいかもな」
「そだね」
そそくさと家に駆けると、軒下に小柄な黒い長髪があって心臓が飛び出る。
けれど、よく見れば湯田ではありえなかった。
黒髪の少女は振り返って、
「お、やっときたな」と言った。
――待たれてた?
やっと帰ってきた、という意味だろうか。
「どうしたの?」と訊ねる。
「あまやどりしてんの」と少女は答えた。
背格好はギリ中学生に見える。小学生に近いほうのギリ。
「ここ、お兄ちゃんのうち?」
「そうだよ。昨日来たんだ。よろしくね」
少女はにまーと笑って、肩から下げたバックをごそごそし始めた。
「ではこれをあげる」
瓶に白い液体が詰まっている。
「牛乳?」
「そだよ。なまちち」
生乳?
「もらっていいの?」
「あちしが届けてるの」
「そうなんだ。ありがとう」
「うれしい?」
「うん」
「すごくうれしい?」
「ああ」
「では明日も届けてあげる」
またにんまり。
と、少女は雨の中にてててと飛び出してしまう。
「濡れるぞー!」
慌てて忠告するけれど、少女は振り返って、
「いーのー。どーせやまないからー」
聞く耳持たずに駆けて行く。
「かわいーねぇ」と深月。
「牛乳配達してるのかな」
あれも善意の一形態なのか。