楽園の飯
「――ねえ、二人ともお昼どうするの?」
矢夜也にねぎらいと解散の号令を掛けられた自警団が、ぞろぞろ帰っていく光景を眺めていたら、矢夜也に声を掛けられた。
「真菜さんの食堂に行ってみようと思ってました」
「あ、なら一緒に行きしょうよ」
教会を出て広場を見回せば、食堂の場所はすぐにわかった。
通りにつながる角地に人だかりができている。
解散したばかりの自警団の列もそこに向かって流れている。
「結局、お礼もご挨拶もできなくてしょんぼりです」
深月は歩きながら肩を落した。
「ちやほやされて浮かれてるから」
「あ、そーちゃんそれ嫉妬? 嫉妬なのかな? 嫉妬ですかな?」
深月が顔を覗き込んでくる。うぜえと思っていると、「一途さまはお礼もご挨拶も望んでいないから大丈夫よ」矢夜也が言った。
「でも、森で会ったおばちゃんが言ってましたよ。毎日のご挨拶」
「あれは違うのよ。みんな良かれと思って挨拶に来るうちに、いつの間にか決まりみたいになっちゃたの。でも、街の人全員が挨拶に来たら対応する一途さまが大変でしょう。来客をぞんざいに扱ったりは絶対しないかただし」
お優しいかただから。
「むしろ挨拶に来なくていいって、私が暗ににおわせてるくらいなの」
街の人全員が挨拶に来たら何人だろう、と考えて、神隠しの被害者が日本だけでも千人いることを思い出す。千人全員がこの街にいるんだろうか?
店に着く。混雑のわりに、少し並んだだけで席に通された。
「メニューがお任せだから早いのよ」
真菜さんの食堂はメニューがなかった。座って待っていれば自動的に日替わりランチ的なものが出てくるシステムらしい。作りおきが利くシステムだ。
五分もしないうちにスープとサラダ、深皿の料理が目の前に並ぶ。見た目パエリアだけれど、醤油が香り立つそれは和風パエリアというか、炊き込みご飯なのかもしれない。けれど具材はやはりパエリアらしいシーフードで、醤油と魚介のマッチングは最強だな、と思わされたうえ、口に運べばバターが応援に来るのだから無敵の和洋折衷だった。
「おいひい!」
深月は頬に手を当てて、ぷるぷる顔を震わせている。
「でもこれ、本当にタダでいいんですか?」
こんなに美味しければ、疑問も口を衝く。
「いいのよ。真菜さんはボランティアっていうか、なんていうのかな、いるじゃない自分の料理をふるまうことに喜びを感じる人」
いる。趣味で打ったそばやうどんを無償で振る舞ってくれるおじさんが施設にもよく来ていた。
そばおじさんの好意は大部分がボランティア精神で成り立っているとは思うけれど、穿った見方をすれば、おじさんはおじさんで自分で打ったそばを振る舞う場所がほしかったのかもしれない。自分の実力をタダでいいから誰かに披露したい、褒めてもらいたいという感情は、なにも料理に限ったことではないのかもしれない。
「この街は真菜さんみたいな人の善意で成り立っているのよ」と矢夜也は言う。
「そもそもこの楽園でお金は何の価値もないの。持っていても使えないからね。この街には狩った獲物を捌いて配ってくれる人がいるし、小麦をパンに変えてくれる人がいる。みんなが無償の技術と労働力を提供し合って生活している。だから君たちも、もしできる善意があれば積極的に協力してね。迷ったら自警団に入るとかでもいい」
なんだか物々交換の原始社会に放り込まれた気がする。貨幣が発生する以前の時代だ。硬貨なんて誰かが価値を保証しなければ、金属の固まりでしかない。五〇〇円玉の原価はたった三〇円だし、一万円札もここでは長方形の紙以上の価値はないのかもしれない。
店では、やってくる客がキッチンに食材を差し入れる光景が散見できた。
今も、釣り竿を肩に下げた客が「今日は大漁だったから」と、籠いっぱいの魚をキッチンに提供している。
でも、と思う。
「善意だけで成り立つ――なんてあり得るんでしょうか。非協力的な人や、悪い人だっているんじゃ」
「そうね……信用できないのもいないわけじゃない」
言いながら矢夜也は視線を動かす。
その先にあった姿に、ぎょっとする。
店の隅で人目を憚るように食事をとる男は、小柄で、黒ずくめで、長髪だった。
――斜め向かいの家の人影。長髪の覗き。
「なんなんですか、あの人?」
「いかにも怪しいでしょ。アイツはユダよ。ユダ・イスカリオテ」
「裏切り者、の比喩ですか?」
イスカリオテのユダは、キリストを銀貨三〇枚で祭司長に売った男だ。英語でその名前「JUDAS」を叫べば、それは「裏切り者!」を意味する。
「違うわ。本人がそう名乗ってるの」
「なにそのあからさまに怪しい名前」
「もちろん偽名でしょうね。ここでは本名を名乗るが必要ないから。私だって本当は三本木矢夜也じゃないかもしれない」
誰も本名を知らなければ、そういうこともあるかもしれない。
いずれにせよ、自ら進んでユダなどと名乗る行為は、まともじゃないと思える。
「そうそう。もしあの男が何か言ってきても、相手にしちゃ駄目よ。まあ話を聞いたところで、相手にするのが馬鹿らしくなると思うけど」
こわい、と深月が言う。
昨日の覗きとあの男が重なったのかもしれない。
「大丈夫よ、あれはただの懐疑主義者だから。ここ――楽園には選ばれた人しか来れないの。本当の悪人ならそもそも楽園に選ばれていない。ここの人たちはみんな優しさを持っている。その優しさは過去の傷に由来するのかもしれない?」
「訊かれても……」
「だってわかんないんだもの。ともあれ、ここでどうしようもない悪人には会ったことがない。なんだろ、みんな優しすぎて人生損してきたみたいな人たち」
損をしてきた人生――とあからさまに言われれば、これまでの人生を否定されたようでムッとする。
けれど、反論できるほどの材料もない。
――俺の人生は客観的に見たら「不幸」と判断されるものだったのだろうか。
だったのだろう。
深月にしても。
それを語る矢夜也自身にしても。




