楽園の東
○
「何か困ったことがあったら教会にいらっしゃい。私は案内役兼一途さまの補佐役なの」
言い残して、矢夜也は小走りで教会に帰っていった。
「ねえ、そーちゃん。わたしこっちの部屋使うね」
ダイニングの奥には部屋が二つある。
ベッド、机、クローゼットがあって、ビジネスホテル程度に家具が揃っている。
「やったー、夢の一人部屋だー!」
ばふん、とベッドに飛び込む音が隣から聞こえる。
「そーちゃん見て、これ。ユニットバス!」
深月の探索は止まらない。
木の浴槽が気に入ったらしく、そのまま風呂に入ってしまった。
風呂――改めて疑問に思い、外に出る。
覗きはしない。
家の周りをぐるっと一周する。
電線もガス管も地下埋設式ということだろうか。
にしても、電気も水道もガスもメーターは見当たらない。
見上げると、電線のない空に星が煌めいている。
地下なのに星。
考えるのをやめる。
ここにわけがわかってる人間はいない、と矢夜也は言っていた。
考えても仕方がないのだ。
と、斜め向かいの家先に人影が見えた。
向かいと言っても五〇メートル近く離れている。
そこに、黒い人影。
家の光が逆光になりシルエットしかわからない。黒ずくめの格好に見えるが、逆光だから黒く見えるだけかもしれない。小柄な男の形に見える。長髪だから女性の可能性もある。
影はこちらを向いたまま動かなかった。
――気持ちわる。
家に入り、鍵をかける。
部屋のベッドに倒れ込み、疲れた、と思う。
理論も仕組みもわからない数式が続々出現するテストを、一日中解かされていたみたいな疲労がある。それでも自分なりの理論を捻り出して一生懸命解く努力をしたにもかかわらず、答えが一個もわからなかったような徒労がある。
――俺も風呂に入って寝よう。
朝起きたら、実は施設のベッドの上でしたーということもあるかもしれない。
「ぎゃあ!」
悲鳴で跳ね起きる。
リビングに出ると、西洋人形みたいなネグリジェを纏った深月が、あわあわ口を動かしていた。
「どうした!?」
「今、誰か覗いてた」
深月は窓を指す。
風呂から上がり、リビングに出たところ、窓の外にあった目とバッティングしたらしかった。
「どんな奴だった」
先ほどの黒い人影が頭をよぎる。
「角のとこから目が出てただけだからわかんない……けど髪は長かった」
恐る恐るドアを開け、外の様子を見る。
誰もいない。
窓の下にもいない。
念のため家を一周してみるが、やはり誰もいない。
斜め向かいの家は電気が消えていた。
「あれかも。表札」
玄関のドア陰に隠れていた深月が言った。
「表札がない家に人がいるから、おかしいと思われたのかも」
深月は覗かれた理由を 自分の非に求めたいらしかった。
気持ちはわかる。
理由もなく覗かれたと考えるよりは、よほど救いがある。
部屋にあったメモ用紙でその場しのぎの表札を作って、表札をさげるためにあるらしい玄関の釘頭にぶすっと刺す。
「睦上創哉・水無月深月」
別姓の夫婦みたいだと思うけれど、深月は「魔よけのお札みたいだ」と言った。
人の気配を感じさせると、熊は寄ってこないらしい。違うか。
「じゃわたし寝るね。おやすみそーちゃん」
「おやすみ。窓、ちゃんと鍵かけろよ」
「うん」
風呂。
水を飲んで寝る。
携帯はずっと圏外のままだった。
目が覚めると丸太むき出しの天井があって、朝イチで現実を思い知らされる。
何を着ようかとクローゼットを開けてみるが、やっぱり制服でいい。
部屋を出ると、西洋中世の町娘みたいな格好をした深月がカレーを温めていた。
こいつ結構楽しんでるな、と思う。
カレーとオレンジで腹を満たすと、矢夜也が書いてくれた街の地図をテーブルに広げた。
「まず東に行ってみようか」
今日は深月と協議のうえ、謎を一つ一つ、目で確かめることにした。
家を出ると、いきなり最大の謎が襲いかかる。
「なんで地下76階なのに雨が降るんだろうねえ」
深月が空を仰いで言う。傘を差すほどでもない雨が降っている。
「ユピテル神が怒っているんじゃないか」
「いや、そういう話じゃなくてですね」
はぐらかす。
その謎はスケールが大きすぎるから考えない。
わけわかってる人間がいない謎を高校生二人に解けるとは思えない。
その謎は現時点では受け入れるしかないのだ。
「NASAならわかるかな……」と深月。
管轄はわからないが、何らかのでかくて賢い科学的な機関に助けを求めたくなる気持ちはわかる。
「気象庁でいいんじゃない?」
石畳の道を東――広場に向かって歩いていくと、すぐ教会が見えてくる。
物々しい格好をした人たちが、教会からぞろぞろ出てきて騒がしい。
みな剣や槍、革鎧で武装している。
矢夜也が先頭にいたから、彼らが自警団なのだとわかった。
「わたしの敵討ちに行くのかな」
彼らが列をなして向かう先には、迷宮に続く門扉がある。
「楽しそうな敵討ちだな」
一行にピクニックにでも行くような気楽さが漂っているのは、やはり一途さまの存在があるからなのだろう。蘇生の力。
教会の前を通りすぎ、まっすぐ東に向かう。
しばらく歩くと小高い丘のようになっていて、登り切った場所で俺たちは楽園を見る。
「すげ……」
平原が一面に広がり、整然と生えそろった木は手入れされた果樹園のようだ。奥に行くほど木の密度が増して、やがては森と変わっていく。森の果ては見えない。
丘を下りる。
木々は多種多彩で、やはり多種多彩な果物が実っている。
オレンジが木になっているところを初めて見た。と思ってよく見るとポンカンだったりする。じゃあこっちは何だ、と思うといよかんだったりもする。蜜柑類だけでも謎のバリエーションの細かさだ。
「そーちゃん、これリンゴ。楽園のリンゴだ!」
あははは、と笑う深月は何かがツボにはまったらしかった。
頭良くなるかなーと、もいだリンゴをしゃくしゃく食べ始める。
「おいしー! もう一個!」
矢夜也の話だと、この東の森では野菜、穀物、果物が取れるどころか、動物も狩れるらしかった。
『誰の物でもないし、腐るほどあるというか、供給が多すぎて実際腐ってるから、勝手にどんどん取っていいわよ』
矢夜也はそう言っていた。
『楽園にあるものはあまり所有権を気にしなくいいわ。園の全ての木から取って食べなさい、って聖書の神さまも言ってたでしょ』
でも、善悪の知識の木からは食べちゃ駄目なんだっけ?
「ホントに食べてもいいのかな……」俺はぽろり呟く。
「え」と、深月の動きと表情が固まった。
「なんで食べてからそういうこと言うの……」
深月は囓りかけのリンゴを見つめている。
「いいのよー、取って」
と、隣の木でリンゴをもいでいた年輩の女性が話しかけてきた。
「取っても取ってもどんどんなるんだから。お兄ちゃんら新人さんね?」
「はい。昨日来ました」
「あらー、じゃあわかんないわよねえ」
おばあちゃん、というにはまだ少し若い感じの女性。気さくで優しいおばちゃん口調にもかかわらず、異様な印象を受けるのは両腕を埋め尽くしたタトゥーのせいだった。
――楽園に選ばれる人は、みんな何かしら傷を抱えている。
ふと、矢夜也の言葉を思い出す。
おばちゃんは、あっちには稲があるから自分で刈って街の誰々に持って行けば米にしてくれるとか、メロンは人気だから朝イチで採りに来た方がいいとか、森の動物は狩ってもいいけど罠は危ないから仕掛けちゃ駄目だとか、こちらに返事の隙すら与えない圧倒的口数で、おばちゃんらしい世話を焼いてくれた。
「まあ、もし罠で死んでも一途さまが生き返らせてくれるんだけど。でもいきなり死ぬとビックリするじゃない」
わかりますー、と深月が同調しておばさんと笑い合う。
「あらアンタもう経験済みなの?」
「はい昨日無事に済ませました」
「まったく最近の子は早いんだから」
雑談。
「そうそう、アンタたちちゃんと一途さまにご挨拶はしてきた?」
「昨日、お目にかかりました」
「そうじゃなくて、毎日のご挨拶よ」
「え、してないですけど……」
というか、そんなシステムを知らなかった。
「あらー駄目よ。神さまには毎日ちゃんとご挨拶しないと! 矢夜ちゃんから聞かなかった?」
聞いてない。
「今からでも大丈夫ですかね」
「いつでもいいのよ。でも朝がいいわね。一日一回お顔をお見せしないと一途さまが心配なさるでしょう? 行方不明になったんじゃないかって」
お優しい方だから。
「ここでは死んでも大丈夫だけど、行方不明は駄目よ。さすがの一途さまも遺体がないと再生はできないんだから」
おばさんは森の奥を指す。
「果てを見に行こうとして、行方不明になる人もいるのよ」
世界の果てを知ろうとしては駄目らしい。