楽園の家
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「これドッキリだよね……」と言ったあと、深月は頭を抱えたまま言葉を発しなくなった。何と答えていいかわからず、テーブルで仲良く絶句して五分が過ぎる。五分どころじゃなかったのかもしれない。いつの間にかカレーができあがっていた。
「食欲がないときはカレーに限るわ」
矢夜也はこの街にたどり着いた人間をエスコートする、案内人的な役割を担っているらしかった。休める住居まで案内し、当面の食事としてカレーを作ってあげるのだという。
「みんな食欲なくしてるからね」
カレーの香りは食欲を促す。
「――正直わけがわからないです。現実なのかすら」
「それでいいのよ。ここにわけわかってる人間なんていないわ。思考をぐんにゃりさせて、ありのままの事実を受け入れたらいいのよ」
そうするには、わからない謎が多すぎる。現実離れし過ぎている。
「帰る方法、なにかないんですか?」縋るように深月が訊いた。
「その答えはもう出てるでしょう?」
――神隠しから戻ってきた人間はいない。
さらわれた地下76階には街があった、なんて話も聞いたことがない。
「でも、そんなに悲観することもないのよ。地下に連れてこられたから、すぐ地上に帰らなきゃ、ってことはないの。それはただの反射的思考。帰巣本能みたいなものかしら。地下イコール暗い、闇、悪。地上イコール明るい、光、善。だから人の帰るべき所は地上にあるみたいな」
――何言ってんだこいつ。
「何言ってんだこいつ、って思うでしょ。でもすぐにわかる。地下にも楽園はあるってことが。どうせ君たちも上にはうんざりしてたクチでしょ」
「うんざり?」
「そ、うんざり。ここに連れてこられる人は、みんな何かしら傷を抱えている。慰められるべき優しい人だけが、この楽園に選ばれる」
「誰かが、傷ついた人だけを選んでここにさらってくる、ってことですか?」
「わからない。ただ、ここに連れて来られた人たちには、辛い過去が多分に含まれているということ。それは、世界にうんざりしてしまうような」
世の中に、傷ついていない人なんかいるんだろうか、とも思う。
まあ程度の問題なのだろう。
――うんざり。
それなら俺も深月も該当してしまうのかもしれない。
「君たちも心当たりあるんじゃないかしら?」
矢夜也が見透かす。
ってことは、この人も何かしら傷を抱えているのか?
「ここはね。そういう報われない人を癒すために、誰かが作ってくれた楽園に違いないの。ここは地下76階の楽園なのよ」
今のご時世、天国も地上に土地を確保するのは大変らしい。
「ま、そんなに悲観しないでしばらくここで過ごしてみるといいわ。この家は君たちにあげるから」
「家をくれる?」
「そ、ここは空き家だから好きにして良いわよ。でも表札は出しといてね。表札の掛かった家はもう誰かのものだから、勝手に入っちゃいけないルールなの。入ると自警団が飛んでくるから気をつけて」
「そんな……誰が作った家かもわからないのに」
「服、いいのかな……」深月が襟をいじる。
「誰が作ったかわからないから良いのよ。楽園にあるものはあまり所有権を気にしなくていいわ。これもそのうち意味がわかる」
いいかげんカレー食べましょうか、と矢夜也が言う。
食べてる間も、矢夜也はこの街での生活の基本をレクチャーしてくれた。
けれどそれは概論というか、この世界の触りの部分だけだった。
地球におけるこの街の具体的ポジションとか、自然科学では了承しかねる部分に突っ込むと、「自分の目で確かめなさい」と言われてしまう。
「どうせ口で言っても信じないでしょう?」
そのとおりではあるけれど。
「そういえば、さっき自警団で思い出したんだけど……」
矢夜也は深月に言って、俺を気にした。
自警団とはここのボランティア警察のようなものらしい。
「深月ちゃんの死因。事によっては自警団を動かす必要があるの。もし辛ければ言う必要はないのだけれど……」
深月が生き返ったことに浮かれてすっかり頭から飛んでいた。
深月を発見したとき、水着は乱れていて、身体に打撲傷のようなものがあった。
矢夜也もおそらく同じ疑いを持ったのだろう。
「なにか思い出せないかしら?」
「俺、席外そうか」
犯人を罰することができるなら、協力は惜しまない。
深月は、神隠しにあってから生き返るまでの記憶を無くしていた。
死んでしまったから、その周辺の記憶が消えてしまったのかもしれない。
むーん、と深月は唸る。
「無理しなくていいわ」
矢夜也が諦めかけたとき、深月が「あ!」と手を叩いた。
「そそ、思い出しました。わたし気がついたら洞窟みたいなところにいて、なんだここーって思ってたら、天井からなんかべちゃって落ちてきたんです。そしたらなんだかぐにゃぐにゃ動いてて。かわいーって思ってたら、思いっきり体当たりされて。ぐにゃぐにゃしてるのにすんごく痛くて」
「ぐにゃぐにゃしてるの?」
俺は訊ねる。それ、かわいいか?
「なんていうのかなー。スライムみたいのん? そしたら今度はべちゃって顔に張りついてきてさ。息できないー、くるしー、って思ってたら、がばって目が覚めて教会にいたの」
見てた夢を思い出した感覚ー、と深月はすっきり顔をする。
――スライムみたいのん?
あの迷宮にはモンスターみたいのんもいるのか、と思うけれど今さらだ。
もう驚き疲れた。
神隠しの迷宮。地下76階の街。地下なのに沈む太陽。死ぬ深月に蘇る深月。
そりゃモンスターの一つもいるだろう、とさえ思える。
「ここにはモンスターもいるんですねぇ……」
環境適応力を見せつける俺に、矢夜也は真顔だった。