終章 物語の楽園
「おーい、もう行くぞー」
玄関のデッキに腰かけたまま、隣の家に声をかける。
「やーん、もうすこしー」
返ってきた声に、俺はため息。
俺は怒っている。
集合は一〇時に俺の家だったはずだ。
なのに、二〇分過ぎても誰も来やしない。
家が近過ぎるから、みんな時間にルーズになっているのだ。
と、隣家の玄関ががちゃり、開く。
「創哉くんごめんねー」
だが、現れたのは浅月だけだった。
白いシャツにデニムのショートパンツ、小脇にスケッチ道具を抱えた浅月はすっかり準備ができている。
「深月は?」
「もう、ちょっとかな」
「遅い」
「でもおねーちゃんね。創哉くんの前で着る服に悩んでるんだよ」
そう言われてしまうと、俺の怒りは行き場をなくす。
「今日は海の絵を描くんだ!」と、浅月は色鉛筆を振り回して張り切っている。
三六色入りの色鉛筆は浅月のお気に入りだ。
見上げる空は絶好の天気。
青がたくさん減りそうだった。
そうして五分。
現れた深月は「ごめーん」と笑ってごまかす。
ふりふりレースが多めの姿は、なんだか魔法でも使えそうだ。
まあ可愛いんじゃないかな、と思うけど俺はそれを言ってやらない。
「もひとつごめんだけど、教会にちょっと寄ってもいいかな」
「教会?」
「今朝、おいしいトマトが採れたから一途さまに食べてもらいたくて」
深月が開いて見せた巾着には、真っ赤な宝石みたいなトマトが詰まっていた。
東の森で会った頭がつるつるのおじさんに、おいしいトマトの見分け方を教わったらしい。
あとでそーちゃんにも分けてあげるね、と深月は言った。
「じゃ、行こうか」
「え、あれ?」
何かに戸惑う浅月の手を「いいんだ」と引いて、俺はようやく一歩を踏み出す。
――と。
「ねえ、親友をナチュラルにおいていくとか酷くない?」
走って追いついてきたのは大和だった。
「お前は……まあいいかと思って」
「深月との扱いの差がすごい」
「世の中が男女平等だとでも思ってたのか?」
「この男性差別主義者め」
「そもそも遅れるお前が悪い」
「俺が必ず遅れるとわかってるのに、何も手を打たないお前が悪い」
「俺はお前にだけ九時五〇分集合と伝えた」
「そこは余裕を持って九時四〇分にしておくべきだった」
「三〇分遅れて来て言うか」
深月と浅月がくすくす笑う。
俺と大和のいつもやりとりだ。
喧嘩なんて起こらないと知っているから二人は笑える。
「あら。みんないらっしゃい」
教会に着いた俺たちを迎えたのは矢夜也だった。
祭壇脇のテーブルには、自警団を仕切る湯田と外崎もいる。
一途さまを囲んでお茶を飲んでいたらしかった。
「これ、よかったら皆さんで分けてください」
深月はトマトをテーブルに広げる。
一途さまがあらあらまあまあ言いながら立ち上がった。
「なんて綺麗なトマトでしょう。こんなにいただいて……ありがとうございます」
一途さまは謙虚に頭を下げる。
「一途さまに食べてほしくていっぱい取ったんだよ!」と浅月がはしゃいだ。
「そうだ。矢夜也さん。先ほどのお肉、お礼にもらっていただきましょう」
「ああ、そうね。猪の肉がたくさんあるのよ、もらっていって頂戴」
「ええー、トマトのお礼がお肉だなんて悪いです」
「いいのよ。自警団のみんなが狩ってきてくれたんだけど、食べきれないから」
「まったく」と外崎が口を開く。「自警団なんて言っても害獣狩るのが仕事みてえなもんだ。平和でしょうがねえ」
と、湯田がトマトを一つ囓って、「これは素晴らしく甘いね。そうだ。後で僕の家にも寄ってくれたまえ。昨日わずかばかりパスタを打ち過ぎてね。このトマトはソースに良さそうだ」
そのとき、「一途さまー」と縋るような声が教会に響いた。
見ると、女の子が一人教会に入ってくる。
いや、二人だ。
背におぶられたもう一人がぐったりしている。
「一途さまー。海に入ったら、マリエが心臓発作起こしちゃって……」
「あらあら大変。もう大丈夫ですよ。すぐに生き返らせてさしあげますからね」
矢夜也が台座に寝かせるように促す。
一途さまが祈りのために集中し始める。
「……お仕事の邪魔になるから、そろそろ行こうか」
「そうだね」
俺たちは帰りにまた寄る旨を湯田に伝える。
これから海に行くのだ。
海に猪の生肉を持っていくわけにもいかない。
「心臓発作に気をつけろよー」外崎が、がはがは笑った。
西の海に向かって、俺たちは歩く。
俺と大和と深月と浅月。
並んで歩く四人は無敵だ。
俺たちの会話には楽しさしかない。
防風林を抜けると、海の景色が広がった。
突き抜けるような青さの空と海に、深月と浅月が「きれー」と声を揃える。
「俺、浜にいるわ」
泳いでくる、と大和は言った。
「わたしたちは岬にいるね」
絵を描いてる、と深月と浅月は言った。
「崖から落ちるなよ」
「そんなわけないじゃん!」深月が笑う。
俺はいつもの場所で釣り針を垂らす。
今日はたくさん釣らなきゃな、と思う。
深月と浅月の分、一途さまと矢夜也の分、湯田の分、外崎のは……どうしようかな。
もらった分はできるだけお返しをする。
この世界はそんな善意で成り立っている。
すぐに竿に当たりがある。糸を腕に絡めながら巻き上げる。ぐるぐる回していると、十センチ大の魚が姿を現した。途端、海の浮力の助けを失った魚が重くなる。糸が腕を締めつけるが、我慢できない痛みじゃない。ここで釣れるのは、いかにも魚って感じの魚ばかりだ。名前は知らないけれど、美味しければそんなことは大した問題じゃない。
なかなかいいカタの魚が揚がった。
誰かに自慢したいけれど、ここには俺ひとり。
ちょっと寂しくなったりもするが、まあいつものことだ。
魚にとってここは楽園じゃないらしく、三〇分も針を垂らせば確実に三、四匹が釣れた。
俺はこいつらを食堂に卸したり、欲しい人に配ったりしてこの世界の生活に貢献している。
この世界は楽園だ。
ここの生活はとても楽しい。
どこかにこの世界を創った奴がいるとして、そいつを神と呼ぶのなら、俺は神を褒めてやりたいと思う。夕食にでも招待して、まあ飲めよとワインの一杯も注いでやりたいと思う。
だが、とても幸せな世界だと思う一方で、俺は何かもの足りない気もしている。
漠然とした喪失感。
何か大切なものが欠けている気がしてならないのだ。
それはそのうち引き出しの中からひょっこり出てきそうな気もするけれど、もう二度と見つからないような気もしている。
それはとても悲しいことだ。大切なものが一生見つからないのはとても悲しい。
その寂しさを紛らわせようと、俺はバッグからノートを取り出す。
そしてそこにちょっとした物語を書きつける。
すると紙の上に小さな女の子が現れる。
女の子は俺が作った小さな世界をばたばたと走り回る。とても楽しそうに。
だけど俺は文章や言葉といったものがあまり得意じゃないから、なんだか酷い世界になってしまって、女の子が少し可哀想だ。でも、頑張って書いてみる。誰かに見せるわけじゃないから別にいい。でも、いつか上手くなればいいなと思う。そうなったら本当に嬉しいと思う。
深月と浅月が岬から下りてくる。
「ねえそーちゃん、お腹空かない?」
「そうだな」
「一緒に浜に行こ?」
浜には露天が並んでいる。
深月と浅月はアイスの店を見つけてはしゃいだ。
バニラとチョコの二色アイスがあったのだ。
二人はチョコを愛している。
と、俺は隣に妙な露天を見つけた。
――どうしてこんなところで?
思わず笑った。
屋根の下では、黒髪の少女が串に刺したピンポン玉大の丸みに、あんこを塗ったり、醤油のたれを塗ったりしている。
「一つもらえないかな」
すると少女は振り返って言う。
「お、やっときたな」
――待たれてた?
露天の旗には、だんご屋と書いてある。
(了)
□参考書籍
「ソフィーの世界」(著)ヨースタイン・ゴルデル/(監修)須田朗/(訳)池田香代子/日本放送出版協会
「翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない」永井均/ナカニシヤ出版




