新世界の神
目を開くと、隣の神野が虚ろな目でキーを叩いていた。
――あたしは話を終わらせたと同時に眠ってしまったらしい。
美園に落ちた瞬間の記憶はない。
拭った目元が濡れていて、泣きながら寝てしまったのだと知る。
それとも寝ながら泣いていたのだろうか。
どっちにしても恥ずかしい。
隣の神野は何かクラシックのメロディを口ずさみながら、狂ったようにキーを打ち鳴らしていた。
いけないお薬をやっている人――は見たことがないけれど、もしかしたらこんな感じなのかもな、と美園は思う。
神野がいくらキーを叩いたところで、画面に文字は表示されない。
文字入力ソフトが壊れたパソコンがひたすら空白を刻んでいる。
神野が今紡いでいるつもりの世界は幻だ。
神野が見ているの幻の中では、さぞ残酷な物語が進行しているに違いなかった。
幻から戻ったとき、神野は愕然とするのだろう。
神野のシナリオデータはすでに壊れている。
自動バックアップだから、バックアップも壊れたデータで上書きされているはずだ。
神野のパソコンにはもう、まともなデータは残っていないことになる。
美園は、神野の机にあった印字済みの原稿を取り、コピー室に向かう。
原稿をコピー台に置き、一枚一枚、隣のシュレッダーに投入していく。
これでもう、あの世界を再現することはできない。
――辞表書かなきゃな。
美園は嘆息する。
いくら神野のシナリオが残酷だったとはいえ、神野は自分のすべき仕事をしていただけだ。
幻を見せられたうえ、データも飛ばされ、さらにその責任を全部かぶせてもいいような悪の権化じゃない。
――あたしが神野先輩にデータを引き継いだ時点で、もうウイルスがくっついていた、みたいな話でいいかな――。
美園の画策は続く。
あたしのデータもウイルスにやられてて気づきました。
時限式のウイルスだったのかもしれません。
だから全てあたしの不注意です。責任をとって辞めます。ごめんなさい。
無責任だな、と思うけれど、もうどうでもよくもあった。
休めない仕事。つまらない自分のシナリオ。
全てに疲れてしまっていた。
何より自分の才能のなさに、美園はとことん辟易した。
神野のシナリオは好きになれないにしても、自分よりずっと上手いのは事実だった。
今回神野にシナリオを軌道修正されて、改めてそれを思い知らされた。
あたしにはあんな風に書けない。
あたしが書くものと言えば予定調和の陳腐なハッピーエンドばっかりだ。
――向いていないんだ。
しばらく創作から離れよう、と思う。
まだ二二歳、やり直しはきく。
旅にでも出よう。そして帰ったらバイトでもしよう。お菓子屋さん。そうだ、和菓子屋さんがいい。願わくばおだんごが置いてあるお店――。
シュレッダーをかけ終え、美園は席に戻る。
オフィスは、ちらほら人が出勤しだしていた。
幻が解けだしているのだろう、神野がキーを打つペースもだいぶ落ちている。
端から見れば、たんに眠そうな人にしか見えない。
書き上げたシナリオを画面で読みながら、
「ごめんね」
美園は呟く。
このデータを残したまま辞めるわけにはいかない。
これがあったら、神野の世界が復元されてしまう可能性がある。
この世界にはもう二度と手を触れさせない。彼らとそう約束した。
――また世の中に出してあげられないお話を書いてしまった。
美園はアイコンにポインタを乗せ、マウスの右ボタンをクリックする。
だが、ポインタが選択する「削除」がどうしても押せない。
――これで本当に終わりだ。
指が震える。躊躇っている。
――みんなちゃんと物語の楽園に行けるだろうか。
それだけが心配でならない。
――一生懸命頑張った彼らに、神さまはちゃんと楽園を用意してくれるだろうか。
と考えた刹那、美園の頭に閃きが走った。
――馬鹿だ。なんで気づかなかったんだろう。
神の啓示が下りてきた。
美園はポインタをずらして、右クリックでデータの「コピー」を選択する。
USBメモリを差し込み、そこにデータを「貼り付け」る。
――このデータはこっそり持って行こう。
あたしにはまだやらなければいけないことがある。
神さまがあたしにくれた、『物語を自由に操る力』を使って。




