失われる物語
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タナの指示に従って、深月、俺、矢夜也の順で箱に手を置いていく。
箱から塔に向かって光が三つ、飛ぶのを確認すると、タナは「これでよし」と満足げに頷いた。
「なんなんだ、これは?」
「これはこの樹の中枢なんだ。そこに、三人の力で作った時限式ウイルスみたいなものを仕掛けた。目を覚ました新しい神が、物語を進めようとすると発動する仕組みになってる」
仰向けのタナが、眠たそうな目で説明する。
コマのように回りながら倒れたときは焦ったけれど、倒れたまま指示を出し続けたのはタナの執念だった。
「世界を紡ぐのに使う神器があるんだけどな。新しい神が世界の続きを紡ごうとすると、その神器はまず、みづきちゃんに演算処理を狂わされるんだ。そして次にそーやくんに言葉を奪われる」
俺の能力が『言葉を失わせる能力』だとは知らなかった。
緋に染まる者が急に魔法を詠唱できなくなったのも、青十字の男が急に助けを呼べなくなったのも、俺の能力が言葉を失わせていたせいだった。
この能力が俺に与えられた理由は――考えるまでもない。
俺は言葉が嫌いな子どもだった。
タナは体を起こして、続ける。
「そして最後の仕上げは、ややちゃんの幻だ。新しい神は、演算処理が狂い、言葉を失った神器で、幻の物語を紡ぎ続けることになるんだ……」
タナのトーンに勝ち誇るところはなく、むしろ申し訳なさそうにした。
言葉だけ捉えていけば、確かに新しい神は少々気の毒にも思える。
けれど俺たちが味わった残酷を考えれば、タナが悪びれる必要はないとも思う。
「ここがタナの創った世界だってのは、本当だったんだな……」
「無理に信じろとは言わないぞ」
「こんなちっちゃいのが創造主だなんて、誰だって信じられるか」
笑った。
「これはなー、あちしのアバターみたいなもんで、かなりデフォルメされてるんだ。でもちゃんと二二歳で合法だから安心していい」
アバターには人の願望が投影されると聞いたことがある。
美しくありたい人は妙にきらきらしたアバターができるし、他人を笑わせたい人はへんてこなアバターができる。ではこの妙に豊満な少女のアバターには、どんな歪んだ願望が込められているのだろうか。
「アバターってことは、お前。その名前も本当の名前じゃないだろ」
「お、ばれた?」
「赤砂タナ、だしな」
「へへへ、適当なのかもね」
赤砂タナ。
あかさたな。
「でも、ゆだくんなんて、ほんとの名前は湯田一郎だからな。本名が恥ずかしいから『湯田イスカリオテ』なんて中二な名前を名乗ることにしたんだ」
遠くで湯田のくしゃみが聞こえた気がした。
「それを知ってるなんて、本当に神さまなのね」と、それを知っているらしい矢夜也が言った。
「そう、あちしは神。全てお見通しだ」
「なあ、神さま」
「なんだい、そーやくん」
「こんなことを訊いてもいいのかわからないんだけど……」
「いーよー」
「え、あ、うん。……俺たちはこの後どうなっちまうんだ?」
「……」
一転、タナは静かになった。
起きてしまった過去は覆えせないと、タナは言った。
一途が裏切り者の汚名を着せられている事実はもう変わらない。矢夜也と湯田もだ。外崎ほか青十字の主要メンバーが姿を消し、一途もいなくなったとなれば、明日は大騒ぎになるだろう。彼女らがこの世界で平穏に暮らしていける未来が見えない。
それ以外にも、取り返しのつかないことはたくさん起きている。
刃が立たないモンスター。
憎悪に満ちた人々。
そして、笑顔を取り戻さない一途。
俺が暮らしたいと思っていた楽園は、もう失われてしまった。
――と。
「物語の楽園、ってゆーのがあるんだ」
ぽつり、タナが言った。
「そこではな、物語のお仕事を終えたキャラたちが、楽しく暮らしているんだ。もう読んでもらえなくなったお話、もう再生されなくなったお話、そんなお話のキャラたちがな、設定やストーリーみたいなものから解放されて自由に暮らしているんだ」
「おとぎ話みたいだ」
「あちしはおとぎ話が大好きなんだ。おとぎ話だけじゃない。お話はなんでも好きだ。それだけにたまに悲しくなることがある――」
例えば、束ねて並べられたたくさんの絵本。可愛らしい装丁の絵本が、愛された分だけぼろぼろになって、とうとうゴミ捨て場に並んでいる。
例えば、昔流行ったアニメのビデオ。当時あんなに愛されたアニメが、今は中古屋の棚からも追われ、処分用コンテナにぎゅうぎゅう詰め込まれている。
例えば、運営終了に追い込まれたオンラインゲーム。もう二度と遊んでもらえなくなったアバターたちが、膝を抱えたまま静かに姿を消してゆく。
「でもそーゆー子たちはね、まだ恵まれている方なんだ」
タナはうつむく。
「世の中には、日の目を見ないで消えていくお話もたくさんある。誰にも愛されることなく消えていくお話。あちしもそんなへたくそな世界をいっぱい作ってきた。そーゆーときはいつも申し訳なくなる。みんなを世の中に出してあげられなくてごめんね、って。あちしがへたくそなせいでごめんね、って」
タナが背中を向けた。
「こんなへたくそな世界は消してしまおうと思ったこともある。でもあちしはどうしても消せなかった。あちしが消してしまったら、この子たちは本当に終わってしまう。そう思うとどうしても消せなかった。せめてあちしが――、頑張ってくれたこの子たちを、せめてあちしが愛してあげないと、この子たちが存在した意味が本当になくなってしまうって思うんだ」
物語は使い捨てられる。
本屋の棚にはうんざりするほどたくさんの世界が並んでいる一方で、たくさんの世界がごみ捨て場にも並べられている。大量に生産、消費されて、あっという間に忘れ去られていくキャラクターたち。さらには消費もされず、その存在さえ知られないまま消えていく無数のキャラクターたち。タナはそんな創作物を思いやる。
「ねえ、タナ」
「なんだい、ややちゃん」
「あなたがなぜ今そんな話をするのか、私は嫌な予感しかしないのだけれど」
「……ややちゃんは鋭いな」と、タナはどこか観念した様子で「あちしは新しい神からこの世界を切り離そうと思っている」
「切り離したら……この世界はどうなるのかしら?」
「もう新しい神が好きなようにはできなくなる。新しい神には二度とこの世界に手を触れさせない」
「じゃあ、タナがまたこの世界の神になってくれるのか」
俺が訊くとタナはうつむく。
少しだけ、沈黙が流れた。
「……あちしはお話を終わらせないといけない」
「終わらせるって……どういうことだ?」
タナは下を向いたまま、答えに悩む小学生みたいに黙ってしまった。
言いあぐむ、ということに良い予感はしない。
「……終わったお話がどうなってしまうのかは、あちしにもちゃんとわからないんだ。ごめんなさい」
沈黙が気まずかったのか、タナは捻り出すように言った。
わからない、ということは恐い。
終わった後はわからない。まるで死後の世界みたいだ。
――キュゥゥゥゥゥゥゥン。
と、二本の樹が突然鳴いた。
光が慌ただしく走り出し、樹に向かって風がウウヴと吹き付ける。
「新しい神が起きたんだ」
タナは樹を仰ぐ。
走るたくさんの光が四方の闇に反射して流星群になった。
光は次々と上空に向かって走り、やがて見えなくなる。
心なしか、風景が薄くなった。
「みんな」と、タナ。
「そろそろ、お別れしなきゃだ」
タナに視線が集まる。
思わず、二、三度まばたいた。
「タナ……それ、消えかかってるのか」
タナの色素が、存在が、やけにうっすらとしている。
「この世界を切り離すと、あちしもここにはいられないんだ」
「そんな……タナちゃんもずっと一緒じゃないの?」深月が眉をハの字にする。
「……ごめんな」
「神は私たちを見捨てるのね」
意地の悪い矢夜也、だが気持ちはわかる。
俺たちはどこかに、タナさえいれば大丈夫だという考えがあった。神はさすがに頼もしかった。ここにきてタナがいなくなるという事態は、俺たちに言いようのない不安をもたらす。
「ちがうよう……。あちしだってもっとみんなと一緒にいたいよう……」
ひとりぼっちの子どもみたいに、タナは下を向いてしまった。
「タナ」と呼んで、俺は両手でタナの顔を起こす。
見据えたタナは、さっきよりもまた薄くなっている。
俺もこの創造神には言ってやらなければならないことがあった。
でたらめなファンタジーみたいな大聖堂だとか、作りの甘いイカニモっぽい魚だとか、神をやるならもうちょっと勉強してくれ、と言いたかった。不幸な過去とか、先の見えない未来とか、よくもそんな人生にしてくれたな、とも言いたかった。
だけど、そんなことよりも伝えたいことがある。
俺はもう一度「タナ」と呼びかける。
色の薄くなった目で、タナは不思議そうに俺を見た。
「タナが創ってくれた世界、俺は大好きだったよ」
タナの目が丸くなる。
丸い目が一瞬で潤む。
腕で目を拭った。
ふぇぇええええとサイレンみたいな声を上げながら、タナは膝から床に崩れた。
タナがまだここの神だったころ、俺は騙しの迷宮に翻弄されていた。
とはいえ、俺は楽しかった。ドッキリはひっかかる方も意外と楽しいのだ。それにタナは、俺たちを殺そうなんて考えてもいなかった。不幸な過去を持つ人間に優しい世界、死んでも生き返れる世界を創って、俺たちを幸せに導こうとしてくれた。
新しい神とやらがこの世界を創り続けていたら、俺はどうなっていたんだろうか、と考える。
あの時、タナが空から降ってきて、外崎に跳び蹴りをかましてくれなかったら。
それを考えると、俺はとても恐くなる。
タナが神さまで本当に良かったと思える。
「素敵な世界を創ってくれて、ありがとな」
へたり込んだまま、ひっくうっくと嗚咽が止まらないタナの頭を撫でる。
「あちしもな。あちしもそーやくんのこと大好きだから。そーやくんだけじゃないよ。みづきちゃんもややちゃんもいちずちゃんもゆだくんもみんな大好きだから。みんなが大好きだから、あちしはこの世界で一緒に遊びたいと思って」
ふええええ、と声を上げながらタナはどんどん薄くなっていく。
みんなが集まってきてタナの頭を次々撫でる。
深月はもらい泣きしながらタナにしがみついていた。
タナがいよいよ消えようとしている。
しがみついていた深月が離れると、幼い子を看取る親族一同みたいになった。
「タナ」
――なあに?
声まで薄くなっている。
「本当の名前はなんていうんだ?」
――美園だよ。萬年美園っていうんだ。
それを最後にタナの声は聞こえなくなった。
口はぱくぱく動いているけど、もう音はしない。
タナの意志は俺たちにもう伝わらない。
俺たちがタナの声を聞くことはもうできない。
まるで冗談みたいにタナのかたちが消えていく。
タナと世界の境界が溶けて、その存在が曖昧になっていく。
手を握ろうとしてもすり抜けてしまう。
もう撫でてやることもできない。
タナは涙でぐじゃぐじゃの顔を一生懸命笑顔に変えて、手を振り続ける。
「ばいばい」の形に口が動く。
刹那、タナは完全な透明になった。
もう、タナはいなくなっていた。
深月のすすり泣きを聞きながら時間が過ぎる。別れの余韻。五秒ほどだった気もするし、ずいぶん長かったような気もする。
「……あれ、見て」
余韻を破ったのは矢夜也だった。
指した方向を見上げると、樹の遙か高みに小さな光がある。
まさか地上の光? と思うが様子は異なる。
「あれ、なにか大きくなってない?」
光は少しづつ範囲を広げながら、彼方の闇を呑み込んでいる。
「違う」
光は大きくなっているわけじゃなかった。
「降ってきてる……」
大きな光が、遙かな高みから落ちてきている。
近づくにつれ、大きくなって見えるだけだ。
光の天井が落ちてくる。
樹の袂、宇宙の中心にいる俺たちに逃げ場所はない。
「こわいよ」と深月が腕にしがみつく。
「大丈夫だ」と俺は肩を抱き寄せる。
光あれと神は言った。すると光があった。それだけのことなんだ。
光に呑み込まれながら、二本の樹は綺羅綺羅と明滅していた。
光に呑まれた部分は何も見えない。もう何もないのかもしれない。光という名の無。無は闇の専売特許じゃない。
震える深月を強く抱き寄せる。矢夜也は祈っているが、いったい何に祈っているんだろう。もう神は行ってしまった。もしかしたら父親なのかもしれない。
いよいよ光が下りてくる。光の天井は痛いのだろうか。首をすぼめるものの、いざ下りてきた光は優しい。絹に包まれるような優しさ。それは大いなる光の幕だ。光の幕が下りてきて、生まれたての子どもみたいに俺たちをくるむ。パシンパシンパシンパシン。樹のあちこちが爆ぜ、炸裂音を鳴らしている。
薄くなっていく景色。遠くなっていく意識。
なんだか化かされているみたいだ、と思いながら、俺は「ん?」
なんだ。俺は最初から最後までこの世界に騙されていたのか。
――美園め。




