虐殺の神
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携帯が朝五時の新世界を奏でる。
――ドボルザークの交響曲第九番『新世界より』第四楽章。
神野は耳元の携帯を取り、慌てて指を滑らせた。
暁の静寂の中、鼓膜がキーンと鳴っている。
アラームはこれくらい強烈でいい。中途半端は二度寝の元だ。
「たーたーたーたーたたー」
ホーンパートを口ずさみながら、神野は物置を出る。
給湯室で顔に水を浴び、カップにインスタントコーヒーを作る。
オフィスでは、プログラム班の一人が、進退窮まった顔でパソコンを見つめていた。
早くプログラムに回らなければ、と神野は思う。
シナリオだけやっていればいいほど、この会社に人はいない。
ディレクターとはいえ、いざ製作過程に入れば、プログラムがメインとなる。
日程は詰まっている。シナリオに手こずっている場合じゃない。
席に戻ると、隣の席で美園が力尽きていた。
志半ばで倒れたといわんばかりに涙を落としながら眠っている。
器用な寝顔だ、と思う。こいつも進退窮まってんのか。
(――原稿のチェックしたんだろうな)
神野は美園のデスクにあった原稿を取り上げる。
赤――修正は全く入っていない。
直すべき所がなかったと言うのなら嬉しいが、そんなことはまずあり得ない。
こいつ何も見ないで寝やがったんじゃないか。
――まあいい。
もともと当てにしていなかった。
校正は全部仕上げた後でまとめてやればいい。
神野は卓上のノートパソコンに向かう。
パスを入力して、ロックを解除する。
画面が転じて、ワープロソフトの憂鬱な文字列が甦る――と思いきや、
27659574468085106382978723404255319148936170212765957446808510638297872340425531914893617021276595744680851063829787234042553191489361702127659574468085106382978723404255319148936170212765957446808510638297872
「なんだ!?」
ディスプレイ上を、滝のように数字が流れていく。
なんらかの 『演算』 処理がループさせられている。
――やべ、ウイルス!?
なんでだよ、と神野は訝しむ。
ここはゲーム会社のオフィスだ。
ウイルス対策はしてあるし、外部から簡単にネットワークに侵入できるほどセキュリティは甘くない。
焦る。ウイルスに感染するような心当たりはない。だとしたら、外部からの攻撃か? もし社のパソコンを攻撃して歩いているとしたら、大惨事も予想できる。
神野は周囲を見回す。静かだ。力なくキーを叩く音がちらほら聞こえるだけで、騒ぎが起きている様子はない。
――俺だけなのか?
ひとり焦燥する神野。
まず確認だ、と思う。
ウイルスなんてなにかの間違いに決まっている。
責任問題になるのはごめんだ。
セキュリティソフトを小窓で立ち上げる。
何らかの脅威を検出している気配はない。
パソコンをネットワークから切り離す。
刹那、目の前の画面が暗転した。
――え?
と、狼狽する間もなく、画面はすぐ元に戻る。
回復した画面を見て神野は青ざめた。
数字の滝は消えている。だがワープロソフトの文章も消えている。
――データが飛びやがった!?
汗がどっと沸くのを感じた。
――俺よ、慌てるな。
神野は自分に言い聞かせる。
仮眠前にデータは保存しておいたはずだ。
「シナリオ」フォルダを開く。
あった。
クリックしてデータを開く。
問題ない。
データは仮眠前の状態で正しく開かれた。
(なんだったんだ……)
思いながらも、神野は安堵の息をつく。
データが飛んでいたりしたらアウトだった。
バックアップは三分置きに自動で保存される設定だが、保存場所は同じハードディスクの中だ。
ウイルスならハードディスクごとデータを破壊しただろう。
――だが、まだ安心はできない。
原因がわからないまま、このパソコンを使い続けるのは危険だ。
神野はセキュリティソフトで、パソコン内のウイルスを検索する。
「危険は見つかりませんでした」の表示。
――単なるパソコンの不具合だろうか。
パソコンはぶっ続けで働き続けている。何かあってもおかしくない。
そして俺もぶっ続けで働き続けている。何かあってもおかしくない。
目が霞むし、視界は歪む。それこそ 『幻』 でも見たんじゃないだろうか。
神野はコーヒーを啜った。
眠気はとれないが、気分が少し、落ち着く。
気を取り直して画面に向かう。
キーを叩いてみると、神野は再度異変に気がついた。
いくらキーを叩いても画面に文字が表示されない。
タイピングにあわせてカーソルが淡々と空白を刻んでいく。
それはまるで言葉を話せなくなったパソコンが口をぱくぱくさせているようだった。
それはまるで『言葉が嫌いにでもなったかのように』だった。
けれどもう神野は焦らない。
文字以外の動作は問題ないのだから、恐らく文字入力ソフトが壊れただけだ。
さっきのどたばたの際、何かの拍子でファイルが壊れたのだろう。
もしくはその逆で、さっきのどたばた自体が、文字入力ソフトの破損によるものだったのか。
そう考えれば納得もいく。
文字入力ソフトは、見た目問題が見当たらなかったが、ネット上で再インストールした。
念のため、セキュリティソフトのウイルス定義を最新のものに更新する。
新型ウイルスの可能性もある。更新し終えると、パソコンにウイルスの駆除処理を施した。
――これでいい。
問題は全て解消された。
文字入力も復活している。
ウイルスだかなにかしらないが、神野様に刃向かうなんて百年早いのだ。
最悪の事態を免れたと知り、神野はにわかに気分を良くした。
たーたーたたたー。
思わずドボルザークが口をつく。
(さて、どこまで書いたかな……)
神野は仮眠前に書いた最後の数行を見返した。
「おい、早く布かなんか噛ませろ。こいつも連中の仲間だってことにしちまうぞ」
外崎は男に向き直る。
「え……じゃあ殺すんですか?」男の声が出た。
「ショーを見せつけてからな。いいから早くそのタオル寄こせ!」
押さえ付けられる俺の抵抗は虚しい。
深月。ごめん。
教会に侵入した創哉が、外崎に捕まったところまでだった。
――オーケー。
神野はキーを叩き始める。
拘束された創哉は、蹂躙される一途を目の当たりにする。
同じく、それを見て発狂した矢夜也が、「お前は次な」と外崎にあしらわれ、自刃する瞬間も目の当たりにする。
創哉は隙をついて逃げ出したものの、己の無力と人の残酷に絶望し、せめて深月だけは守ろう、と心に誓うしかできなかった。
翌日、広場に煙が上がった。
窓からそれを見た創哉は、たまらない気持ちで部屋を出た。
すると、深月の部屋のドアが開いていることに気づく。
寝ていたはずの深月が、いつの間にか部屋からいなくなっている。
玄関に深月の靴がない。
まさか、と創哉は思う。
嫌な心当たりがある。
深月の部屋の窓からも煙が見えていたのだ。
野次馬の中に、やはり深月はいた。
広場をじっと見つめる深月の瞳には、炎が映っていた。
火中の人――桜東波一途に、もはや命の反応はない。
深月の目に光の挙動はない。
あるのは、燃えさかる炎の狂気だけ。
深月は、立ったまま、眠るように心を失っている。
――筆が進む。
神野はすこぶる気分がいい。
睡眠不足のせいなのか、妙にハイな気分だ。
昨日も三時間しか寝ていない。おとといも三時間。その前もだ。ふふふふふふ。このままラストまで一気に書き上げる。たーたーたーたーたたー。ふふふふふふふふふふふふふふ。




