物語の登場人物
ずきずきずきずき後頭部の痛みが鬱陶しい。
手足は縛られて動かない。
外崎の蹴りが腹に入り、俺は床に転がる。
噛まされたタオルのせいで声も上げられない。
隣には矢夜也も転がっていた。
俺と同じ格好で、悔しそうに涙を流している。
転がってきた俺を見て、矢夜也は濡れた目を見開いた。
間近で見る湯田は明らかに絶命していた。湯田の下だけ床が赤く染まっている。
「ほらしっかり見ろ」と、外崎は矢夜也の顔の向きを強引に変えた。
向けた先にいる一途の顔に生気はない。
あるのは酷い傷だけだ。
過剰な悪意を浴びた顔は、陰鬱に腫れあがっている。
諦観。無抵抗。躰全体から生きる希望が失われている。
矢夜也が目を背けたくなる気持ちはわかった。
けれど恐らく、これからもっと目を背けたくなる光景が展開する。
「さあ、パーティを始めるぞ」
青十字連に声をかける外崎を見て、こいつらが一途に手を出さず「おあずけ」状態だったのは、外崎の到着を待っていたからだと知った。
そこに俺は居合わせてしまった。
そして後ろから殴られた。
「にーちゃんも俺の勇姿をしっかり見とけよ」
俺の腕は動かない。
腕が縛られて動かない!
青十字が台座の一途を取り囲み、手足を押さえつけた。
一途の躰は少しだけ抵抗したが、すぐに諦めてしまった。
台座に上った外崎が一途の司祭服に手をかける。襟元から一気に引き裂く。
んんんんんっ! と一途の呻き声が聞こえた。
「なんかこう、お高くとまってたもんを汚す瞬間ってたまらねえよな」
外崎は一途のインナーを次々と引き裂いてゆく。
プレゼントの包装を剥がす子どものように、引き裂く行為を楽しんでいる。
無惨に裂かれたキャミソールが宙を舞った。
「さあ、神様を楽しもうぜ」
傷だらけの顔と違って、一途の躰は綺麗だった。その白い肌を確認できないのは、白い下着の中だけになっていた。俺の手足はやはり動かない。見ていられない。だが忌々しいほど、その光景から目が引き剥がせない。
外崎はズボンのベルトを緩める。
胸の辺りの肌触りを確かめるようにして、一途の下着に手をかける。
――こらあああああ!
外崎の体が唐突に宙を舞い、祭壇から転げ落ちた。
外崎の突然の奇行と、その傍らに転がった黒い影に、青十字たちが戸惑っている。
だが俺は、全てを視界に捉えていた。
黒い影が立ち上がって叫ぶ。
「外崎! おまえは脇役だったくせに調子にのって!」
――タナ?
タナだった。
タナが空から降ってきた。
そして、そのままの勢いで外崎に跳び蹴りをかました。
「そーちゃん大丈夫だった?」
「え、深月?」
いつの間にか深月がいる。魔法少女姿で俺の縄を解こうとしている。
「深月がなんでここに?」
「わたしもよくわからないの。気がついたら一瞬でここに。いつの間にか着替えてるし」
一瞬で、ってなんだよと思う。
しかも深月が着ているのは、ぼろぼろになって処分したはずの魔法少女服だった。
「なんだかさっきからタナちゃんが不思議なの。突然家に来たと思ったら、みんながピンチだとか、わたしの力が必要だとか」
「なんでタナが俺たちのピンチを知ってたんだ?」
「え、タナちゃんとどこかで会ったんじゃないの?」
「タナなんて久しぶりだぞ」
「だって、そーちゃんがピンチで助けにいかなきゃだ、って言ってたから……」
二人で首を傾げる。
謎だらけだが、来てくれて助かったのは事実だ。
反面、この難解な状況で守るべきものが二つ増えた絶望がある。
しかも一つは何より大切なものだ。
「――っこのガキ!」
外崎はタナの襟首を掴んで、羽交い締めにする。
助けなければ、と思うものの、剣が奪われている俺はどうすべきか。
「離せっ!」
暴れるタナの体を、外崎は無造作に抑えつける。
そして「ほう」と何かを閃いた。
「なあみんな。子どもってのは……どうなんだろうな?」
へへへへ、青十字連から満更でもない笑いが起こった。
――こいつら全員をぶちのめすために、俺はどうしたらいい。
考えながらも、脚がすでに動いている。脳の命令を待っていられない。俺の腕と脚が言っている。
――外崎をぶん殴る。
俺の突進に気づいた青十字たちがそれぞれの武器に手をかける。俺は怯む。
「そーやくん、やめろ!」
タナの制止に、俺は足を止めてしまう。クソ。このまま突っ込んでも死ぬだけだ。
「そーやくん、あちしなら大丈夫だ」
タナは、外崎の腕の中で神妙にしていた。
「外崎」と、タナは背後に語りかける。
「……おまえはもう駄目だな。さすがに悪いことし過ぎだ。業を背負ってしまったキャラは……残念だけど消えなきゃいけない」
「このガキは何を言ってやがんだ?」
いいから早くやりましょうぜ、と小太りの青十字が妙に急かす。
「悪いけど、おまえたちに割く時間はない」タナが言い放つ。
「ドラスティックにカットしてやる!」
叫んだ瞬間、握ったロッドの先端が闇の渦を描いた。
――Deus ex machina !
タナの言葉に呼応して、渦が一気に広がる。
無音の渦、静穏の闇が、青十字一人一人にまとわりつき、螺旋状に縛り上げていく。
「うわああ!」「動けない!」
阿鼻叫喚虚しく、足下から闇に喰われていく青十字たち。
あっという間に、腰まで呑み込まれた。
「クソッ!」
闇の渦は外崎とタナにも襲いかかる。
タナを突き飛ばした外崎は、躰に取り付く闇を掻き毟る。闇はタナだけ呑もうとしない。闇の渦動は、あがく外崎を嘲笑うように躰を這い上がっていく。
「クソおおお、助けろおおお!」
苦し紛れに投げた外崎の短剣が、タナに向かって直線を描く。
だが短剣はタナの目の前でぴたり、動きを止める。
そしてそのまま落下し、床を鳴らす。
「俺がいったい何したってんだよおおお!」
闇の渦の中から手を伸ばす外崎を。タナは悲しげな目で見つめている。
ぽつりと開いた口が、「ごめんな」と動いた。
漆黒の螺旋が外崎の首に到達する。
周囲の青十字は全て、闇に姿を融かしていた。
「俺どうなっちまうんだよおおお!」
顔だけになった外崎が吠える。
タナの顔が憐れみに歪む。
――と、外崎が完全に闇になった。
闇は青十字を残らず融かすと、今度は周囲の景色に融けていく。
後には平穏な広間と静寂が残った。
「んんんー」
呆然としていた俺たちは、隣のくぐもった声で我に返る。
慌てて矢夜也の拘束を解きにかかるものの、麻の縄の結束は堅い。
タナが向かう先には台座があった。
力ない足取りでたどりつくと、横たわる一途をじっと見つめる。
傷だらけの顔を、そっと撫でた。
「……いちずちゃんはとっても優しくて良い子なんだ」
抱き締める。
「なのに、どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないんだ」
声を上げて泣いた。
「いちずちゃん、ごめんな」
タナが一途に手をかざす。
すると一途の躰が、一瞬、光に包まれた。
光から還った一途に、もう傷はない。
清麗に整った顔。司祭服も修復されている。
「一途!」
矢夜也が跳ねるように立ち上がった。
「一途?」
矢夜也の呼びかけに、けれど反応はない。
「一途!? 一途!」
一途は昏い目で矢夜也を見つめるだけだった。
神性に満ちた優しい声と表情は戻らない。
タナが目を拭った。
「ごめんな。怪我や服はいくらでもなおせるけど、起こってしまったことはもう取り消せないんだ」
タナの能力――ということなんだろうか。
なおすことはできるけど、起こった事実を取り消すことはできない。
体の傷は治せるけれど、心に受けた傷をなかったことにはできない。
「ゆだくんもなおさなきゃ」
タナは湯田の傍に跪く。
足が湯田の血で汚れるものの、タナはまるで気にしない。
湯田の躰に刺さった剣を引き抜く。
傷を光が、ぼうっと覆った。
むくり、湯田は起きあがると、血まみれの躰を不思議そうにした。
今度は矢夜也が湯田に駆け寄っていく。
「ややちゃんも怪我してるな」
駆け寄った矢夜也も光に包まれる。
傷だらけのスーツも元通りになった。
「そーやくんも」
唖然として座り込んでいた俺に、タナが歩み寄ってくる。
後頭部に暖かみを感じた瞬間、嘘のように痛みが引いていった。
「ちょっとつかれた」
タナは、そのまま俺の隣にへたり込んだ。
目に酷い隈ができていた。
「タナ……」
「そーやくんひさしぶりー。会いたかったー」
タナが躰をあずけてきた。
「俺もだよ」
そのまま受け止めてハグをする。
懐かしい温もりに包まれる。
「なあタナ。今のって全部タナの能力なのか?」
一途と同じ再生の能力、みたいなことだろうか。
けれどあの闇の現象が気になる。
深月は瞬間移動をしてきたようなことも言っていた。
タナに視線が集まる。虚ろな目の一途を除いて。
「そーやくん……あちしは神なんだ」
タナは宙を仰いで、目をつむった。
俺は笑う。
「神の能力ってことか。それは凄いな」
だがタナは笑わなかった。
「違う。あちしが神ってこと。能力とかじゃなくて。あちしはこの世界の創造主なんだ。ずっと隠しててごめんな」
「タナ、俺は魔法少女ごっこの設定を訊きたいわけじゃないんだ」
「そうなんだ。これはごっこなんかじゃない」
タナは真剣だった。
「この世界はな、あちしが創った物語の世界なんだ」
俺はどう反応していいかわからない。皆も困惑の表情を浮かべている。
タナはこの期に及んで、魔法少女ごっこの台詞を語り続けている。
疑問は、タナのごっこ魔法がなぜ本当に発動したかということだ。
「そーやくんには前、話したな。あちしの宇宙論」
「あの、アーチェリーの的みたいなヤツか」
「そう。世界は何重にもなって内と外に広がっている」
タナはロッドで空中に円を描く。するとそれが映像になって宙に浮かんだ。
「そして、あちしたちは決して外側の世界を見ることができない」
タナはロッドを差し棒代わりにして、いつかの説明を繰り返す。
俺たちは大きい世界の方から、小さい世界を見ることはできるけれど、その逆はできない。それはアニメのキャラクターが作者の世界に飛び出てきたり、ゲームのキャラクターが自分の意志でプレイヤーに話しかけることができないようなものだ。
人の側からは、決して神の世界を覗くことができない。
「あちしは外側の世界からここにやってきた。あちしは自分の描いた物語の世界に、自分を潜り込ませているんだ」
馬鹿げている。
「なら、私たちはあなたの描いた物語の登場人物だとでも?」
皮肉ったのは矢夜也だった。
「ややちゃんは鋭いな。そのとーりだ。みんなはな、あちしが創ったお話の登場人物なんだ」
「タナは、それを俺たちに信じろってのか?」
「そうだな……あちしが神である証拠を見せないとだな」
タナがロッドを掲げる。
先端のジュエルが七色に輝くと、周囲のステンドグラスが影絵芝居ように動き出した。
ヤハウェは闇に光を灯し、イザナギとイザナミは海に天の沼矛を突き刺している。どれもステンドグラスに何かからくりがあって動いているのではなかった。硝子自身が自在に形を変え、色を変え、意志を持って動いていた。四方の壁で世界が創造されていた。
「次は何をすれば信じてくれる? やろうと思えば、海だって割れるし、大洪水だって起こせる」
そう言いながら、タナがロッドを振ったので俺は焦る。
ぽん、と深月の髪に花が咲いた。
俺は混乱している。自分が創作物だと言われて信じられる方がおかしい。
だが一方で、このわけのわからない世界は、タナの言うわけのわからない理論でしか説明できない気もしている。地下77階建ての迷宮。地下の街に広がる空。無限の食糧と果てのない海。科学や理論では誰も語れなかったし、語ろうとする方が現実的じゃない気がしてならないのだ。
みんな何かしら心当たりがあるらしく、言葉を失っていた。
「信じられない気持ちはわかるんだ。あちしだって自分が誰かに描かれているなんて言われても、きっと信じられない。でもな、あちしだって神さま的な誰かに描かれている可能性がある。そしてあちしを描いてるその誰かだって、もっと外側の誰かに描かれているのかもしれない。あちしの理論はそーゆーことだからな。だから人間は『培養液の中の脳』なんて議論から離れられないんだ」
――私の存在は、培養液の中の脳が見ている仮想現実に過ぎないのではないか。
哲学の世界で語られるその議論は聞いたことがあった。
胡蝶の夢。神の描く物語の登場人物。似た発想の仮説が生まれ、語り続けられてきたのは、それを誰も否定できなかったし、証明もできなかったからだ。それはそもそも証明が不可能なのだ。
俺たちは決して、外側の世界を見ることができないのだから。
「わたしはタナちゃんを信じるよ」深月が言った。「タナちゃんが言ったとおり、本当にみんながピンチだったから」
けれどそう言ったのは深月だけだった。
矢夜也も湯田も複雑な表情をしている。
それが普通だ。深月は人が良すぎる。
「もしその話が本当だとするなら、俺には納得できないことが一つある」
「なにかな」タナは首を傾げた。
「お前は俺たちが苦しむ姿を描いて楽しんでた、ってことになるぞ」
この数日は本当に苦痛だった。
化け物には襲われたし、親友も失った。
悲愴なみんなを見るのは辛かった。
「俺たちを散々酷い目に遭わせた挙げ句、こうして自作自演で助けにくるのがお前の筋書きだった、ってことなのか?」
だとしたら酷い茶番だ。
タナが一途を抱き締めて流した涙はとんだナルシズムだ。
「そーやくん、それは誤解だよう……」
タナは捨てられた子どもみたいな顔をした。
「あのね。あちしは自分の創ったお話を、途中で乗っ取られてしまったんだ。あちしは偉い人に、この世界の神さま失格の烙印を押されてしまった。だからそーやくんたちとお別れしなきゃいけなかった」
タナが突然姿を消したことはあった。
「でもな、代わりにこの世界を引き継いだ神さまが酷かったんだ。みんなも心当たりあるはずだ。突然、この世界が変になった日があったね?」
モンスターが一変し、一途が再生の能力を失ったあの日。
「あちしはこの世界の設計図を読んでしまった。新しい神がみんなをどうしようと思っているのか、っていう設計図だな。愕然とした。あちしは、良い子なのに不幸な子が集まるこの世界を、幸せに創っていくつもりだったんだ」
なのに。なのに。とタナはべちべち床を叩く。
「……みんなが酷い目に遭ってるのを見て、あちしはとにかくなんとかしなきゃと思った。そこで新しい神が寝てる隙をついて、またこの世界に潜り込めないかと考えた。そしてあちしは一言一句正確にこの世界をコピーすることで、新しい神が創っている途中のこの世界にリンクすることに成功した。成功するかは賭だったけど」
「で、来た早々、デウスエクスマキナしたってことなのか……」
「来るの遅くなってごめんなさい」
つじつまは合っている。
だがつじつまが合えば信じられるって問題でもない。
「だとしたら、わずかばかり疑問がある」湯田が言った。
「その新しい神とやらが目を覚ましたら、キミはいったいどうなるんだい?」
「そうだった!」タナが跳ね上がった。
「時間がないんだ。新しい神が起きてくる前に、あちしはこの世界をなんとかしなきゃ」
あと三〇分しかない、とタナは時計も見ずに言う。
「みんなにも手伝ってほしい。てか、これはみんなの力がないと駄目なんだ」
――みんなの力?
「神なのに、俺たちの力なんて必要なのか?」
タナが本当に創造主なら、この世界なんて一人でどうにもできそうに思える。
「あのね。あちしはこの世界の中のことならなんでもできるんだけど、これは外側世界の神同士の戦いなんだ。神と神の、世界の奪い合いだ。あちしはみんなの力を使って、新しい神に勝たなきゃいけない」
もし本当にそんな戦いに巻き込まれているのなら、いい迷惑どころの話じゃない。
上が勝手に始めた戦争で、悲惨な目に遭うのはいつも下々だ。やってられるか。でも――
「で、タナ。俺たちはどうしたらいい」
「待って、あちしは今からここに、外側世界と通じる道を創る。外側の世界にアクセスして、新しい神からこの世界を切り離す」
「そんなことできるのか」
「そーやくん、あちしは神だ。神はブラックホールさえ通り抜ける」
言い切ったと同時に、地下全体が激しく振動した。
「地震!?」
違う。
地震じゃない。
正面の巨大な扉が轟々と音をあげながら、開こうとしている。
闇色の扉が、少しずつ、少しずつ、地鳴りとともに口を開けていく。
と、扉に歩み寄ろうとしたタナの背中が、ゆらっと振れた。
揺れに足を取られたのだろうか、俺は慌てて支える。
「大丈夫か?」
「……ん、ああごめんな。ちょっとだけ疲れてて」
揺れのせいでもないらしかった。
「お前、目の隈が酷いぞ」
「酷い顔をそーやくんに見られてしまったな。でも大丈夫だよ。やらなきゃ」
タナは俺の支えを遠慮がちに押しのけて――
「行こう」