創られた神性
誰が最初からこの街にいたのかはとても曖昧で、少なくとも「最初からいた」なんて主張する人に出会ったことはなかった。もしかしたら、最初からいた人なんて誰もいないのかもしれない。
――矢夜也は、語り始める。
「あのう……何かお手伝いできることはないでしょうか?」
そう言って彼女は私の教会を訪ねてきた。
「別に、ないわよ」
昨日、迷宮で拾った女の子。
お嬢様然とした彼女は、桜東波一途と名乗った。
「医療の心得なら多少あるのですけど……」
と言った彼女は、台座の上に横たえてあったそれをすぐに理解した。
「亡くなられたのですか……」
「……うん。死体」
そのころ、この街は死者の処理に苦労していた。
毎日のように地下76階に放置される神隠しの被害者。
彼らを街に導いてあげられるよう見回っていたけど、手が回らなくて、罠で命を落とす人がいた。
「せめて祈らせてください」
動揺したら失礼でもあるかのように、彼女は平然と遺体に手を合わせた。
医療の心得がある、というからなのだろうか。その姿は手慣れて見えたけれど、涙を流していた。詳細不明の遺体にああも泣けるものだろうか。
彼女が祈り終えると、その遺体は甦った。
私たちは言葉を失った。
「――それがあなたの能力なのかもしれないわ」
「能力、ですか?」
「そう、この街に来た人はみんな変わった能力を与えられるの。地上での思いに何か関係しているみたいだけど」
「なるほど。なら理解できる気がします……」
私、両親が医者なんです。と彼女は言った。
彼女の両親は世界中の貧しい地域や紛争地域を飛び回って、医療を施していたらしかった。
彼女も子どものころから両親にくっついて、世界中の医療不足の現場を見てきたのだという。
「すごいね。紛争地域なんて危ないんじゃない?」
「そうですね。病院が狙われたりもするので心配なことはありました」
「そんな場所に娘を連れてくなんて、どうかしてる」
彼女は微笑んだ。
「私は反対する両親を説得してついて行ったんです。私も将来両親みたいになりたかったので。両親にそう伝えたら納得してくれました」
「ふーん。偉いね」
彼女は世界中の悲惨な現場をたくさん見てきたらしかった。
創傷、銃創、爆傷、飢餓、暴力、愚盲、結核、熱病、肝炎、破傷風、ポリオ、マラリア、ジフテリア、ヘモウイルスが蔓延する現場。助かる命と失われる命。静かに迎える死と、苦痛の中で訪れる死。確実に消えてゆく数多の命を前にして、世界に嫌気がさしたこともある。なにより、何もできない自分がとても悔しかった。
「だからこんな能力をいただけたんだと思います」
ありがとうございます。と彼女は十字架に向かって頭を下げた。
彼女の能力が評判になるのに時間はかからなかった。
彼女の再生の能力は、命だけでなく、身体も再生することができる。
行方不明にさえならなければ、元通りに生き返ることができた。
彼女はこれまで迷宮で命を落とした人も、全て生き返らせた。
誰もが躊躇した、埋めた遺体を掘り起こす作業も、彼女は平然とやってのけた。
「もっとむごい遺体も見てきましたから」
笑みさえ浮かべていた。
「私、嬉しいんです」
ぎょっとした。
「だって、生き返らせてあげられるんですもの」
この子は神を名乗るに相応しいと、私は思った。
私は補佐役を名乗り、神のサポートに徹することにした。
それはあまり褒められた理由じゃなかった。
私自身が神になるより、誰かに神を演じてもらった方がやりやすいことを、私は知っていた。
「矢夜也さんは、どうして教会に住んでいたのですか?」
彼女は教会で一緒に暮らし始めた私に興味を持った。
「私はね。父親が宗教家だったの」
「牧師ですか? それとも司祭?」
「違う。そういうメジャーなんじゃなくて、うさんくさいとか言われそうなやつ」
「ああ……」
「うさんくさいはずじゃなかったんだけどね」
それは胸を張って言えた。
父は様々な宗教に詳しいだけの一般人だった。
その豊富な知識を使って、困っている人にアドバイスをしていただけだった。
みんな父のアドバイスに救われた顔をした。相談に来る人が段々増えて、評判になっていった。
ある日、相談者の一人がこう言った。
「もっとたくさんの人間を導いていただけませんか?」
あなたを尊敬している。
資金については任せてほしい。
宗教法人を立ち上げましょう。
その男は真剣な表情で父に迫った。
父は断った。
けれど父のシンパみたいな人たちが「やるべきだ」と言った。
あんたはもっと人を救える。
本当はあんたみたいな人が教祖をやるべきなんだ。
「理想の宗教を作りましょう」
父は、そういうことならば、と静かに頷いた。
父はお金に一切関心を向けなかった。
お金に言及すれば、有象無象のうさんくさい新興宗教と同じレベルで語られてしまうとわかっていた。
だから、補佐役を騙った人間が、影で勝手にお金を集めた挙げ句、持ち逃げをした。
資金については任せてほしい、と話を持ちかけたあの男だった。
「某新興宗教、信者の金をだまし取る」
週刊誌にはそんな見出しが踊って、父の写真がでかでかと載った。
あることないこと書かれたとよく言うけれど、おおよそないことしか書かれていなかった。
だけど書かれているのはいかにも悪徳新興宗教らしいエピソードの数々で、人々は確認が必要な事実よりも、分かり易いステレオタイプを信じたらしかった。
事実無根の罵詈雑言が父に浴びせられた。熱に浮かされたように、父へ正義を説く人たちを見て、みんな何の幻を見ているんだろうと私は思った。
父の周りにいた人たちは波が引くように消えていった。
警察も来た。
持ち逃げをされた父は本来被害者だった。
警察もそれをわかっていたし、持ち逃げした男が詐欺の常習犯であることも理解していた。
でも父は自分の管理責任を追求した。
それとも単に、全てが嫌になってしまっただけなのかもしれない。
ある日、自らを断罪した父が、部屋の梁にぶらさがっている光景を見た。
神を利用する――そんな考えに及んでしまった私は、あの男の闇に取り憑かれていたのかもしれない。
神に近い能力を持った桜東波一途は、当時この街に漂っていた問題を解決できる可能性を秘めていた。
得体の知れない地下に飛ばされ、恐慌に陥り、失われていた人々の倫理。
拠り所なく混沌としていた街の秩序。
この街はリーダーを必要としていた。
人より一段高い場所から、お天道様のように人々の行動を律しながらも、終局的には愛をもって救ってくれる存在がこの街には必要だった。
それらの問題を解決するのに、一途の神性は役立つように思えた。
信仰による道徳の回復。
その点において、桜東波一途は救世主の到来でしかなかった。
私は一途の傍で側近を名乗りながら、彼女の神格化を進めることにした。
幸運にも、私はそのために必要な宗教的手法を知っていた。
奇跡の演出。
――虹が消えて残念がる子どもたちの前で、一途は空に虹を掛けて見せた。
――酒の味が恋しいとぼやく男たちの前で、一途は水を酒に変えて見せた。
一途自身、なぜそんなことが起こるのか不思議だったと思う。
それは一途の能力ではなかったのだから。
「矢夜也さんはどんな能力をお持ちなのですか?」と、一途に訊かれたことがある。
「まだよくわからないの」と、答えたのは私の嘘だった。
私の能力は、他人に幻をみせる能力
幸せな幻を見せられる能力。
それは父が望んでできなかったことだった。
私はこの能力を誰にも話さなかった。
私が一途の奇跡を演出している。
そんなことは誰にもバレてはいけなかった。
あらぬ不信を招く恐れがあった。
皆に神と崇められる一途の姿が、ふいに父と重なった。
世の中には正しい宗教だってある。
教義なんかを超越して、純粋に人を救いたいだけの宗教家だっている。
私はそれを知らしめたかった。
そして私はやってのけた。
私はやった。
補佐役さえまともなら、父だって何も問題なかったはずなのだ。
だから、私たちはこの楽園で幸せに暮らすべきだった。
皆この街にとどまって、歌でも歌いながら地上からの助けを待つべきだった。
けれど何が不満なのか、やはり地上に帰りたがる人がいて、迷宮を上っていった結果、遺体となって発見されるのだった。
この悲しい流れに、歯止めをかける必要があった。
でも、本気で帰りたがる人たちは、いくら説得しても聞かなかった。
「辛くても地上に帰りたい」
みんな地上では心ない二元論で「負け組」に振り分けられてきたにもかかわらず、どうして帰りたがるのだろうか。せっかく神が用意してくれた「負け組」のための楽園から、なぜ命を賭してまで逃げたがるのだろうか。
彼らは正しい判断を失っているに違いなかった。
地下よりも地上の方が良い、という固定概念に囚われているに違いなかった。
彼らをこの地下にとどまらせるのは、彼らのためでしかないのだった。
私は、自警団の中でも信頼が置けるメンバーと相談し、脱出の意志を持つ人間を『脱出者』として、監視下に置くことにした。それは公安が新興宗教を監視するのとどこか似ていた。
「その役目は僕が引き受けよう、裏切りは専売特許だからね」
ある男がそう言った。
私は自警団の一部を66階に滞在させ、そこにギルドを作った。
「要は脱出者を虜にすればいいんでしょ。そういうの嫌いじゃないよねー。ね、マリエ」
ある女の子はそう言った。
76階からの脱出者をそこに導き、彼らが上に向かう道を断った。
彼らが無闇に迷宮に入らないように、モンスターも創り、徘徊させた。
だけど、モンスターは所詮私が創った幻だから、私の想像力を超えることはできなかった。
私のモンスターは迫力に欠け、とても弱かった。
だから私の能力では、あんなに凶暴でグロテスクなモンスターが現れるはずがなかった。
あの日から全ての歯車が狂ってしまった。
モンスターが凶暴になり、一途が能力を失ったあの日。
一途が再生能力さえ失わなければ、問題は起こらないはずだった。
生き返らせてくれと頭を下げる脱出者たちを、一途が慈悲をもって甦らせれば、脱出者たちはむしろ一途に帰依するはずだった。
――この世界は全部、桜東波一途に仕組まれている。
こんな噂を流して、人を欺いたりしてはいけなかった。
私は脱出者を66階にとどめておきたかっただけだった。
でもどんな理由であれ、人を欺いたりしてはいけなかった。
一途は何も知らなかったし、今だって何も知らない。
優しい一途はただみんなに生きてほしかっただけだったのだ。
私は、神に出会うべきじゃなかった。
この世に神と出会ってはいけない人間がいるとしたら、それは唯一私だった。
私が一途を担ぎ上げてしていたことは、結局あの男が父にしたことと同じなのだった。
「――一途、お父さん、ごめんなさい」
矢夜也は両手で顔を覆った。




