再度76階、神堕ちの景色
76階への戻り道、75階で遭遇したのは小柄な亜人型のモンスターだった。
つり上がった目と尖った鼻は鬼の面に似ているが、表情に確かな感情がある。殺意の感情。圧倒的な意思の通じなさが恐い。こいつは何を思ってこの臭くて汚い服を着ているんだろう。すり合わせるべき倫理観がまるで見えない。それは不良みたいな同じ人間の比じゃない。
迷宮のモンスターはもう舐めてかかることができなくなっていた。
以前のような、可愛らしいスライムやヘビは姿を消し、代わりに遭遇するのは狂ったピットブルや、二足歩行の亜人たちだった。
俺は、店主から餞別にと貰った細身の剣を振り、亜人を牽制する。軽くて素人でも使いやすい。それでも亜人は短刀を無闇に振り回して、俺の体をかすめてくる。けれど、こちらも店主に貰った耐刃繊維のジャケットが守ってくれる。
逆に隙をついて亜人の肩を刺した。ずずと肉を貫く手応えがある。筋を断つ手応えがある。心臓も刺せたが、恐かった。モンスターとはいえ二足歩行を殺してしまうことへの恐怖がある。謎の倫理観が俺を躊躇わせる。
ゲエエと叫んで飛び退いた亜人は、忌々しげにこちらを睨んだ後、踵を帰して逃げていった。追わない。今の最大の目的は、倒すことではなく、守ることだ。
「逃げてったよ」俺はできるだけ朗らかに、後ろの深月に話しかける。
深月は耐刃繊維のコートの中で震えながら「役に立たなくてごめん」と謝った。
「三日も寝てたんだから仕方ないよ。守られてろ」
「ごめんね」と深月はまた謝る。
謝らないでほしい。
以前みたいに冗談の一つでも返してほしい。
深月は全然笑わなくなってしまった。
俺は壁に寄りかからせた大和を背負う。
偽ギルドの冷凍倉から引き取ったばかりの大和はまだ冷たい。
偽ギルド地下の冷凍倉に保管されていた遺体は、もう数体だけだった。
遺体だけでなく偽ギルド自体ずいぶん人が減っていた。
キリエいわく「みんな生き返らせてもらいに帰っちゃったんですー」らしかった。
さすがにプライドと人命は天秤に掛けられないのだろう。
それは俺も同じだから、こうしていま一途の元に向かっている。
76階の凱旋門じみた扉を開けると、ふと懐かしさに襲われる。
久しぶりの76階の街。
なんだか故郷に帰ってきたみたいだった。
迷宮に郷愁を感じるのも変な話だけど、やっぱりここがいい、と思える。
善意で成り立つ街。
すっかり明るさを失った深月を、この街なら癒してくれるかもしれない。
「そーちゃん、あれ。なに……」
けれど深月の声には恐怖が混じっていた。俺は深月の視線を追う。
迷宮の壁に沿って、この街には必要ないはずの物が並んでいた。
「ねえ、なんで? なんで!?」
錯乱気味の深月を無視して俺はそれに近づく。雲に覆われた迷宮の袂は暗い。
瀬戸田一平。
多田敬。
菊池由優美。
名前が刻まれた十字架なんて、墓以外に考えられなかった。
それが二〇以上もある。
「なんで死んじゃったの? 生き返らせてもらえなかったってこと? 逃げたから? ねえなんで?」
「深月、落ち着け」
なだめる俺も困惑している。
――どうしてこんなことに?
深月が言うように、一途が蘇生を放棄したのか?
「教会に行ってみよう」
街の様子もおかしかった。
物々しい格好の自警団がやけにたむろしている。
なぜかみなワッペンをつけている。黒地に青十字の紋章。
すれ違う人々が背中の大和に、哀れむような視線を送ってきた。
「大和くんは生き返れるよね? 大丈夫だよね?」
「当たり前だろ」
と答えるものの俺にだってわからない。その場しのぎの答えだ。だが優しかったあの一途さまが、生き返らせてくれないはずがない。生き返れなかった連中は一途さまによほど失礼をしたのだ。だから俺は大丈夫なはずだ。
広場に近づくにつれ、自警団の数が増えていく。
それはやがて人の壁になって、行く手を遮った。
広場は自警団によって封鎖されていた。
一般人が人垣の向こうに石を投げている。
「死ね」とか「人殺し」とか叫びながら。
――向こうに何があるんだ?
人垣で見えない。
「あんたも気の毒にねぇ」
石を投げていた女性に声をかけられた。
「それももう駄目なのよ」と、大和を見て言う。
大和は「それ」じゃないし、まだ駄目なはずがない。
無視しようとしたが、女性の顔はどこかで見覚えがある。
――思い出した。
街に来たばかりのころ、東の森で色々教えてくれたおばさんだった。メロンは人気だから朝イチで採りに来いとか、一途さまには毎朝ご挨拶しなさいとか――。
「ほら、あんたもこれでやりなさい!」とおばちゃんは俺に石を手渡す。
おばちゃんが俺たちのことを憶えている様子はない。
「ほら、憎いでしょう。もっと前に行くといいわ」
俺は押し出される。
群衆は背中の大和を見て、何かを悟ったように道を開けてくれる。
人垣がさあっと割れて、正面に広場中央の石柱型モニュメントが現れた。
えっ、と深月が息を呑んだ。
俺は手に持った石を落とした。
石柱に人が磔にされている。
その光景自体は予想ができていた。
石を投げつけられる誰かが、そこにいるとは思っていた。が。
――どういうことだ、これは。
と、言おうとして言葉にならない。
「ったく、こうやるのよ!」
おばさんは俺が落とした石を拾って、「死ねっ!」と投げる。
石柱には全然届かない。
けれど、肩に自信がある人が投げれば届いてしまいそうな距離だった。
それを裏付けるように、標的の額から流れたのだろう血が、真っ白な司祭服を汚していた。
「さあ、投げなさい!」と、おばさんが再度石を手渡す。
群衆の視線が俺に集まる。
さあ。さあ。さあ。さあ。さあ。さあ。さあ。さあ。さあ。さあ。さあ。
俺を囲む目が煽る。
「そーちゃん……」深月の声はか細い。
俺は石を捨て、深月の手を取り、駆け出した。
群衆がざわめく。
「裏切り者か!?」。
俺は何かを裏切っているのだろうか。わからない。
大和を背負う俺の足は遅い。群衆から伸びてきた足に引っかかって、俺は大和ごと転倒した。
「おう、兄ちゃんもこっちに来たのか」
その足の持ち主の声には、聞き覚えがあった。
見上げると、いつか偽ギルドにいた酔っぱらい――外崎とか言ったか――がいる。
胸の青十字が目についた。自警団なのか?
「こいつは裏切り者じゃねえよ。事情をしらねえだけだ。はい解散解散」
外崎が言うと、俺に興味を失った群衆が散る。
外崎は俺の首根っこを掴んで乱暴に立ち上がらせた。
「ちゃんと石投げねえと、兄ちゃんも張りつけにしちまうぜ」
外崎は石柱を指すけれど、人垣でその姿はもう見えない。
だが、石柱に縛られぐったりしていた司祭服の少女――桜東波一途の姿を、忘れることなんてできなかった。
「どうして一途さ――一途はあんなことに?」
「オメエも生き返らせてもらおうと思って来たんだろ?」外崎が背中の大和を見る。「だけどもう駄目だぜ。一途は蘇生を拒否しやがった」
恐れていたシナリオではあった。
「拒否って……やっぱり、俺たちが逃げたからですか」
「しらねえよ。俺らだけじゃねえ。あの馬鹿、一切の蘇生を拒否しやがった」
「一切?」
「この街の人間の蘇生も拒否したんだよ。『もう生き返らせることができません』ってな。自警団まで敵に回すなんて頭腐ったんじゃねえのか」
「どうしてそんな真似を……」
「しらねえっつってんだろ馬鹿が。俺ら66階のギルド連も、ギルメン生き返らせてもらうために、プライドをゴミ箱に突っ込んで頭下げたんだ。それなのに、だ。
……ムカついてよ。俺らは一途の陰謀を洗いざらいぶちまけて、この街の人間を煽った。『この迷宮は全部一途に仕組まれてる。化け物を使って俺たちを支配する気だ』ってな。みんなあっさり信じたぜ。生き返れない恐怖で街は恐慌状態だったし、そんな一途に不満を持った自警団も多かったからな。そいつらを巻き込んで、俺らは一途をひっ捕らえた。最後まで一途を信じて戦ってた連中もいたが、そいつらが死んでも一途は生き返らせなかったんだ。クソだぜ、あいつは」
柱にくくられた一途の痛々しい姿が、目に焼き付いて消えない。
これが楽園の神と呼ばれ慕われていた少女の末路なのか、と思えば哀れにもなる。
少なくとも俺は、神と呼ばれるに相応しい一途の一面しか見ていないから、やりきれなくもなる。
けれど、仕方がないのかもしれない。
一途はやり過ぎた。神気取りで俺たちを弄びすぎた。
「あれは……最終的にどうなるんですか」
石柱を指さす。もちろん石柱を指したわけじゃなかった。
「改心しねえようなら、まあ火あぶりだな。神を騙った偽物の相場ってもんだろ」
火あぶり。
「なにもそこまで……」
「オメエよ。アイツはここにいる人間全部の人生をめちゃくちゃにしたんだぜ。相応の報いだろうが。オメエはこんな所に放り込まれて、仲間も殺されて、マジでなんとも思ってねえのか?」
殺された俺の親友。
笑わなくなった水無月深月。
騙しに翻弄された続けた俺。
俺は神に対して憤っている。
でも、何かが腑に落ちない。
俺の中で何かが首を傾げている。
「まあよ、俺たちが一途の考え変えさせてやるから、兄ちゃんは指くわえて待ってな。丸焼きにする前に一途をきつーい拷問にかけてやるからよ」
「拷問?」
「そうだよ。神を騙った罰をたっぷり与えてやらねえとな」
外崎が俺の肩を叩く。
「オメエも男ならわかるだろ」




