へし折られる意志
どこをどう走ってきたのかわからない道を、マップに当てはめ当てはめ進み、なんとか65階への階段に戻ることができた。ここまで戻れば66階の街はすぐだ。今の状態でモンスターに出会わずに済んでいるのは幸運だった。
顔面蒼白で泣いている深月の手を引いて、俺は心底情けなくなる。
――もう騙されないと強く誓ったはずだったのに。
真ギルドもやはり一途一派だったのだろう。
連中は64階に「緋に染まる者」なんて化け物がいると知りながら、その情報をわざとマップに載せなかった。何も知らずに64階に上がった脱出者を、「緋に染まる者」に始末させる、という段取りだったのだろう。
偽ギルドで「マップに書かれた言葉」に騙された俺は、今度は真ギルドで「マップに書かれていない言葉」に騙された、ということになる。
言葉!
55階に街があるなんて話も眉唾だ。
俺はもう何も信じない。
迷宮を出るとすぐ異変に気がついた。
朝は無かった屋根だけの白いテントが設置されていて、ブルーシートに数人横たわっている。その傍には途方に暮れる人たちがいて、慌ただしくする白衣の人たちがいる。まるで簡易の救護所みたいだ、と思ったのも当然で、そこはそれそのものだった。
吸い寄せられるように足がテントに向く。
顔まで白いシーツで覆われた人が横たわっていて、深月が強く手を握ってきた。
救護が間に合わなかった人の方が多いようだった。
「みんなアレにやられたのかな……」
深月が消え入りそうな声で言う。
真ギルドに騙されて64階に上がった人間が、俺たちの他にもこんなにいたのだろうか。
今日に限ってこんなに?
いや、それは変だ。
だとしたらタイミング的に64階で誰かにすれ違っていていいはずだ。
「キミたちも早くこっちへ!」
白衣の女性に声をかけられた。
背中の大和に目を付けたらしい。
促されてテントの下に大和を横たえる。
「これ、いったい何があったんですか?」周囲の惨状を見回して訊ねる。
「モンスターの様子がおかしいのよ。キミたちもやられたんでしょ?」
「みんな……あの死神に?」
「死神? 死神なんてのもいるの?」
白衣の女性は眉をひそめる。
「頭が三つある犬に噛み殺された人や、蝙蝠みたいな悪魔に炎で焼かれた人もいるわ。モンスターが本物の化け物になったのよ」
昨日まではせいぜいワニだったのに、と嘆きながら女性は大和を触診する。
傷が一切なく、魂だけが抜かれたような大和に女性は首を捻ったけれど、その首は結局横に振られた。
「お友達の躰、ギルドの冷凍倉で保管することもできるけど……」
神妙になった女性が指すギルドの方角を見て、ここにいるのが偽ギルドの面々だとわかった。
偽ギルドでも健気に上の階段を探していた人たちだったのだろう。
女性は続ける。
「躰さえ保管しておけば、後々生き返らせてもらうこともできるわ。一途に頼むのが癪な気持ちはわかるけど、それはおいおい考えましょう」
女性の言葉に甘えて、大和の躰をお願いする。
偽ギルドだろうがなんだろうが、今は助けを借りるしかない。
「さあ、次はそちらの彼女」と、女性が深月の手当をしてくれている間に、大和は担架に乗せられ冷凍庫に運ばれていった。
女性に礼を言って、俺と深月は真ギルドに向かう。
――64階だけでなく、迷宮のモンスター全体に異変が起きている。
その事実に俺は、真ギルドは俺を騙していないのかもしれない、と考えを改める。
騙されたと思わせてからの、実は騙されていなかったという形で俺は騙されていた、と言うことはできるのかもしれないけれど、それは騙され続けた俺の被害妄想でしかない。俺はいったい何と戦っているのか。
住宅街の坂に差しかかったころ、深月が「そーちゃん」とおずおず声をかけてきた。
「わたし、いったん家に帰る」
服ぼろぼろで恥ずかしいから、と言う深月の顔が蒼白で、それがただの口実なのだとわかった。
正直に具合が悪いと言えば、俺に心配をかけると思っている。
「わかった。気をつけてな」
「うん。ありがと」
なら、気づかないふりをするのが優しさなんだろう。深月を一人で帰らせる。
「ああ、無事で良かった!」
真ギルドに入るなり、涙目で安堵を漏らす店主に迎えられた。
やはり騙していたようには見えなかった。
「噂を聞いてとても心配してたんだよ。モンスターが酷いことになっているんだろう?」
ギルドにいた他の人間も心配げに集まってくる。みんな情報が欲しいらしい。
俺は遭遇した出来事をありのままに話す。
やはり昨日までは「緋に染まる者」なんていなかったらしかった。
「でも、落書きがありましたよ」
緋に染まる者に気をつけろ、みたいな落書きがあって、俺たちの恐怖を無駄に煽っていた。
「落書きってなんだろう?」と店主。「誰か知ってる?」周囲に訊ねるけれど、誰もピンときていない。
「マップにも書いてなかったです」
思わず詰問口調になる。
「情報が抜けていたのなら、僕は謝るしかないのだけど、でもそんな特徴的な情報は誰かが報告すると思うんだよなぁ……」
恐怖で幻でも見たんじゃないのかい? と店主は開き直った。
冷や水を浴びせられた気分だけれど、冷静に考えて俺もそのおかしさに気づく。
昨日までいなかった「緋に染まる者」の落書きが、昨日以前にあるはずがないのだ。
――今日になって突然書かれた?
誰が? なんのために?
俺は、まるで演出のように現れては消えた落書きを思い出す。
あれは幻だったのだろうか。
「神がね。とうとう本気になったんじゃないか、って話してたんだよ」
店主が話題を変えた。
「神?」
「桜東波一途だよ。僕たちを追い詰めるために、いよいよ本物の怪物を送り込んできたんだ。お遊びはここまでってことかもしれない。僕たちは一途を舐めすぎていた。神さまになんて始めから抗えるわけなかったんだ。ここまで来られたのも、所詮一途のさじ加減に過ぎなかったんだ」
そんなの無理ゲーじゃねえか、と誰かが吐き捨てる。
確かに「緋に染まる者」の恐怖は規格外だった。とても勝てる気がしなくて、まるでゲームなんかによくある負けるしかないイベントみたいだった。
「もう潮時なんだ」と店主は声を落とす。
「下に戻る階のモンスターはそれほど凶暴じゃないらしい。帰るなら今のうちに帰って、一途に跪けってことさ。もう上に進むのは難しくなった。今後、下もどうなるかわからない。早く身の振り方を決めた方がいいよ」
ギルドを後にした俺は、歩きながら身の振り方を考える。
俺は今後どうすべきか。
一つしかなかった。
俺は可哀想な親友を生き返らせなければならない。
俺を守ってくれた親友を生き返らせなければならない。
かくして俺の意志はへし折られる。
迷宮脱出への意志。
もう下には戻らないと誓った意志。
あんなに固く誓ったはずなのに、まるで銅の剣みたいにぽきぽきたやすく折られてしまう。
運命の前では、俺の意志なんてまるで意味を成さないのだ。
家に戻ると、玄関で深月が倒れていた。
深月はもうぼろぼろだった。
ぼろぼろの服。
火傷に巻かれたたくさんの包帯。
どうして深月がこんな目に遭わなければいけないんだ。
どこかに抗えない運命なんてものを操っている奴がいるとして、そいつを神と呼ぶのなら、俺は神をぶち殺してやりたいと思う。頭を地面に擦りつけさせて「おい、てめえ深月を幸せにしてやれ」と言ってやりたいと思う。
上には進めない。深月もろくに守れない。
俺は何をやっているんだ。




