3章 培養液の中の脳、あるいは
三章 培養液の中の脳、あるいは
真ギルドから帰ってもフル回転で混乱していた頭が、タイマーが切れた扇風機のように、少しずつ回転を落とし始める。
こういうときは寝るのが一番、と解決を休息に求めた深月は、混乱フル回転のまま風呂に入って寝てしまった。深月は強がっているけれど、明らかに疲れている。ここ数日の怒濤の変化に揉まれて弱っている。少し心配だ。
一方、俺は混乱したままじゃ眠れそうにないから、風呂を出ると三階に向かう。
夜風に当たりながら火照った頭と身体を冷まそうと思った。
「まだ寝てなかったのか」
三階のバルコニーにはタナの後ろ姿がある。
空に浮かぶ何かに夢中のタナは答えない。
タナの視線を追うと、空には黄色に光る円があった。
「この街は月も出るんだな……」
もはや驚かない。
そもそも本当に月なんだろうか。月を模した巨大な光源とか。
「そーやくん。月はな、地球のまわりをぐるぐる回ってるんだ」
タナはベランダの手すりに顎を乗せたまま言う。
「理科で習ったのか」
タナの顔の隣に、俺は肩を並べた。
「そーやくんはまたそうやって馬鹿にする」
ぷにぷにほっぺを膨らませて、タナは続ける。
「そして地球も太陽のまわりをぐるぐる回っている。そして太陽も銀河系の中心を軸にぐるぐる回っている。ぐるぐるまわりのどうどうめぐりだ」
「太陽は回ってないだろう」
「うんにゃ、回ってるぞ。太陽というかな、宇宙全体がまわっているんだ。宇宙は常に膨張しながらブラックホールに吸い込まれてる。お風呂の栓を抜くと、水がぐるぐるまわりながら吸い込まれていくでしょ? あれは宇宙がブラックホールに吸い込まれていく図の縮小モデルなんだ」
タナに宇宙を説かれているのは妙な気分だった。
理科がよほど得意なんだろう。
「じゃあ、ブラックホールの向こうには何がある?」
「謎なんだ。ホワイトホールがあって、吸い込まれた分がそこから吐き出されている、と言われているけど、誰かが見たわけじゃない。それにあちしの考えはちょっと違った」
「タナの考え?」
「そう。あちしの宇宙論ききたい?」
「うん」
「ほんとにききたい?」
「ああ」
「では教えてあげる。みんなにないしょだぞ。あちしの考えではな、宇宙の外にはさらにでっかい宇宙があって、その中でこの宇宙はまわっているんだ。そしてそのでっかい宇宙の外にはさらにでっかい宇宙があって、そのさらにでっかい宇宙の中でちっさい方のでっかい宇宙がまわっていて、そしてそのさらにでっかい宇宙は、さらにでっかいでっかい宇宙の中で――」
「タナ、ストップ。混乱してきた。要は、宇宙はでっかくなって何重にも続いていくってわけか」
「そゆこと。宇宙の外にあるでっかい宇宙を宇宙と呼んでいいのかはわからないけどな」
タナの考えでは、大きい宇宙を開けると、中から小さい宇宙が現れるらしい。
そしてその宇宙を開けると、さらに小さな宇宙が現れる――
「マトリョーシカじゃないんだからさ」
「そーやくんは、なかなか鋭いな。そうなんだ多重構造になっているのは、でっかいほうだけじゃないんだ。ほら例えばここに原子がある」
タナはベランダの手すりを指さす。
「おまえは肉眼で原子が見えるのか」
「まあな。ってのはさておき、そーやくんには前、原子の仕組みを教えたな?」
タナが地面に書いていた落書きを思い出す。鳥よけの目玉。アーチェリーの的。
「……原子の中には原子核と電子があって、原子核の中には陽子と中性子がある」
「そゆこと。原子核の陽子と中性子はな、核力って力でぎゅーとくっついているんだ。まるで引力みたいだな。そしてその周りをひゅんひゅん電子が回っている。おやおやこれはなにかに似ているぞ、とあちしは考えた」
タナは紙に原子の絵を描いてみせる。
原子核の周りで電子をぐるぐる回転させた。
「地球と月みたいだ」
「そうなんだ。太陽と地球みたいでもある。これはな、おそらく宇宙の小さいバージョンなんだ。たぶんな、宇宙はちっさい方でもこうやって無限に続いていくんだ。陽子や中性子や電子の中も同じ構造になっているんだ」
馬鹿な、と思う。
「そんなの……かしこい科学者が顕微鏡を覗けばわかるだろ」
「そーやくん、陽子や電子なんかを構成している最小単位の物質を、素粒子っていうんだけどな。それを見れる顕微鏡を人類はまだ作れていないんだ。科学的に考えればこう考えるのが正しいってだけで、誰かが素粒子を見たわけじゃない。だから素粒子の中にはもっと小さな粒子があって、それがこれから発見されていく可能性もあるんだ」
タナは原子の絵の内側に、ぐるぐる円を書き足していく。外側にも書き足していく。
すると、タナが以前地面に落書きしていた鳥よけ目玉が再現された。
「そーやくんにだけこっそり教えるけどな、実はこれが世界の仕組みなんだ。世界は何重もの円で構成されていて、内と外に続いていく。ブラックホールの外も、素粒子の中も、人類はまだ見れていないけど、そうなっているに違いないんだ。どーりで円周率が割り切れないわけなんだ」
考えるだけなら何を考えたって自由だ。
思想の自由はタナにも保証されている。
「ノーベル賞ものだな」と俺は褒めながら、呆れた。
「そうなんだ。これに気づいたとき、あちしはノーベルもらったと思った。でもすでに先を越されていた」
「誰に?」
「密教だ」
「密教って……仏教の?」
「そう。密教の曼荼羅はな、模様が全部円できていて、それが果てしなく続く構図になってるんだ。曼荼羅は宇宙を円で表現した。サンスクリット語のマンダラの意味は『本質を知るもの』。密教は世界の本質にすでに気づいてたんだな。密教やるじゃんって思った」
ただの偶然の一致だと思うけれど。
「でも内側にしろ外側にしろ、永遠に続くってのも限界があるだろ。いつかは終わる」
「限界なんてないよ。じゃあそーやくんは、世界で一番でっかい数字と一番ちっさい数字を言える?」
より大きい数字は、桁をどんどん増やしていけばいい。
99999999999……と考えてキリがないことに気づいた。
一番大きい数字は、世界に存在できない。
じゃあ小さい方は――
「大きい方はともかく、小さい方はゼロじゃないのか」
「ゼロは正確に言うと数じゃないからだめ。あいつはただの無なんだ。だから一番小さい数字を言おうとすると0.0000000000……ってなって永遠に続いていく。同じように小さい円も永遠に続いていく。限界なんてない。そーゆーことなんだ」
合わせ鏡の光景が頭を過ぎった。
鏡に映った像は、二枚の鏡を反射しながら小さくなっていく。
けれど、小さくなりすぎたから『ここで終わり』ってことはない。
「そして外側もおっきくなって無限に続いていく。あちしたちが顕微鏡で原子を覗くみたいに、あちしたちも外側の世界から見られているんだ」
タナにつられて、つい空を見上げてしまった。
こいつ嫌なことを言うな、と思う。
「俺たちはどうやって外側の世界を見たらいいんだ?」
「それは無理なんだ」
「どうして?」
「たぶんだけどな。ブラックホールがこの世界と外側の世界を繋ぐ扉になっている、ってのがあちしの考えなんだけど、ご存じのとーりブラックホールに吸い込まれたものは、木っ端微塵になって無に帰されてしまうでしょ? あれを通り抜けるのは絶対不可能な設定になってるんだ。だって、小さい世界の住人が大きい世界に入ってくるってのは、アニメのキャラクターが作者の世界に飛び出てくるみたいなもので、そんなことありえないし、絶対あっては駄目でしょ。だから大きい世界から小さい世界を見ることはできるけど、逆はできないんだ。神様が人間の世界を見下ろすことはできるけれど、人間側から神様の世界を見ることはできないんだ。この世界が何者かに作られているとして、その何者かを神様って呼ぶとして、あちしたちはいくら空を見上げても神様を見つけることはできないんだ」
――この世界が誰かに造られている、なんてことがあるんだろうか。
神が世界を創造したという思想は、科学が発展すると同時に肩身を狭くしていった。
少なくとも教科書に載っている人類は、自分たちの意志で世界を造ってきた。
「それはほんとに人類の意志なのかな?」
と、タナが答える。
「あちしたちが『自分の意志で決めた』と思っていることが、神様にそう思いこまされているだけかもしれないってことなんだ。神様がどこかで人間って駒を動かしているだけなのに、人間が勝手に『自分の意志だ』って思い込んでるんだ。ゲームの駒が『自分は誰かに動かされているかもしれない』なんて考えることはできないし、動かしている者の存在に気づくこともできない。ゲームのキャラクタが、自分の意志でこっちに話しかけることなんて絶対できないんだ」
「待て……頭が痛くなってきた」
わけがわからない。
俺はまた騙されているのか。と混乱してしまうのは、真ギルドの一件が影響している。
俺は今、必要以上にナーバスになっている。
でも――
「そんなはずないだろう」
その考えは馬鹿げている。
俺は確かに自分の脳で考えて、行動している。
「そーやくんは、すぐ論理的じゃないことをいうんだ。これは人ごとじゃないんだぞ」
「論理ならある。我思う、故に我あり……だっけ」
「デカルトだよね。『今こうして考えている私の存在だけは疑う余地がない』。でもあれって、あちしには解決の放棄による解決にしか思えないんだ。外側の世界なんていくら考えても証明のしようがないけれど、考える私は確かに存在している。デカルトは結局、外側の世界を考えるのを諦めた。ウィトゲンシュタインも『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』って、その議論自体が無意味だとして蓋をした。外側に神が存在する可能性は、誰も証明できなかったんだ」
――こいつなんでこんなに詳しいんだ?
不思議というより、不気味だった。
月明かりで見るタナの表情は妙に大人びていて、いつもと違う生き物に見える。
誰だ? お前。
「タナ。お前、なんか変だぞ……」
タナは、はっと我に返ったように顔を上げた。
いつもの子どもらしい表情に戻っている。
「変なのは……今日のあちしが悲しいからだな」
「悲しいって、何かあったのか?」
タナがうつむいて、沈黙が流れる。
雲に陰る月。髪をかき上げたタナが妙に艶めく。
「……あちしな。そーやくんたちとはもう一緒に行けないんだ」
驚く。
「なんでだよ。迷宮脱出して一緒にだんご食べようぜ」
タナは困っていた。
「モンスターが恐くなったのか?」
首をふるふる横に振った。
「ごめんな。ぎょーむじょーのつごーなんだ」
「それを言うなら一身上の都合じゃないか? ってか本気なのか?」
タナは何も話さなくなってしまう。
――俺はタナを振り回していたんだろうか。
俺と深月には脱出の意志があったけど、タナに脱出の意志を確認したことはなかった。
タナはおそらく俺たちについて来たかっただけだった。
「タナはこの迷宮に残りたいのか……」
こくりと頷いた。
「あちし、本当はここから出たくないんだ。できればずっとここにいたいんだ。けど……」
――この迷宮にくる人間は、みんな何かしら傷を持っている。
地上には、タナを帰りたくないと思わせるどんな残酷がある?
なんだか不憫になって、小さな頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
「でも……タナ、一人で大丈夫か?」
「あちしはもう二二歳だぞ」
そのネタはもう笑えない。
でも、タナなりに場を和ませようとしているのかもしれない。
「そーやくん」
「どした」
「これから辛いことがたくさんあるかもだけど、絶対負けちゃだめだからな」
「嫌なこと言うなよ」笑う。そして「タナもな」
「うん。あとな、みづきちゃんはほんとーに良い子だから大事にしてあげるんだぞ」
言われなくてもわかっている、とはタナが相手でも言えなくて、無言で頷いた。
タナの口ぶりに感じる妙な温かさ。これはなんだろうと考えて、大人が子どもを心配する言葉だと思い浮かぶ。例えば子を思う母の言葉。俺にはわからない例えだけど、世の中にこういう言葉がたくさん溢れたらいいと思う。
――今日は一緒に寝たい。
その要望を聞き入れて、俺たちは二人仲良くベッドに収まる。
「なあ、タナ」
俺はずっとタナに訊きたかったことがある。
「タナはなんでウチを選んで来たんだ?」
「そーやくん、それを訊くのは無粋ってものだぞ」
まあ、恐らくそうなんだろう。
「そーやくんたちが大好きだったからに決まってる」
出会った翌日にベッドに潜り込める好意は熱い。
冷めやらない夜の熱の中、俺はタナの容赦ない抱擁に包まれて眠る。抱き枕もなかなか辛い仕事だ。冬ならこいつ温かいかもなと抱き寄せて思うけれど、俺にタナと一緒の冬は訪れない。
朝起きると、タナはその姿を消していた。




