Believe it
東の六五は、西の住宅街の東地区にある六五番目の家、という意味らしかった。
東二七の家を見つけて、二八、二九……と順番に丘を上がっていく。
二〇分ほどで「水無月深月」の表札が下がった家を見つけた。
「ごめんなさい……」が玄関を開けた深月の第一声だった。
「無事で良かった」とだけ返す。
「やっぱり連れ戻しに来たんだよね……」
勿論。
「浅月に会いたいってのはわかるけど……でも楽園で助けを待った方が賢明だと思うんだ」
「助けって……誰の?」
「地上からの?」
「助けなんて本当に来るのかな……」
「でも、あの楽園で待つなら悪くないだろ」
深月は眉をひそめた。
「わたしは……あの街には戻らないよ」
「どうして?」
「……そーちゃんはやっぱり洗脳されてる」
「洗脳って、なんだよ」
「一途に洗脳されてる」
一途さまを呼び捨てにする深月に戸惑う。
「お前、湯田に何を吹き込まれたんだ」
「湯田さんだけじゃない。ギルドの人たちはみんな言ってる。この世界は全部、桜東波一途が仕組んだんだって」
「仕組んだ!?」
俺は吹き出す。
「そう、仕組まれてるの。神隠しも、迷宮も、モンスターも全部桜東波一途の仕業なの。一途はわたしたちを76階の街にさらってきて、縛り付けようとしているの」
突拍子のなさにため息が出た。
矢夜也が言っていた「口に出すのも馬鹿らしい陰謀論」ってのはこれか。
「一途さまが、なんのためにそんなことするんだよ」
「詳しくはわからない……けど、一途はあそこに自分の理想の世界を作りたいんじゃないかって。理想の世界の神になりたいんじゃないか、ってみんな言ってる」
スケールが壮大になってきたな、と思う。
一途さまがこの街や迷宮を作って、傷ついた人間をさらってきて、そこで神になろうとしている。
だとしたら桜東波一途は、どれだけ大富豪で大犯罪者の暇人なのだろうか。
「そんなのどう考えても不自然だろ」
「不自然なんて言ったら他にもたくさん不自然だよ。脱走者ギルドにいるのは、あの楽園に疑問を持って、脱出しようとしている人たちなの。湯田さんはそういう『目覚めた人』を76階から66階に導いてくれてるの」
「ちょっと待て、洗脳されてるのはお前の方だ」
「そーちゃんこそよく考えて。迷宮に罠があったり、モンスターがいたりするのは、わたしたちが逃げられないように誰かが用意したって考える方が自然だよ。再生の能力――の仕掛けはわからないけど、一途はあの力を利用してみんなを76階に縛り付けようとしている」
深月は変な連中に洗脳されてしまっている。
憎むべきは湯田なのだろう。
「一途さまがそんなことするはずないだろ?」
「なんでそう思うの?」
なんで……なんで?
「……あんなに優しそうな人がそんなことするはずないだろう」
「ほら、そーちゃんは洗脳されてるから気づかないんだよ。わたしの言ってることより、自分の言ってることの方が論理的じゃないって気づけない」
一瞬考える。
俺が一途さまに信頼を置く根拠はどこにあるんだ。
物腰が優しいから?
立ち振る舞いが謙虚だから?
皆に慕われているから?
司祭服を纏っているから?
教会にいるから?
「お前のこと生き返らせてくれたのは、誰だと思ってるんだよ」
そうだ。深月が生き返ったときは本当に嬉しかった。
一途さまが神に見えたのはあのときだ。
「奇跡を見せて人を勧誘するのは、昔からある宗教のやり方だって、湯田さんが言ってたじゃん。モンスターも罠も、一途が仕組んだんだとしたらただの自作自演だよ。わたしは生き返らせるために殺されただけ」
言葉に詰まる。
俺の信仰が少し揺らぐ。
だが崩れるには至らない。
仮にそうだったとしても、全てが桜東波一途の陰謀だったとしても――
「でも、俺はあの楽園が嫌いじゃない」
桜東波一途が作ろうとしている世界は魅力的に思える。
こちらに利益がある陰謀なら乗るまでの話だ。
「そーちゃんは、あの地下76階の街にずーっといられれば幸せだと思ってるの?」
「逆に、何が幸せじゃないと思ってるんだ?」
「確かに、みんな優しいし、食べ物はタダだし、あの街で生活するのは楽かもしれないけど、それが幸せかって言われたら、わたしはちょっと違う気がする」
「なにが違う?」
「あの街の幸せは長続きしない気がするの。最初は楽だーって思うかもしれないけど、そこから先がない気がするの。楽なのを幸せと錯覚してるだけというか、『楽』と『幸せ』はイコールで繋いじゃいけない気がするというか」
「なんだよその『アリとキリギリス』みたいな」
楽は悪、苦労は善。だからみんな社会のために苦労して働くべし、みたいな考えが童話で語られるのは少し恐い気がする。目いっぱい遊んで苦労も知らずにぽっくり死ぬのなら、キリギリスの人生も意外とありなはずだ。
「でもやっぱり、私は自分で苦労して作った野菜の方が美味しいと思うし、自分でお金を貯めて買ったお洋服の方が嬉しいと思うの。努力もしないで幸せになろうなんて、やっぱり甘いよ」
マゾっぽいな、と思う。
自分たちで並べたドミノを自分たちで倒して、大成功→感動のフィナーレみたいなマスターベーションはあまり好きになれない。しなくていい苦労をわざわざ作り出してまで俺は喜びたくない。
「じゃあ本当にもう76階に戻る気はないのか?」
「わたしは地上に戻りたい」
深月の意志は強い。
「でも、上に行こうとしても湯田さんは76階に帰っちゃうし、酒場の人たちはなんだか恐いし、わたし一人じゃ76階の街にも戻れなくなっちゃって、どうしていいかわかんなくなっちゃって……」
立ち往生。
「なあ、やっぱり76階に帰ろう?」
「でもわたし、浅月に逢いたいよ……」
ちょっと不安定になってしまった深月を二階で休ませる。
俺と深月の議論の席から退屈そうに抜け出したタナは、三階のベッドに勝手に陣取って眠っていた。三階好きだなこいつ。
今日はこの家で休むことにする。深月を見失うのはもうごめんだ。
俺は一階のソファに寝そべって考える。
――地下76階での楽園生活と、地上での明るくない未来。
天秤にかければ、どちらに傾くかは明らかだ。




