Trap it
「そりゃ知らないうちに来てた、ってこともあるんじゃないですか?」
「街の案内役として、できるだけ把握してきたつもりなんだけど……」
怪訝がる矢夜也を先頭に、迷宮への門扉をくぐる。
久しぶりの迷宮は相変わらず辛気くさい。
石壁に滲んだ土臭さ。停滞した空気のかび臭さ。
「換気というか、空気を入れ替えたくなりますね」
「なんか肺の奥まで侵されそうよね」矢夜也が同意する。
慣れた足どりですいすい進む矢夜也に、タナの手を取りついて行く。
壁に張りつくランタン型ライトは照量不足で、平らではない足下が危うい。
「転ばないようにな」
「うん」
タナに注意を促しつつ自分がコケそうになりながら、曲がり角の死角を気にする。
モンスターがいつ飛び出してくるかと、ホラー映画みたいに緊張するけれど、そんな俺の恐怖、警戒、慎重、が交錯した忙しさを置き去りにして、矢夜也はさっさと行ってしまう。
と、75階への階段にあっさりたどり着いた。
「ちょっと、早いですって」
一階層を攻略するのにかかった時間は一〇分足らず。拍子抜けだ。
「この辺の地図は頭に入ってるもの。66階までなら迷わず行けるわ」
――これは意外と楽勝じゃないですかねぇ……。
緊張が削がれる。
モンスターと戦いながら一階一階攻略していく絵図を、勝手に思い描いていた。
「迷宮って、もっと大変なものかと思ってました」
「マッピングするまでが大変だったのよ。この容易さは今までの苦労の上に成り立ってる」
「モンスターがいなければ、もっと楽だったんでしょうね」
矢夜也が眉をひそめた。
「ちょっと寄り道しましょうか」と75階に出てすぐの角を左に折れる。
「その子の手、絶対離さないでね」
折れた先は直線が伸びていて、突き当たりに扉があった。
――なんの部屋だろ。
76階では扉の先に街があった。
もしかしたら各階に街があるのだろうか。
期待に足を速める俺を、矢夜也は「私の前に出ないで!」と押しとどめる。
「ストップ!」
矢夜也は扉の一〇メートルほど手前で立ち止まり、足下に何かを探し始めた。
少し前方に、石で擦ったような白い線が引かれている。
「あ……この臭いやばいかも」
言われてみれば少し獣くさい。
「ちょっと、その子もっと後ろに下げて」矢夜也に言われて、タナと後ろに下がる。「もっと後ろ!」
矢夜也は足を伸ばして、白線の先の床をバンと叩いた。
と、床が自動ドアのようにウイーンと開いた。
――落とし穴?
「あちゃー」穴の先を見て、矢夜也が首を振った。
何があったのか興味がある。
近づこうとすると「待った!」とまた矢夜也に押しとどめられた。
矢夜也は何か考えていた。
「そうね……君は見ておいた方がいいかもね。その子はそこに置いてきて」
あちしも見たーい、というタナを矢夜也にバトンタッチで預けて、穴に近づく。獣臭さが強くなり、思い出す。これは獣の臭いじゃなくて、血の臭いだということ。古くなった血の臭いだということ。
人の力ではちょうど這い上がれないくらいの深さの底で、人が死んでいた。
暗い穴の底は、何でできているのか知らないが、クリスマスにかぶるサンタ帽のような三角錐でびっちり埋まっている。サンタ帽を思い出したのは、その三角が血で赤く染まっていたからだった。
ぼんやりとした薄暗さの中で屍体と目が合う。
暗いのに、目も口も開きっぱなしの表情がわかる。驚いたまま死んでいるようだった。というより、本当に驚いたまま死んだのだろう。
禍々しさに捕らわれ固まっていると、落とし穴がすうっと閉まった。
「この落とし穴、引っかかる人が多いのよ」
いつの間にか、後ろに矢夜也がいた。
何も知らないで75階に上がった人間は、まずひっかかる罠らしかった。
「この迷宮に連れてこられてうろうろしてるうちに、街より先に階段を見つけちゃう人がいるのよ。で、階段上がってすぐの角の先にあの扉があるでしょう? ひっかかるなってほうが無理よね」
ちなみにあの扉はダミーよ、と矢夜也は言う。
壁に扉がくっついているだけらしい。なんと悪質な超芸術トマソン。
「見たこと無い顔だったから、あの人も最近迷いこんだのね。こんなことがないように、迷宮をまめに見回るようにしてるんだけど……」
思い返せば、深月を背負い迷宮を彷徨っていた俺を見つけてくれたのは矢夜也だった。
矢夜也は胸ポケットから小型のノートを取り出す。
開いて見せたのは、この迷宮のマップだった。
罠の位置は赤で特に目立つように記されている。
『落とし穴』『壁から槍』『毒ガスの部屋』……。
「モンスターがいなければ安全、ってことはないのよ。この辺なら死んでも一途さまにすぐ生き返らせてもらえるけど、一途さまから離れるほど生き返れなくなるリスクが高まる」
骨の折れる作業だと思う。どこにあるかもわからない罠と一階一階戦って、もし死んだら生き返らせるために76階まで戻らなければならない。迷宮攻略を意外と楽勝だ、とか言う奴がいるなら考えを改めた方がいい。
「一途さまに少しづつ上の階に来てもらうことはできないんですかね」
――拠点を上に移しながら、攻略すればどうだろう。
「馬鹿。モンスターも出始めてるのに、一途さまに何かあったらどうするつもりよ。一途さまが一途さまを生き返らせることはできないのよ」
もっともだった。
この迷宮の気楽さは「死んでもどうせ生き返れる」という安心に基づいている。その安心の支えである一途さまがいなくなってしまったら――そう考えると、とても楽観的ではいられなかった。
「だから無理に迷宮を攻略しようなんて考えないで、楽園でほのぼの暮らすのが一番幸せなのよ。あの街にはなにも不自由がないでしょ」
深月ちゃんをよーく説得してあげてね、と矢夜也にノートを渡された。
「それ、貸してあげるから」
「いいんですか?」
「貸すだけよ。万が一はぐれたときのため」
屍体はそのままにして場を離れた。矢夜也があとで自警団と回収にくるらしい。今は屍体を穴から引き上げる道具もないし、いずれにせよこのメンバーでは手が足りない。
それに屍体には申し訳ないけれど、今は深月が心配だ。
「深月大丈夫ですかね……」
ノートに書き込まれた罠の多さを見るにつけ心配になる。
「湯田が一緒なら問題ないでしょ。66階までの道なら奴の方がよっぽどエキスパートだわ」
「何者なんですか、湯田って」
「奴は楽園から脱出しようとする人を探しているの」
帰る方法を探そうとしたから、深月も目を付けられたのだろうか。
「66階の街は『脱走者の街』って呼ばれてる。湯田の仕事は、その街の脱走者ギルドに脱走希望者を導くこと。ギルドはこの迷宮の攻略を目指している――らしい」
「どうしてそんな危険なことを」
上に行くほど一途さまが遠くなるのに。
「そこまでして帰りたいもんでしょうか……」
「さあね。でも単に帰りたいってだけでもないみたいよ。彼らの掲げる陰謀論は無茶苦茶だわ」
「陰謀論?」
「まあ戯れ言よ。聞いたらアホらしくなる。被害妄想もいいとこだわ」
――深月はそのアホらしい戯れ言を受け入れたんだろうか。
「いったいどんな陰謀だって言うんです?」
「口にするのも憚られるわ」